魔導装兵の掟
■名前:ケイシー・ラインス
■性別:男性
■居住:D級地区外郭基地
■職業:八式魔導装兵士
■市民番号:※※※※※※※※
ケイシー・ラインスは恐怖していた。
人間の最も動物的な部分から激しく訴えかけて来る、目眩がするような感覚だ。汗を大量にかいているにも関わらず、戦闘服の内側の体が冷えているのが分かる。首の後ろの接続端子周辺が少し痛む。底冷えするような空気が固い床から這い上って来て、両足に重くまとわりついている。
精神と肉体の疲労具合からすると、魔弾を撃てるのは後二、三発。詩式構成の強力弾となると、一発撃つのも難しいかもしれない。ケイシーの兵士である部分が冷静に考えている。
これは訓練だ、訓練だったはずだ。死ぬ事はない。頭は分かっていても、体は理解していない。頭防具が重く感じる。何度も繰り返し行われた浅い呼吸が内側にこもって、湿気を帯びた空気が口の周りに張り付いているのが分かる。同じく訓練用に調整された魔銃をぐっと握り締め、やや薄暗いフロアの中壁を背にして息を殺す。
訓練のルールはシンプルだ。攻撃を当て、相手を倒す事が目的となる。床に倒れた者はロスト(死亡判定)。出来る限りの味方を維持しつつ、敵役をロストさせれば勝ちだ。
ケイシーの所属する第五小隊の隊員は現在ロストが多く、フロア上にはちらほらと黒い人影が倒れている。一方、たった一人の白い敵役はまだ二本の足で立っていた。
「犬の餌にもならんぞ!」
今回の敵、『魔物堕ち』した仲間の兵士という設定である、リーベンス大尉が吼える。区別できるよう白の訓練用戦闘服を身に纏った姿だ。訓練施設の中心にある開けた場所で、怒鳴りながらうろついている。さながら、檻の中に放り込まれ興奮している野生の猛獣だった。獣という例えは間違っていない。この時の大尉は、決して人間には有り得ない部位が存在している。
左手には鋭く黒い爪があり、手袋に包まれた指先を突き破っている。頭防具をしていない為によく分かるが、両耳の上辺りには立派な角が生えていた。辛うじて顔面は人間らしい様相をしている。リーベンス大尉らしさと言ったら、いつも顔の左側につけている黒の眼帯だけだ。
「この私が、魔物に堕ちかけていると言うのにこの様か? 頭を狙え、頭を!」
これは『魔物堕ち』した人間を模した幻影であると、ケイシーは上から教えられている。目の前の人形が喋っているように見えるが、実際はそうではない。喋っているのは、この幻影を被っている大尉だ。
犬に似た鋭い歯がずらりと並ぶ口が、まだ人の形を保ち言葉を話すのが冗談のようだ。しかし実際は人間の言葉を話しているのも今の内だし、中身もどんどん本人から離れ、魔物のような姿に変質していくのだ。戦場では仲間が突然『魔物堕ち』する危険が常に隣り合わせで、訓練などをして最悪の状況に慣れなければならない。なにしろ素体が兵士であるから、一般人より余計にタチが悪い。
相手が何であろうと、計器が『魔物堕ち』と判断したら迅速に倒さねばならない。自爆装置が作動しなかった場合、そうするしかない。これが魔装兵の絶対規則だ。『魔物堕ち』は人間が魔物と似た者に変質してしまう状態であり、人間が魔法を扱う時の負荷に耐えられなくなったりした時起こる。そうなれば手当たり次第に人を襲い、吸収して力を増し暴れ回り、決して人間に戻る事はない。強制変換にその身が耐えきれず崩壊して、物言わぬ肉塊になるまで、喰いまくる。ひとつの例外もなく。かつて仲間だった人間はもういない。もういないのだ。
「そんな腑抜け共は、一生隠れているのがお似合いだな! そしてコイツに喰われてしまえ!」
姿形が異様なので、叱咤の言葉も恐怖倍増である。本人も予定以上に興奮し過ぎているのではないか。あそこへ出て行けば一瞬で八つ裂きにされてしまう。生き残っている者は誰もが、各々の得物を抱え、身を潜めながら思っていた。
