第三節 消えない疵
ここ数日、タケヒロは気分がすぐれなかった。
夜眠りにつけば、必ず悪夢に
真っ暗な世界。
赤い新月が浮かぶ、血の海の中で。
カズミの腹を突き破って。
三つ首の赤子が、姿を現す。
思い出すだけでぞっとする。
これを毎日見続ければ、体調不良にもなろうというものだ。
こんな夢を見るようになった理由は、はっきりしていた。
タダシが、死んだのだ。
週末、カズミが買い物に出て、タケヒロが一人で留守番をしている間。
アパートの部屋に警察が訪れてきた。
いかにも面倒臭い、という表情を隠そうともしない年配の刑事から。
タケヒロは、タダシが深夜の路地裏で変死したことを聞かされた。
「まぁ、事故死だとは思うんですが、念のためって感じですね」
刑事はタダシの携帯の通話履歴などから、交友関係をあたっていると説明した。
なるべく正直に、タケヒロはタダシとの関係について語った。
タダシは、学生時代の友人だ。
昔はよくつるんでいたが、最近ではほとんど付き合いは無かった。
共通の友人が亡くなったので、その知らせを受けたのが最後になる。
大して熱心な様子も無く、気だるげに一通り話をメモして。
警察は、あっさりと引き上げていった。
元々素行のよろしくないタダシのことなど。
誰一人として、まともに扱おうとはしていない。
警察の態度からは、そんな思惑が透けて見えた。
部屋のドアを閉めて。
タケヒロは、しばらくじっとその場に立ち尽くした。
カズミが留守にしているときで良かった。
もしこの場にいたのなら、タダシについて話さなければならないところだった。
カズミには、タダシのこと、いや。
タケヒロの過去については、知られたくなかった。
後は、仕事だ。
いくら安月給とはいえ、今の仕事は比較的長く続いている。
とばっちりでも警察に話を聞かれたなど、職場には絶対に秘密にしておきたい。
とばっちり。
本当にそうだろうか。
ケイスケが死んで。
次に、タダシが死んだ。
これを偶然という言葉で片付けて、本当に良いのだろうか。
胸の奥に溜まった
もしこれが、偶然では無く必然なのだとしたら。
二人が、意図的に命を奪われたのだとすれば。
復讐。
タケヒロが、ずっと忘れようとしてきて。
カズミと結婚して、ようやく無かったことにできるのではないかと。
そう考えてきた。
罪。
タケヒロは何食わぬ顔をして。
朝には会社に向かい。
忙しく仕事をして。
夜、疲れた顔をして帰ってきた。
だが、タケヒロの心の中は、常にケイスケとタダシの死に惑わされていた。
見えない誰かに、追い詰められていた。
あの二人が、誰かの恨みを買って殺されたとするならば。
その恨みは、間違いなくタケヒロにも向けられている。
ケイスケに誘われて、断り切れずに。
タダシと一緒になって、暴虐の限りを尽くした。
あのときの、報いだ。
次に殺されるのは、自分だ。
タケヒロは、毎日が気が気ではなかった。
カズミの前や職場では平静を装っていたが。
一人になると、どうしようもない不安に襲われた。
終バスの後、夜道を歩くのがたまらなく恐ろしかった。
いつ何処から命を狙われるのか。
自分の犯した罪が突きつけられるのか。
血に塗れた、三つ首の赤ん坊が姿を現すのか。
目を閉じて、一心に足を動かすタケヒロに。
「こんばんは、前田タケヒロさん」
ある夜、一人の少女が声をかけてきた。
新月が近い三日月に照らされて。
児童公園の前に立つ、小さな影。
胸元できらめく青い光が。
美しくも、何処か物悲しげな貌を冷たく浮かび上がらせている。
死神にしては幼いし。
何より、とてもはっきりとしていて。
それでいて、現実感が無い。
「少しお話があるのですが、よろしいですか?中根ヒロキさんと、シオリさんについて」
小島ユウの言葉には、静かだが、有無を言わせないものがあった。
タケヒロは黙ってユウに従って。
無人の児童公園に、足を踏み入れた。
二人殺した。
あっけないものだった。
