外の世界



■名前:アリス・エリンジャー

■性別:女性

■居住:外郭基地麓のスラム街

■職業:資源拾い(自称)

■市民番号:????????



 得る物は何もなくなり、人の寄りつかなくなった瓦礫の山。形もさまざまな錆びきった機械の部品、カビだらけの割れた木材、破けたプラスチックの袋、毒々しい色の液体。色々な廃棄物。

 上の方には、十代半ばの少女が座っていた。伸びてきた前髪を指でかき分けてから、痩せた白い手を翳す。アリスの視線の先には、黒色をした高い塔が等間隔で建っている。スラムの大人達は皆、あの辺りに魔導結界が張ってある、と言っている。魔導結界の向こうに外の世界がある、というのも、大人から聞いた話だ。では、外の世界はどうなっているのか。一体何があるのか。誰に聞いても鬱陶しがるばかりで、誰も教えてくれなかった。恐らくは、誰も知らないのだ。

 外郭基地の麓にあるスラム街には、いつも陽が当たらない。結界の外が魔霧に包まれているから、太陽も見えない。アリスは、太陽という名前しか知らない。スラムで一番の年寄りすら、実物を見た事がない。だから太陽の詳細を聞いても、鬱陶しがられるばかりだった。恐らくは、誰も知らないのだ。


 この場所が薄暗いのはいつもの事だし、今日の風は抜群に機嫌がいい。外郭基地麓におけるいい風とは、魔素臭さが少ない風を指す。魔素は危険だ。あまり吸いすぎると、病気になって死んでしまうらしい。

 周辺に誰もいないのを確認し終えたアリス・エリンジャーは、瓦礫の山を慎重に降りて行く。ボロボロの靴が脱げないように気をつけながら。



 崩れ落ちたボロ小屋を抜けた先に、コンクリートの構造物があった。いつ何の目的で建てられたのか分からないが、アリスにとっては問題ではない。重要なのは、雨風を凌げるか、何かを隠せるかどうかだ。隠すものといえば食べ物や貴重品だが、彼女の場合は違った。

「やっと晴れたね、マーマ。長い嵐は終わったみたいだよ」

 奥の暗がりへとアリスが声をかける。すると、まー、という返事が返ってきた。人間の言葉ではなく、動物の鳴き声だ。人間の声に似てはいるが、言葉は喋れない。まー、だとか、ままー、と鳴くので、アリスが勝手にマーマと名づけた。時々おーい、とか、にげろー、とか鳴いたりもするが、名前にするには不穏だった。マーマが一番可愛い名前だ。

 足音は、大柄な人間ほどの重みがある。どことなく人に似ている獣の顔が、ゆっくりと浮かび上がる。アリスと目が合った直後、一体の魔物が飛び出して来た。皮膜に包まれた大きな前足を何度か羽ばたかせれば、力強い風が巻き起こり土埃が舞う。アリスは思わず笑い声をあげて、煙のせいですぐに咳き込んだ。


 一時の興奮状態から戻った魔物は、少女に向かって長い首を伸ばす。長い鼻先を撫でてやると、魔物は嬉しそうに鼻を鳴らした。ひとしきり撫でられた後は、少女の側に腰を下ろす。

 少し不気味な顔立ちをしているが、大人しい魔物だ。少なくともアリスや、アリスの仲間達に対しては。全ての魔物が人を食うなんて嘘っぱちだ。ふかふかの毛が生えた大きな体で暖めてくれるし、狩った獲物を分けてくれるし、小型魔物や野犬から守ってくれる。外郭基地の兵隊やスラムの大人達より、ずっと信頼できる。




「まあったく、久しぶりのいい天気だからって、今日の仕事もほったらかして行っちゃうなんてさ!」

 まだ声変わりの来ていない少年の声が、突然響き渡る。現れたのは、痩せた子どもの影だった。片手に銀色の小さな棒を二本握っている。彼の名前はジャンだ。銀色の小さな棒は、いつもの配給食料。

「しかも、はいきゅー忘れてんぞ。おまえの分までもらってくるの、大変だったんだからな」

 ジャンは慣れた手つきで、配給食料のひとつを投げて寄越す。アリスは難なく受け取った。

「あ、今日だっけ。はいきゅー」

「信じらんねー。飯よりその気味悪い魔物の方が大事なわけ?」

「気味悪くないもん。よく見なさいよ、この心優しい綺麗な瞳を。力強い翼を! いつか私はマーマと一緒に、外の世界へ冒険に出かけるんだから!」

「また言ってる」

 彼は心底呆れた表情を浮かべる。その言い種は、年上のはずのアリスよりも大人びていた。しかも馬鹿にした気配すらある。

「結界の外に出たら死ぬんだぞ」

「違うよ。外にはちゃんと外の世界があって、怖い魔物なんかいないし、食べ物もいっぱいあるし、ここよりもっとすばらしいんだよ。悪い大人が私達を閉じ込めてるんだって」

「誰が言ってたんだよ」

「イレーナさんが」

「そいつ変な宗教の女じゃん……ついてく大人はちゃんと選べよ」

「そうなの?」

 魔物は大人しく、言い争う子どもの顔を交互に見ていた。

「とにかく、魔物はヤバいんだよ。外に出たら、おまえなんか一秒後に死ぬよ。今だって、一秒後そいつに食われるかもしれないし」

 少年は勢いよく魔物を指差す。小さな敵意を向けられても、魔物は少年を眺めているだけだ。アリスは肉の薄い肩をいからせた。

「マーマは優しいよ」

「じゃあさ、昨日霧の中に浮かび上がってた、いっぱいの影は?」

「嵐でしょ」

「昨日ヤベー音が響きまくってたのは?」

「嵐でしょ」

「そんなヤベー嵐があったらさ、どっちにしろ外に出るのはヤベーだろ」

「喋りまくったらお腹空いちゃった。はいきゅーちょっと食べよ」

 聞いているのかいないのか、アリスは配給食料の銀紙を剥きはじめる。本当にマイペースだ。少年はやれやれと顔をしかめた。

「つきあってられないわー。そいつと遊んでもいいけど、早めに戻って来いよな」

 念のため釘を刺して、ジャンは走り去ってしまった。しかし、アリスに焦りの色は見えない。彼女はジャンと違って、周囲から期待されていないのだ。仕事があまりできないし。この不思議な魔物と一緒にいた方が、心が安らぐ。

「マーマも食べる?」

 アイリスは配給食料の端っこを割って、魔物の口元へ差し出す。今回も魔物は口を開けなかった。ただゆっくりと、首を横に振るのみだ。やはり人間の食べ物は食べないのだろう。少し考えて、アリスはその欠片を自分が食べる事にした。魔霧を越えた先の世界に、子どもらしい思いを馳せながら。


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