「違うと言うなら、悔しいと思うなら見せてみろ! 私を殺せ! 正義のために!」
何処からか飛んできた、恐らく渾身の詠唱を込めたであろう詩式魔弾。その強烈な攻撃に敵が気を取られた直後、一番近くに身を潜めていたナターリャ・ラグスロヤナが静かな叫びと共に行った。
いや、ナターリャが逝った。
敵を撃ち抜くはずだった魔弾はナターリャに当たる。しなやかに鍛えられた女の体が、投げ飛ばされて大きく一回転していく。驚きに見開かれた彼女の青い瞳は、鈍やかに光る訓練用長剣が手から離れるのを捉えていただろう。ゆっくりと宙に舞う一瞬を、他人事であると錯覚していたかもしれない。
戦闘服の重みが付加された衝撃が、投げ出された体の正面を容赦なく襲ったのも一瞬だった。気づけばナターリャは、うつ伏せの状態で床に叩きつけられていた。ナターリャの勇気を無駄にさせまいと、また別のところから魔導弾の光が放たれる。あれは多分、マックだ。だが、敵の背を突き破り突然伸びてきた触手によって、頭部を貫くはずだった渾身の一撃は弾かれてしまう。何だ、あれは。
それを見て程なく、殺気めいた無数の針を突き立てられる感覚が、背中から脳天へと這い上がって来た。ナターリャには見えなくても分かるだろう。彼は今、血に飢えた肉食獣の目をしている。背中が更に割れて、触手のようなものが何本も現れ、ゆっくりと虚空に広がる。何だあれは。駄目だ。仲間だと思っていては駄目だ。助けられないだろうかと縋っては駄目だ。ナターリャが懸命に起き上がろうとするが、上手くいっていないらしい。
「立て」
静かな声がした。
もがくナターリャに爪先を容赦なくめり込ませ、乱暴に仰向けにさせる。この男が戦闘及びその訓練行動において、何か理由をつけて必要以上の手加減をした事はなかった。何度も戦場を駆けた彼は、体に深く刻まれた傷を以て知っていたのかもしれない。縋るような期待や慈悲は、必ずや死神を連れて来る事を。
大尉は、いや『魔物堕ちした兵士』は、魔銃を構えながら彼女の腹部に白い足を乗せる。泥の中で尚激しい、地獄のような戦いをまだ知らないケイシーには、大尉こそが悪夢そのもののように映った。
「立て! この屑!」
ナターリャに反応はない。ぎゅう、と、固い靴の裏としなやかな戦闘服の表面が擦れる鈍い音がする。
「魔物の餌になって無様に死ぬのか! 死を以て目の前の仲間を救ってやれないまま! 貴様はそれで満足か!」
大尉は更に声を荒げた。
「いいえ……ッ」
腹を圧迫されている苦しさか、自身の力量不足に対する悔しさか、食い縛った歯の隙間から小さな声が絞り出される。彼女の片手が縋るのに似た動作で、白い足首を掴んだ。
「そうか」
しかし抵抗は叶わず、冷えた声と熱い閃光が彼女を襲う。全員の耳を鋭い音が貫いた後も内側に余韻が残って、それも程なく虚空に溶けていった。中心を近距離で打たれたナターリャは、呻いたきり脱力して今度こそ動かなくなる。訓練用の無害とは言え、当たればそれなりに痛い。戦闘服で全身を固められていても、弾が当たって平気な訳がなかった。
『004、ロストしました』
こちらの被害は大きい。向こうは一人な分、相当ダメージが溜まっているはずだった。しかし消耗している様子はあまりない。見せていないだけかもしれないが、少なくともケイシーはそういう印象を受けた。用意されたこの敵にどれほどの精神力と体力があるのかを考えると、降参したい気分になる。
だが降参は許されない。制限時間までにこちらが全滅するか、あちらが倒れるかだ。魔物は人の言葉が分からない。交渉もできないし、慈悲もかけない。こんなやり取りは全くできないし、訓練だからと待ってもくれない。実際には。