ケイスケも、タダシも。
抵抗らしい抵抗もせず、あっさりとヒロキの手にかかった。
ケイスケは、最後まで笑っていた。
自分が悪いと認めたうえで、甘んじてその報いを受けた様子だった。
まるで、そうなることが正しいとでも言うように。
どんな理由であれ、人を殺すことに正しさなんて無い。
ヒロキにも、そんなことぐらいは判っている。
ケイスケを殺して、それでシオリは喜ぶだろうか。
シオリは死んだ。
死んだ者が、喜ぶことなんて無い。
ケイスケも言っていた。
死んだ人間のことを、どうこう言っても始まらない、と。
では、今生きている人間はどうなのだろう。
生きてしまっている人間は。
シオリを失って。
今ここで生きているヒロキは。
収まるはずがない。
シオリを
死よりもつらい苦しみを与えて。
そして、実際に死に追いやって。
そこまでした人間が、のうのうと生きていると知って。
どうして、それを見過ごすことができるだろうか。
タダシは、昔のままだった。
何も考えていない。
人のことなんてどうでもいい。
自分がいかに恵まれるか、ちやほやされるかだけを考えている。
他人を傷つけることなんて何とも思っていなくて。
甘い汁を吸った記憶を。
あれだけひどい目に遭わせたシオリのことを、心の中でまだなぶり続けている。
死んで当然だ。
いや。
死ななければならない。
そうでなければ。
ヒロキの中のシオリが、浮かばれない。
シオリの痛みは、苦しみは、悲しみは。
ヨルとなって、届かない叫びを上げていたという。
小島ユウという少女には、感謝している。
今、シオリの魂が静かに眠りについているのだとすれば。
それは、彼女のお陰だ。
しかし、それはあの場所にいるシオリに限ったこと。
ヒロキの中にいるシオリは。
今でも、叫び続けている。
声にならない声を。
あと一人。
殺さなければならない。
ヒロキと。
ヒロキの中の、シオリのために。
中根シオリは、地元でも良く話題になる美しい娘だった。
小さな田舎町の中で、一際明るく目立っていた。
物静かで。
雪のように白く。
穏やかに微笑む少女だった。
シオリは兄のヒロキといつも一緒にいた。
ヒロキはシオリのことをとても大切に扱い。
シオリも、ヒロキのことをよく慕っていた。
二人は、仲睦まじい兄妹として知られていた。
その当時、同じ町で。
タケヒロは、同じ高校に通うケイスケと、タダシとの三人でつるんで。
傷害や窃盗、放火などの犯罪行為に手を染めていた。
ケイスケは
幼少のころから、我が
高校に入る
ひどい悪党になっていた。
悪党、とは言っても、ケイスケは単純なチンピラなどではなかった。
誰彼かまわずに喧嘩を売ったり、破壊活動をおこなったりは決してしない。
ケイスケのやることは、もっと狡猾で、抜け目がなかった。
目撃者のいない中で闇討ちしたり。
足が付かないように手下の人間を使ったり。
自分から尻尾を出すようなヘマは絶対にしない。
家のバックもあって、ケイスケに対しては警察もなかなか手が出せない状態だった。
そんなケイスケの周りには、数多くの手下たちが群がっていたが。
ケイスケが好んで傍に置いていたのが、タダシとタケヒロだった。
タダシはお調子者で、加減というものを知らない男だった。
ケイスケが知的なワルだとするなら。
タダシは、いかにもな頭の悪いチンピラだった。
後先など何も考えず、ただ言われたままに人を殴る。
物を壊す。盗む。火を点ける。
ケイスケはタダシを、便利な駒としてうまく利用していた。
そして、タケヒロ。
タケヒロは、三人の中では一番大人しかった。
自分から進んで悪事を働こうとはせずに。
ケイスケやタダシがやっていることを、遠巻きにして見ているような。
何処かおぼっちゃんという感じの性格だった。
ケイスケはそんなタケヒロを、いつも自分の近くに置いて。
タダシがやることを手伝わせたり。
わざと、タケヒロ自身に手を下させたりしていた。
