第五節 大切な世界
いつか夢にみた。
真っ暗な世界。
何処までも続く暗がりと。
血の海と。
それを見下ろす、真紅の新月。
タケヒロは、生温かい鮮血の上に浮いていた。
なみなみと辺り一面を満たした血液は。
ぬるりと、タケヒロの身体にまとわりついてくる。
生臭くて。
息苦しくて。
タケヒロは助けを求めようとしたが。
どうしても、声は出てこなかった。
手足を動かそうにも。
痺れているみたいに、何の感覚も無い。
指先一つ、まともに動かすことができない。
カズミ。
タケヒロは、カズミの名前を呼ぼうとした。
どうしても助けたかった命。
掴みたかった幸せ。
悲しそうに笑うカズミの顔が。
タケヒロの脳裏をよぎっていく。
もう、手遅れだ。
タケヒロは、罪を犯した。
償うことのできない、重い罪。
その報いを、受けなければならない。
ふと。
誰かの笑い声を聞いた気がした。
深い、血の海の底から。
ざまあみろと。
タダシと。
ケイスケだ。
それも、当然のことかもしれない。
タケヒロは、心の何処かで二人のことを
自分は、あんな人間ではない。
悪事を働いて、平然としているような悪党ではない。
自分は善人だ。
人を助けて、人を愛することができる存在だ。
そう信じて疑わなかった。
では、タケヒロがやってきたことに、一体何の違いがあったのだろうか。
二人と同じように、他人を傷つけて。
誰かの大切な想いを汚して。
踏みにじって。
死にまで追いやって。
いかに心の中で違うと訴えていても。
苦しめられた側からしてみれば、全て同じこと。
むしろ、それは自分の責任ではないと。
タダシや、ケイスケに全ての原因を押し付けて。
言い逃ればかりして、罪を他人になすりつけて。
自分は誰かと愛し合って生きているだなんて。
なんと身勝手で、救いようのない偽善か。
それで許される罪などない。
あってはならない。
最悪だ。
タケヒロは、自分のことを恥じた。
身体が、重くなる。
血の海の中に沈んでいく。
罪人には、罪人にふさわしい場所があるのだろう。
そこにはきっと、タダシと、ケイスケもいる。
新月に見下ろされながら。
シオリも、こんな絶望を感じたのかと。
本当に申し訳ないという気持ちでいっぱいになって。
タケヒロは、永遠の闇の中に消えていった。
カズミは目を覚ました。
知らない間に、うとうとと眠り込んでしまっていたようだ。
慌ててお腹に手をやって、ほっと息を吐く。
最近はちょっとしたことで、お腹の子供に何かがあったらとビクビクしてしまう。
時計を確認すると、もう夜半を過ぎていた。
外はしんと静まり返っている。
タケヒロは、今日は遅くなると言っていた。
いつになるか判らないので、先に休んでいるように、とのことだったが。
それでも、カズミはタケヒロの帰りを待っていたかった。
出会ったばかりのころのタケヒロは、いつも何かに怯えていた。
最初は、転がり込んできたカズミのことを警戒しているのかと思っていたが。
どうやら、そうではない。
一つ屋根の下、同じ部屋に住んでいるのだし。
カズミにとっては、タケヒロは恩人だ。
だから。
いつ、何をされても、それは当たり前のことであると受け止めるつもりでいたが。
タケヒロは、一向にカズミに手を出してくることは無かった。
むしろ。
その行為自体を、忌避しているようにすら感じられた。
人には人の事情がある。
カズミに、カズミの事情があるように。
タケヒロには、タケヒロなりの何かがあるのだ。
そう思って、カズミは献身的にタケヒロの身の回りの世話をすることにした。
カズミにはそれ以外に、タケヒロに恩を返す術が思いつかなかった。
カズミは、大きな家族、八人兄弟の六番目だった。
兄や姉たちは何かに秀でていて、家族を引っ張るためにいつも一生懸命だった。
対するカズミには、得意なことなんて何も無かった。
勉強もできない。
運動もからきし。
毎日ピーピー泣いて。