大尉はナターリャが動かなくなった事を確認すると足を離し、少し遠くに落ちている彼女の剣を拾い上げる。拾いはしたが、すぐに興味をなくして放り投げた。がつり、がつり、と重い音が木霊する。
「そろそろ私が完全に駄目になった頃だぞ! ちんたらするな!」
大尉は自身の銃を手の中で少し遊ばせたかと思えば、適当な場所へと魔弾を放つ。
「ひいっ……!」
ケイシーの隠れている壁に衝撃が当たり、頭上からパラパラと欠片が落ちてきた。バレている。適当に撃ったかに見えて、残りの隊員達が何処に潜んでいるか検討がついているようだ。あるいはそれがはったりでも、戦闘意志を殺ぐ効果を与えたかったならば成功だろう。
獣の砲吼が響く。それが反響してケイシーを取り囲んで行く。気づけば心臓の音が、嫌に近くに聞こえるのが分かった。合流しようとした矢先、目の前で仲間が崩れ落ちる。やられた。ケイシーを含め残るは三人。まずい事になった。
『002、ロストしました』
アナウンスはひたすら事務的で、耳に入ったかどうか定かではない。もう終わってもいいはずなのに、敵の行動は止まらない。急いで別の場所へ移動しながら通常射撃を数発打ち込むが、ケイシーには細く伸びた頭髪の先しか見えなかった。弾は全てが壁に当たって、目に痛い魔素独特の光が散った。
「何だあの動き……人間じゃ、ない……!」
早い。
敵は、まるで瞬間移動でもしているかのような動きを見せる。再現の甘い訓練用疑似魔物にはなかなか出来ない高度な機動だ。『魔物堕ち』した人間は、ここまでの動きを見せるものなのだろうか。熟練の魔導装兵士は、ここまで人間離れしているのだろうか。いいや、あり得ない。こんな存在は人間と言えない。化け物だ。そうでなければ、なんだと言うのか。
『005、ロストしました』
遠くの方で短い悲鳴混じりの打撃音が響く。仲間がどうなったかを慮る余裕など、ここへ配属されてまだ数ヶ月のケイシーにはなかった。
「最後だ、六番」
『006、ロストしました』
何が起こったか分からないが、アナウンスが言う事にはケイシーは『死んだ』らしい。突然頭上から光の雨が落ちてきたのだ。それから。
訓練終了のアナウンスと共に落とされていた照明が全てつけられ、ちくちくと刺すような感覚が眼球をつついた。前方には高い天井が見える。どうやら仰向けに転がっているようだ。体が重い。
大の字になったまま起き上がれないでいると、これまた目に痛い白の戦闘服が覗き込んで来る。逆光ではっきり細部が窺い知れない眼帯の奥が、やけに青く発光していた。冷えた魔素の気配をたたえてこちらを見つめている。
「ああ、駄目だな。お前ら、全員死んだぞ」
息が上がっているのがはっきりと分かる。敵の正体が悪夢ではないと知る。彼もやはり自分達と同じで、激しく動けば疲れるらしい。それもそうだ。この男は幻影を被っていただけなのだから。現に頭の角や触手といった異形部位は、綺麗さっぱり消えている。
何か返事を返そうか、とちらと考えたものの、頭の中までもが鈍い痛みに包まれていて口を開く気力もない。ケイシーは頭防具に包まれた後頭部を、フロアの床にかつりと重ね、荒くなった息を整えようと大きく呼吸を繰り返すしか出来なかった。
『リーベンス大尉。本気を出しすぎです』
相変わらず感情の分からないアナウンスの声。ケイシーには、少し厳しさが含まれているように聞こえた。周囲の様子を見渡した隊長は、ううむ、と微かな唸り声を漏らし、倒れたままの若い兵士に背を向ける。何を思ったのかは分からない。足音がゆっくりと、離れて行くようだ。
天井の光はうっすらとぼやけて、ゆらりゆらりと揺れていた。
八番都市の群像 政木朝義 @masa-asa
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