いい子でいて、隙があれば逃げ出そうとするタケヒロを。
そうやって共犯者に仕立てることで、逃げられないようにしていたのか。
あるいは、タケヒロが悪の道に落ちていく
どちらにせよ、実際に行為がエスカレートしていく中で。
タケヒロはケイスケたちから離れる機会を逸してしまっていたし。
消極的ではあったが、粗暴な行為を楽しむまでに至ってしまった。
三人はすっかり町の厄介者として周知され。
何処に行っても目を逸らされる存在となっていた。
最初にシオリのことを言い出したのは、タダシだった。
女を抱いた経験の話になり、タダシは自分が未経験であることをケイスケに馬鹿にされた。
タケヒロ自身も、そのときはタダシ同様に童貞であったが。
ケイスケに調子を合わせて、一緒になってタダシを笑っていた。
「じゃあタダシを男にしてやろうぜ」
ケイスケがそんなことを言い出して。
タダシが大いに乗り気になって盛り上がった。
二人が何処まで本気でそんな話をしているのか。
タケヒロは、いまいち推し測れないままに会話に参加していた。
「初めては、やっぱりとびきりいい女が良い」
そう言って、タダシが名前を挙げたのが。
中根シオリだった。
シオリは、そのとき確か中学生だった。
兄のヒロキは、三人と同じ高校に通っている。
白いセーラー服に身を包んだ、ほっそりとしたシルエットのシオリが。
ヒロキと並んで桜並木を歩いている姿を、タケヒロも見たことがあった。
確かに、美しい娘だった。
制服から覗く細くて白い手足。
穏やかで、優しそうな微笑み。
彼女を自由にできると言われれば。
それは確かに、男としては無上の喜びだろう。
だが。
「なら、やっちまうか」
ケイスケの言葉に、タケヒロは内心動揺した。
彼らは、何処まで本気なのだろう。
興奮して唾を飛ばすタダシと。
ニヤニヤと怪しい笑みを浮かべているケイスケ。
二人の隣で。
タケヒロはただ、曖昧な返事をすることしかできなかった。
ブランコが揺れる。
きぃ、きぃ、と金具のこすれる音が、深夜の公園の中に響き渡る。
タケヒロは小さなブランコに腰かけて、小刻みに身体を前後に揺らしながら。
砂を吐くような、苦しい独白を漏らしていた。
「ケイスケも、タダシも、本気だった。その後、俺たちはシオリを、三人がかりで襲った」
背中を丸めて縮こまったタケヒロの姿を。
ユウが支柱にもたれかかって、じっと見つめていた。
その胸元で、青い光が
二人以外、薄暗い公園には誰もいない。
タケヒロの声が夜の闇に吸い込まれて。
その暗さが、一際増してきているようだった。
「俺は、あいつらについていっただけだ」
タケヒロは苦悶の表情を浮かべた。
シオリを本気で襲うつもりなど、タケヒロには無かった。
良くある戯言だと、そう思っていた。
それが。
あんなことに。
「ではあなたは、自分は悪くない、とでも言うつもりですか?」
ユウの冷たい問い掛けに、タケヒロはしばらく沈黙し。
それから、力なく首を横に振った。
「そんなことを言うつもりは無い。俺だって、シオリを犯したんだ。何度も、何度も」
覚えている。
押さえつけた手足。
組み敷いた肢体。
恐怖に歪み、泣き叫んだ顔。
揉みしだいた乳房と。
中の感触。
そして。
絶望に沈んだ、何処も見ていない瞳。
自分が何をしているのか。
そんなことは、一切考えていなかった。
ただひたすらに。
三人で、シオリを汚した。
欲望を吐き出した。
最初は激しく抵抗していたシオリも。
やがて、それが無駄だと悟ったのか。
次第にその力を失くしていき。
意思も何もかもを失くした、亡骸のようになっていた。
タダシなどは、むしろそれを面白がって。
わざと乱暴に扱い、無理に泣き声を上げさせた。
ケイスケとタケヒロはその様子を見て。
笑っていた。
「軽蔑するかい?」
「しないとでも思います?」
タケヒロは目を伏せた。
目の前にいる、小島ユウという少女。
考えてみれば、自分はこのユウとさして年の変わらぬシオリに対して。