弟や妹と喧嘩ばかりしていた。
カズミより下の二人は、甘えるのが上手だった。
形勢が不利になると、すぐに兄や姉たちのところに行き。
自分たちは悪くないと。
カズミが全部いけないのだと
どんなにカズミが自分の正しさを訴えても。
誰も、カズミの言うことなど聞いてはくれなかったし。
信じてもくれなかった。
「お前は本当にダメだなぁ」
事あるごとに、カズミはそう言われて育ってきた。
確かに、ダメなのかもしれない。
カズミなんて、誰にも必要とされない。
家族にすらまともに取り合ってもらえない。
いてもいなくても同じなら。
こんなところ、早く出ていってしまいたい。
毎日、そんなことばかり考えていた。
膨らんだお腹を、カズミは愛おしく撫でた。
タケヒロは、カズミの話を聞いてくれた。
カズミのことを信じてくれると言った。
一年以上の時間を共に過ごして。
カズミは、タケヒロのことを信じられると思うようになった。
タケヒロはカズミに何かを隠している。
それは簡単には口にできない、恐ろしいことなのだろう。
初めてタケヒロと身体を重ねたとき。
タケヒロは、カズミではなく。
その向こうに、誰か別な人間の姿を見て。
怯えきって、震えていた。
きっとタケヒロの過去には。
暗くて、重い何かがある。
それでも良い。
カズミは、タケヒロのことを信じている。
愛している。
この、二人の子供がいれば。
これからは、幸せを
だから、大丈夫。
部屋の隅の暗がりに、何かがある気がして。
カズミはそちらに視線を向けた。
そこには何も無かった。
ほんの少し、暗闇が濃いと。
そう思えただけだった。
終わった。
目の前に転がるタケヒロの死体を。
ヒロキは、何の感慨も無く見下ろした。
シオリが死んでから。
何年の月日が流れただろう。
その間、一日としてヒロキはシオリのことを想わない日は無かった。
ヒロキのことを慕ってくれる、優しい妹。
美しくて、明るくて。
そのせいで、他のどんな異性にも恋心など抱けそうにない。
そんな妹を。
だた欲望にまかせて汚し。
望まぬ子供を身籠らせ。
最後には、自殺にまで追い込んだ。
みんな死んだ。
ヒロキが、その手で殺した。
シオリのことなど忘れて、思うままに生きていた者。
相変わらず下衆な毎日を送り続けていた者。
あまつさえ、他の女との間に子供までもうけていた者。
全員、殺した。
これで、ヒロキの中のシオリも。
安らかに眠りにつくことができる。
・・・そのはずなのに。
ヒロキの心は、ひどく乾いていた。
殺さなければならない相手は、全て殺し尽くしたのに。
何も満たされない。
胸の奥では、まだ暗い炎が燃え盛っている。
衝動が、激しくなる。
憎い。
全てが。
この世に生きている全てのものが。
シオリを残して。
忘れ去って。
生き続けている全ての存在が、憎い。
殺し足りない。
シオリが、生きていないのなら。
この世界に、生きている人間がいる意味など無い。
殺す。
一人残らず、殺す。
ヒロキの中を、凶悪な意思が荒れ狂う。
その猛烈なまでの強さに、ヒロキは自分が制御できなくなるのを感じた。
「それはお前が、もうヨルでは無く、オニとなったからだ」
少年の声がした。
赤い光が、ホームの上をゆっくりと近付いてくる。
胸元のペンダントに付けられた、真っ赤な宝石。
その輝きに照らされて。
鋭い眼光を持つ少年――風間ショウが。
不機嫌そうな表情で、ヒロキであったものと対峙した。
「殺して、恨みを晴らして。お前は実在を得るに至った。おめでとう、とでも言ってやりたいが」
ショウが右掌を上げる。
無数の光が、流星のようにそこに収束し。
輝きが、刃を作り出した。
まばゆい光の切っ先を。
かつて、ヒロキであったものに向けて。
「残念だが、ここまでだ。お前の居場所は、もう夜の闇の中にも無い」
ショウは、地面を蹴った。
復讐のオニ目がけて、輝く刃を突き立てる。
「滅びよ、この世界に仇なすものよ」
