第100話 二度目の初恋のゆくえ。

 記憶障害を起こしたあの日から、気がつけば三年の月日が流れた。


 結局、アニメや漫画のような奇跡は起きず、私がここまでで取り戻せた思い出は、数えるまでもない僅かなものとなっている。


 過去を懐かしむことはあっても、それでも、忘却した記憶に、もう嘆くことはない。


 だって私たちは、失った記憶に負けぬくらい、濃密な時間を過ごし、再び積み重ねてきたのだから。


 私はあの後ペットショップを退職して、ウサのお父さんの動物病院で看護師兼しつけ教室の講師として働き、その一年後、当初より予定していた独立のため退職、今はトリミングの勉強もしつつ、ソロの家庭犬トレーナーとして、車で県内を巡っている。


 アルバイトの時と違って、上司もいなければ部下もいない、たった一人で犬と、飼い主さんと向き合わなければならない。けして気の抜けない仕事だけれど。今はとても気に入っているし、自分にも合っているんだと思えるようにもなってきた。


 肝心のカメさんとの交際は、まあ、言うまでもないことかもしれないけれど。


 私がソロでの活動を決めた頃に、都内のマンションを借りて同棲することになり。今は、念願だったパグ犬を一頭迎えて、二人と一匹で仲良く暮らしている。


 彼は、変わらずにIT企業に勤め、三年経っても歪みない童顔眼鏡、穏やかで、愛犬にはべったり甘い。


 少し変わったことをあげるとすれば、最近肉づきがよくなってきたぐらい。



「そっか……あれから三年くらいかあ、早いもんだな」


 ねじ込んだトーストを咀嚼し、コーヒーを口に含み、ベランダに展開している多肉植物コレクションに、ジョウロで水をやってしみじみ呟くと。


 こまちを抱えたカメさんが、窓辺にしゃがんだ私の隣にちょこんと座ってきた。


「今までの三年間、どうだった。」

「どうって、いきなりそんな感想求められても」

「ミツルー、そこは楽しかったって、ありきたりでもいいから言おうよー」

「いや。そんなありきたりすぎる言葉は使いたくない。ありきたりな言葉で纏められるくらい薄っぺらではなかったですから」

「そっか。じゃあ、ミツルにとって凄く良かったってことだね」

「まーそりゃあ……」


 二度目の初恋、実っちゃいましたからね。


 なんて言えず、語尾を濁すと、私の形にならない声を包むように、カメさんは白い息の舞う窓辺でキスをした。


「あ、朝からなんなんですかもう」


 便乗して私の頬をべろんと舐めたこまちの額にもキスをするカメさんに、私は赤くなった耳を髪で隠しながら体を引く。


「ミツル、今日は早く帰ってこれるの」


 そんな私にカメさんは朗らかに笑って言う。


「はあ? ……ま、まあ、今日は、二丁目の鈴木のオバちゃんちなんで、早いと思いますよ」

「じゃあ、今日は早く帰ってきな」

「なんで」

「なんでも。いいことあるから」


 そう言って、カメさんはこまちの首にハーフチョークと赤いリードをつけて、私を送り出す準備をする。


 マフラーをぐるぐる巻きにして、スニーカーを履き、アシスタント犬として同行させるこまちを脇抱えにして、ドアを開ける前にもう一度振り返って、彼が何を企んでいるか尋ねたが。


 カメさんは口元を緩ませてゆっくり首を横に振るだけだった。


「今日休みですもんね。なんか良い肉でも買ってくるつもりですか」

「さてどうかな」


 はぁあー、なんか腑に落ちないな。


 と、まずい。そろそろ行かないと。本当に遅刻しそう。


「いってきます。カメさん」

「うん、いってらっしゃいミツル」


 今日も笑顔で送り出してくれる彼に。私も、恥ずかしがらずに自然な笑顔で返し、寒空の下へと飛び出した。


 人は一生のうちに何度も恋をする。


 けれど初恋は人生で一度きり。


 記憶障害を起こして、二度の初恋を経験したのは、もしかしたら、世界で私ひとりだけかもしれない。


 そうだとしたら。たとえ残念な話だったとしても、なかなか他でできない貴重な体験をしたと思える。そんな呑気な思考になれるほど、私は今、幸せだ。


 しかし。めでたく実った恋が、今日この日を境に、突然終わりを迎えるということを、この時の私はまだ知らない。


 ああ。終わりって、破局って意味ではないのでご心配なく。


 背負い投げされて。

 頭を打って。


 とんでもない人生がスタートしてしまった。


 誰かを好きになることをもう一度思い出す。


 これは私だけしか知らない。

 二度目の、初恋の話。





《完結》


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君にもう一度、◯◯と言う。 天野 アタル @amano326

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