一体、どれだけおぞましいことをしたのだろうか。
小さくて、華奢で。
まだほんの子供だ。
それを。
何の深い理由も無く。
自らの欲望の
「判ってなかったんだ、本当に。自分のしていることが。してしまったことが」
三人が、シオリを暴行して。
その後、シオリは人前に姿を見せなくなった。
自らの恥をさらすことになるからか。
ケイスケやタダシ、タケヒロが告発されることは無かった。
ケイスケやタダシは、むしろ武勇伝のようにシオリとの行為を他人に吹聴して回った。
一度、高校で兄のヒロキがケイスケに殴りかかってきたが。
その場にいたケイスケの手下たちが一斉に襲い掛かって。
ヒロキはあっさりと返り討ちに遭い、血塗れになって早退した。
それから、ヒロキの姿も見ることが無くなった。
そして、数ヶ月の後。
風のうわさで、シオリが妊娠しているという話を聞いた。
間違いなく、あの日に身籠った子供だ。
それを聞いて、タダシなどは「誰の種だろーなぁ」などと大笑いしていたが。
そのまた数ヶ月後。
「シオリは、自殺した。精神を病んでいたと、そう聞いている」
ケイスケの家が示談金を払って。
一切は、無かったことになった。
ヒロキの家は、町から出ていった。
シオリの葬式になど、タケヒロが顔を出せるはずも無く。
タケヒロは結局、そのままヒロキと会うことは一度も無かった。
自殺とはいえ、流石に死人を出す事態に至って。
ケイスケの素行は、家の中でようやく問題視されたようだった。
しばらくの謹慎を経て、ケイスケは一時期よりもだいぶ大人しくなった。
だが、失われた命が戻るわけでは無い。
この出来事がきっかけになって、タケヒロはケイスケたちと距離を置くようになった。
自分は、あんな風にはなれない。
誰かを死に追いやるまで傷付けて。
それを忘れることなんて、とてもできない。
タケヒロの中には、シオリの死が暗い傷痕となって残された。
「今なら判る。俺にも妻がいて、今度、子供も生まれるんだ。自分の犯した罪の重さは、理解できる」
タケヒロが信じて。
タケヒロのことを信じてくれる女、カズミ。
カズミと出会って、結婚して。
タケヒロは変わった。
初めて人を、誰かを愛しいと思えるようになった。
カズミに子供ができたと知って。
タケヒロは初めて。
愛する人との間に、新しい生命を
命の重さと、温かさを理解した。
自らの手で、滅茶苦茶にしてしまったシオリ。
彼女の命も、純潔も、人生も。
何もかもが、もう取り戻すことはできない。
ならばせめて。
カズミのことだけは、幸せにしてやりたい。
精一杯誰かを愛して、子供を、家族を作りたい。
ケイスケが死に追いやって。
それをすることができなかった。
シオリへの、せめてもの罪滅ぼしとして。
「ヒロキさんにとっては、どうなんでしょうね」
ペンダントの青い光の向こうで、ユウは無表情のまま言葉を続けた。
「妹を孕ませて死に追いやった男が、今度は別な女を愛して、子供まで作ってるなんて。それは罪滅ぼしになるんですかね」
タケヒロがどう思っているかなど。
ヒロキには、何の関係も無いことだ。
たった一人の妹を。
汚されて。
奪われて。
町を追われて。
その悲しみを。
痛みを。
癒してくれるものなど、何も無いだろう。
だからこそ、今になってでもヒロキは復讐を果たそうとしているのだ。
自らが人であることを捨ててでも。
妹を辱めた男たちを。
自身の手で、必ず殺してやると。
「なら、俺はどうすれば良いんだ?」
呆然と、すがるような顔を向けてくるタケヒロを。
ユウは感情の無い眼差しで見下ろした。
「なるようにしかならないでしょう。もう、私にも止められませんから」
それだけ言うと。
ユウは、夜の暗闇の中に姿を消した。
後に残されたタケヒロは。
ただ、虚空に目を向けて。
自らの犯した罪の重さを噛み締めていた。
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