第四節 譲れない
「シオリ、入るよ」
声をかけて、ヒロキは部屋のドアを開けた。
相変わらず、中は真っ暗だ。
窓は目貼りされて、外の光は一切入って来ない。
明かりを点けることもせず、空調の鈍い音だけが響いていた。
暗闇に目が慣れるまで、少し時間がかかる。
無理に電灯のスイッチを入れると、シオリは激しく取り乱す。
シオリのためにも、乱暴なことはしたくなかった。
テーブルの上に置かれた前回の食事は、少しだけ手が付けられていた。
ベッドに視線を向けると、毛布にくるまったシオリの姿がある。
良かった。
食べてくれるなら、まだ生きる意志はあるのだろう。
冷えて固くなった食事を下げて。
今日の朝食を運び入れる。
シオリが部屋に閉じこもるようになって、もう数ヶ月。
こんな生活では、今が朝か夜かも良く判らないのではないか。
ヒロキがテーブルの上に皿やら何やらを並べている間。
シオリは、ぴくりとも動かなかった。
起きているのか、眠っているのか。
壁の方を向いているので、顔を見ることはできなかったが。
身体が
まだ生きている、ということだけはかろうじて判った。
そう、シオリはまだ生きている。
そして、お腹の中の子供も。
妊娠が明らかになったとき。
シオリは、激しく取り乱した。
泣き叫んで、手当たり次第にその辺りにあるものを投げて壊した。
ただでさえ、あの出来事の後、シオリの精神は不安定だった。
家の外どころか、部屋の外に出ることすら拒んで。
毎日、ベッドの上で泣いて過ごしていた。
まずは、当たり前のように中絶の話となった。
暴行によって身籠った子供。
シオリ自身、まだ母親になれるような年齢ではない。
理由はいくらでもつく。
だが、親族の一部が頑として反対した。
今更、守るべきどんな世間体があるというのか。
他人事のように語る無責任な大人たちに、ヒロキは激しく憤った。
シオリがこんな目に遭わされて。
訴え出ないのをいいことに、好き勝手に噂を流されて。
この上、誰のものかも判らない子供を産めと言うのか。
ヒロキや、シオリ自身の訴えもあったが。
結局、親族たちの意見がまとまらないままに。
いたずらに、時間だけが過ぎていってしまっていた。
「産まれてくる命に、罪は無い」
偉そうなしたり顔で、そう語った親族がいた。
では、罪によって生まれてくる子供はどうすれば良い。
シオリはこれから先、生まれてきた子供を見るたびに思い出すだろう。
その子が生まれた経緯を。
父親と目される三人の男たちを。
身体に刻まれた
どんなに忘れたくても、呪いのように離れない。
この子供は。
忌まわしい蛮行によってこの世に生を受け。
母親にも
誰からも祝福されずに。
一体、どうやって生きていけというのか。
ヒロキはベッドの横に立った。
丸まった毛布の中で、シオリがじっと息を潜めている。
美しかったシオリは、もう見る影も無かった。
毎日泣き叫んで、声は枯れた。
髪が抜け落ちて、半分以上が白髪になった。
引きつった顔は、元のようには戻らなかった。
それでも、シオリはヒロキにとっては大切な妹だった。
たとえどんな姿になろうとも。
どんなに汚されようとも。
たった一人の、妹だ。
シオリは、ヒロキだけは部屋に入ることを許した。
シオリの味方は、ヒロキだけだった。
中絶に反対する親族と交渉を続け。
返り討ちに遭うことが判っていてもケイスケに殴りかかり。
シオリのために、シオリのことを考えて行動しているのは。
ヒロキだけだった。
そのヒロキにも、シオリは自分の姿を見せようとはしなかった。
恐らく、下腹部が膨らみ始めている。
ヒロキにだけは、そんな醜い自分を見られたくなかったのだ。
こうやって、食事を運んでくる度に。
ヒロキは、シオリに声を掛けようとしたが。
何を言えば良いのか判らずに。
しばらく、黙ってそばにいてやることしかできなかった。
「・・・お兄ちゃん、今日ね」
ヒロキははっとした。
久しぶりに聞く、シオリの声。
少ししゃがれてはいたが、間違いない。
懐かしい、妹の声。
慌ててベッドの上を覗き込むと。
シオリは。