ヒロキの視界を、真っ白な光が覆った。
何も見えない。
一切の闇を許さない、ありとあらゆるものを照らし出す光。
そこでは、影など存在すら許されない。
自らの醜さを全てさらけ出して。
跡形も無く、消えていくだけだ。
自分の存在が薄れていく中で。
ヒロキは、シオリの姿を見た。
笑顔で、ヒロキの方に手を伸ばしている。
懐かしい、愛らしい姿で。
ああ、これで良かった。
やり遂げた。
空っぽだった胸の
ようやく全て満たされた感じがして。
ヒロキは、自らの消滅を受け入れた。
雪の降る道で、ヒロキは我に返った。
「お兄ちゃん、どうかした?」
手を繋いでいるシオリが、不思議そうに見上げてくる。
その顔が、何故かとても懐かしくて。
愛おしく思えて。
ヒロキは、優しく微笑んだ。
「なんでもないよ。さあ、早く帰ろう」
そうだ。
沢山の雪が降ったので、シオリにせがまれて出かけたのだった。
もう遅い時間だし、風邪を引いたら大変だと。
何度も言い聞かせたのに、シオリはどうしてもと譲らなかった。
仕方ないと
厚着させて、手を繋いで。
夕暮れの近い雪の町を、二人で並んで歩いた。
積もった雪を踏むと、くるぶしの辺りまで沈む。
あまり雪の降らないこの地域では、これでも十分に珍しい。
ぎゅむ、という感触が楽しいらしくて。
シオリは、歩くだけで嬉しそうに笑っていた。
良く冷えた空気の中で。
シオリの笑顔は、何よりも温かい。
見ていると、胸が満たされてくる。
この笑顔を守ろう。
大切にしよう。
ヒロキはそう、心に誓った。
妹とべたべたしていることで、色々と言われることもある。
だが、そんなことは問題にならない。
ヒロキにとって、妹のシオリ以上に大切なものなんて。
この世界には、何も無い。
シオリと吊り合う価値のあるものなんて、世界の何処にも存在しない。
ヒロキにとってシオリは。
世界そのもの。
「お兄ちゃん」
大切なシオリが、ヒロキの方を向いて。
白い息を吐いて。
少しはにかんで。
「ありがとう。大好き」
そう言って。
頬を赤く染めた。
深夜の駅のホームに、男の死体が二つ。
共に、目立った外傷は無い。
警察は、これをどう捉えるだろう。
二人の関係を調べ上げて、深い因縁について物語を仕立て上げるのだろうか。
そしてその物語を。
タケヒロの妻、カズミにも伝えるのだろうか。
ユウは黙って、二人の死体を見下ろした。
所詮、死者の
死んだ者は、生きている者の世界に関わることはできない。
それでも。
ヒロキは、自らを生きたままヨルと化した。
死者の側に立って、今を生きる者に復讐を果たした。
だが。
罪を背負いつつも。
懸命に、今を生きようとしている者もいた。
タケヒロは、罪の意識に
カズミという女を愛し。
幸せにしようと、足掻きながら、生きていた。
なるようにしかならない。
ヒロキが復讐の力を手に入れたときから。
判っていたことだった。
「何が正しいとか、間違ってるとか、そういうことじゃないさ」
ユウの肩に、そっとショウが手を置いた。
ショウの手の甲に、自分の掌を乗せて。
ユウは、涙を一つこぼした。
「そんなこと、判ってるよ」
正しさなどない。
人を傷付け、汚した罪と。
それを罰しようとする者。
罪を背負いつつも。
誰かを愛し、生きようとした者。
相容れない
ぶつかって。
命を落とした。
それだけだ。
ユウには、どちらに肩入れすることも出来なかった。
ただ。
死んだ者への想いに、いつまでも囚われてしまうというのなら。
「夜の闇の中で、静かに眠っていれば良いのに」
生きている人間と関わっても。
死者には、益するものなど一つもない。
灯りの無い深夜のホームの上で。
赤い光と、青い光が、人知れず寄り添っていた。
ヨルを狩る者 Episode 2 NES @SpringLover
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