横になったまま、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
「動いたんだよ、この子」
言葉は、何も出てこなかった。
真っ白な頭で。
ヒロキは、ただシオリを見つめていた。
胎動が始まった。
それは本来なら、喜ぶべきことなのだろう。
新しい命の息吹を、その身に感じることなのだろう。
だが、シオリにとってそれは。
恐怖と。
屈辱を想起させるだけの。
唾棄すべき存在でしかなかった。
「気持ち悪い」
シオリの声が。
鋭い刃となってヒロキの中を傷付けて。
真っ暗な部屋の中に沁み渡っていく。
「気持ち悪いよぉ」
シオリの嗚咽を聞きながら。
ヒロキには、ただそこに立ち尽くす以外に。
何もできなかった。
その翌日、シオリは自室で首を吊って死んだ。
最初に死体を見つけたのは。
いつものように食事を運んできたヒロキだった。
タケヒロがカズミと知り合ったのは、三年ほど前のことだった。
深夜、その日もタケヒロは遅くまで仕事をして、終バスを逃していた。
タクシー代など捻出できるはずもない。
覚悟を決めて徒歩での家路につこうとしたところで。
薄汚い繁華街の路地裏に、座り込んで泣いている女がいるのを見つけた。
服装からして、水商売関係だろう。
厄介事には正直関わり合いになりたくなかったが。
どうせ帰りも遅くなるし、取られる金も無い、と。
半ばヤケクソで、タケヒロはその女――カズミに声をかけた。
「どうかしましたか?」
カズミは、タケヒロの顔も見ずに「なんでもない」とだけ応えた。
いつものタケヒロなら、それで別れて終わりだった。
なんでもないというのなら、なんでもないのだろう。
一晩経って朝になれば、この出来事自体、綺麗さっぱり忘れてしまう。
だが、何故かタケヒロはカズミのことが気になって。
近くにある二十四時間営業のファミレスに連れて行った。
ファミレスには、遅い時間でもぱらぱらと客の姿があった。
何も言わないカズミを座らせて。
タケヒロは、とりあえずドリンクバーだけを注文した。
タケヒロが持ってきた温かい飲み物を前にすると。
カズミは、ようやく口を開いて。
ぽつぽつと、自らの身の上を語り出した。
カズミは元々、家出をしてこの街に流れ着いてきた女だった。
大家族の中で居場所を失い、自分一人で生きてやると思い立ってきたらしい。
後で判ったことだが、家の方は捜索願も何も出していなかった。
薄情、というよりも。
元々カズミなど不要な存在だったのだろう。
女が身一つで出来ることなど、水商売くらいしかない。
とはいえ、カズミは器量が良いわけでは無いし、要領も悪い。
まっとうに稼ごうとしても、簡単にはいかなかった。
「うまくだませばいい」
同僚にそう助言されて、何度か客の男性をだまそうとしたが。
不器用なカズミは、逆に手玉に取られるのがオチだった。
居場所を奪われる。
結局、カズミは色々な店を転々とするばかりで。
何処かに居つくことはできなかった。
金と裏切り。
上辺だけの世界に馴染むことができなくても。
カズミには、そこで生きていく以外に道が無い。
何もかも嫌になって、もう
タケヒロが声をかけてきた、ということだった。
「それこそ、商売女の作り話みたいだな」
一通りカズミの話を聞いて、タケヒロはつまらなさそうに顔をしかめた。
よくある話だ。
ここで同情して金を出せば、女の方はそれを持ってドロン。
今度は違う街で、同じように座り込んで泣いているという寸法だ。
「そうだね。私もそう思う」
カズミは力なく笑った。
その笑顔が、タケヒロの眼にはひどく悲しげに映った。
「だから、ここのドリンクバーだけでいいよ。これだけで充分。ありがとう」
目の前に置かれたコーヒーカップを、カズミは大事そうに両掌で包んだ。
コーヒーから立ち上る湯気を、潤んだ瞳で見つめる。
化粧気の少ないカズミの顔は。
真っ青で。
明日には消えてしまいそうなほどに、生気を失っていた。
これで終わりか。
退屈な話だ。
そう思って、席を立とうとして。
タケヒロは、もう一度カズミの方に向き直った。
「このあと、お前はどうするんだ?」
タケヒロの問いに、カズミは首をかしげてみせた。
「わかんない。こんなバカの話を信じてくれる人がいるなら、また飲み物くらいはおごってもらえるよ」
えへへ、と笑ったカズミの顔は。
タケヒロが見る限り、とても人をだませる類のものでは無かった。
タケヒロ自身、あまり人に自慢できる人生は歩んできていない。
ここで生活しているのも、故郷から逃げるようにして出てきた結果だ。
このカズミという女にだまされるのなら。
それが報いになるのかもしれない。
「・・・とりあえず俺の家に来い」
タケヒロの言葉に、カズミはきょとんとして。
それから、また先ほどと同じ、悲しげな笑顔を浮かべた。
「ありがとう。でも、今日はあんまりサービスできないんだ。お薬、もう貰ってないから」
カッ、とタケヒロの胸の中が熱くなった。
脳裏に、忘れようとしていた忌まわしい記憶が蘇って。
「そうじゃない!」
思わず、カズミを怒鳴りつけていた。
店中がしんと静まり返った。
怯えたように目を見開くカズミに向かって。
タケヒロは、そっと手を伸ばすと。
優しく、頭を撫でた。
「お前を、信じてやる。そう言ってるんだ」
少し遅れて。
カズミは、大声を上げて泣き出した。
どうせ失うものなど何もない。
だまされるのなら、それでもいい。
そんな気持ちだったが、どうやらカズミは本当にただ不器用なだけの女だった。
世話になる以上、できるだけのことはすると言って。
タケヒロの部屋で、カズミは毎日普通に掃除や洗濯などの家事をして過ごした。
置いてある金に手を付けることもしない。
密かに誰かと通じている様子も無い。
気が付いたら、タケヒロはカズミを大切に想うようにすらなっていた。
「私、どうしても悪になりきれないんです」
あるとき、カズミはそんなことを言った。
人をだまそうとすると、どうしても相手のことを考えてしまう。
困るのではないか、苦しむのではないか。
そう考えて、最後までだましとおすことができない。
だまし合いでしかない水商売は、カズミにはまるで向いていないだろう。
タケヒロは、カズミを信じることにした。
少なくとも、自分だけはカズミの全てを信じようと思った。
信頼の証として。
タケヒロは、自分の財産を全て、カズミに預けた。
財産といっても、大したものは無い。
スズメの涙みたいな貯金の入った通帳と。
このアパートの部屋の鍵。
せいぜいそのぐらいだ。
「他人の私に、こんなものは預かれません」
「なら、他人でなくなれば良いのか?」
去年の春、タケヒロはカズミと籍を入れた。
式も何も挙げていないが、それでも。
タケヒロも、カズミも。
十分に、幸せだった。
終電の過ぎた駅のホームからは、もう灯りは消えていた。
客も、駅員も。
誰もいない。
しんと静まり返った中で。
タケヒロは、一人ベンチに腰かけて。
そのときが来るのを、じっと待っていた。
人のいない駅舎に入り込むことなど、造作もない。
何か理由があるわけでは無かったが。
タケヒロには、確信めいた予感があった。
ヒロキは、今夜やってくる。
田舎町の寂しい駅前の光を、ぼんやりと眺めていると。
タケヒロは、初めてカズミと会ったときのことを思い出した。
ファミレスの安いコーヒーを、まるで宝物のように掌で包んで。
その瞳は、全てを
助けてやりたい。
信じてやりたい。
美人というわけでもない。
いい女ということもない。
それでも。
タケヒロは、カズミを絶望から救いたかった。
カズミの力になりたかった。
たとえそれが偽善であったとしても。
自分は、誰かのために生きることができたと。
善いおこないをすることができたのだと。
胸を張りたかった。
シオリを傷付けて。
死に追いやっただけが、タケヒロの人生ではないと。
思いたかったのだ。
「タケヒロは他の二人とは違うみたいだな」
何処からともなく、声がした。
聞き覚えのある、懐かしい声。
ずっと恐れていた。
タケヒロを告発し、糾弾する声。
お前は悪だ。
どうしようもない悪だと。
逃れることのできない罪を、嫌でも思い出させる声。
「ヒロキ、なのか?」
タケヒロが立ち上がって周囲を見回すと。
真っ黒い人影が、歩み寄ってくるところだった。
何も見通せない、黒よりも黒い、漆黒。
その向こうには。
「そうだ。お前に妹を犯された男だよ」
間違いなく、ヒロキが感じられた。
生きたまま、暗い負の情念に身を任せて。
夜の闇と一つになって。
ヨルと化した、ヒロキだった。
「ヒロキ、俺は、本当にすまないことをしたと思っている」
タケヒロはヒロキに向かって頭を垂れた。
その言葉に、
ケイスケにそそのかされたとはいえ。
タケヒロが、罪を犯したことは確かな事実だ。
タケヒロはシオリの体と心に、
それが原因で、シオリは自らの命を絶った。
「そんな俺に、子供ができると言ったら・・・お前は、俺をさらに憎むだろうな」
カズミと暮らして、一年ほどが経ったとき。
初めてカズミを抱こうとして、タケヒロは手の震えが止まらなかった。
どうしても、シオリの姿が目の前に浮かんで。
何もすることができなかった。
今のタケヒロが、人並みにカズミとの間に子を成すことができたのも。
全ては、カズミのお陰だった。
罪に怯えるタケヒロを。
ただ信じる、とだけ言って。
カズミは、優しく抱いてくれた。
温かいカズミの腕の中で。
タケヒロは、自分が許されたと感じた。
「そうだな。シオリにはできなかったことだ」
ヒロキの言葉は、冷たくタケヒロの心に突き刺さった。
タケヒロが、カズミに認められ、許されたのだとしても。
ヒロキにしてみれば、それは何の関係もないことだ。
誰かを愛することも。
愛されることも。
その相手と結ばれることも。
シオリには、できなかった。
全ては、奪われてしまった。
奪ったのは、ケイスケと、タダシと。
タケヒロだ。
「ヒロキ、俺は死ぬわけにはいかない」
タケヒロは顔を上げた。
真正面から、ヒロキを睨みつける。
無明の闇の向こうに。
怒りに燃えるヒロキの眼が見える気がした。
「俺にとって大切な、カズミと、産まれてくる子供のために。俺は、死ぬわけにはいかないんだ」
途端に。
ホーム上に、大きな笑い声が響き渡った。
闇が、そこかしこから笑い声をあげていた。
可笑しくてたまらない。
「ならお前は、俺にとって何よりも大切なシオリに、何をした!」
タケヒロの中に、ヒロキであったヨルの想いが流れ込んできた。
並んで歩くヒロキとシオリの姿が見えた。
優しく微笑むシオリの顔が見えた。
桜並木を歩く、制服姿のシオリ。
夏祭り、浴衣を着て振り向くシオリ。
白くて細い腕。
それを押さえつける、武骨な男たち。
血と、涙と、唾液に
泣き叫ぶ顔。
絶望だけを
真っ赤な新月。
醜く膨らんだ下腹部。
そして。
部屋の中央からぶら下がった。
変わり果てたシオリの、亡骸。
「お前はシオリに何をした?」
中学生の男女が。
遺影を前にして、泣いていた。
シオリの友人が。
あるいは、密かに想いを寄せていた者が。
悔しさと悲しさを。
言葉にならない慟哭として吐き出していた。
白い棺に入った遺体を前にして。
ヒロキが。
両親が。
ただじっと、涙を
大きな扉の向こうに、シオリであった体が運ばれていく。
シオリと。
本当なら、大きな喜びをもって迎えられるはずだった。
小さな命が。
炎の中に、消えていく。
灰の山から。
今にも崩れ落ちそうな、はかない骨片が取り上げられて。
陶器の壺の中に落とされて。
悲しい音色を奏でた。
「お前がしたことは、許されることなのか?」
ヒロキの声は静かで。
それでいて力強く。
ぐさりと、タケヒロの胸の真ん中を貫いた。
タケヒロは、膝をついた。
自分が奪ったもの。
人一人の尊厳と、命。
未来。
それを取り巻く、いくつもの希望。
手に入るはずだった幸せ。
叶えたかった夢。
それはあまりにも大きすぎて。
あまりにも、重すぎる。
ヒロキの中で渦巻く、果てしない怒りと。
悲しみ。
許されるためには、何が必要なのか。
いや。
そもそも、許されることなど、あるのだろうか。
歯を食いしばって。
最後の力を振り絞って。
タケヒロは。
「それでも、俺は・・・っ!」
大声で吠えた。
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