第二節 罪の形

 街の中心から、だいぶ離れた郊外。

 繁華街の灯りも喧噪も届かない、静かな住宅街。

 その更に外れ、もう自然の方が多く目につく河原沿い。


 前田タケヒロの住むアパートは、そんな立地にあった。

 収入から考えれば、こんな場所に住まいを持つのがやっとだった。

 終バスもあっという間に行ってしまう。

 ちょっと残業すれば、駅から数キロの距離を歩くことになってしまう。


 その日も、一日仕事に追われてクタクタになったところで終バスを逃して。

 タケヒロは一時間近く夜道を歩いて、ようやくアパートまで帰り着いた。


「ただいま」

「おかえりなさい、あなた」


 それでも、こうやって妻のカズミが迎えてくれるのだから、充分だった。


 底のすり減った皮靴を脱ぎ。

 汗の染み込んだネクタイを外す。


 カズミが、その横でせっせとタケヒロの着替えを手伝った。


「カズミ、そんなに無理しなくて良いから」


 タケヒロは、ちらり、とカズミの下腹部に目線を向けた。

 カズミは今、妊娠六ヶ月だ。

 安定している時期とはいえ、何かあったらたまったものではない。


 カズミがタケヒロの世話をしてくれること自体は嬉しかったが。

 流石に最近は、気が気ではなかった。


「ごめんなさい。それでも、私、あなたのために何かをしていたくて」


 カズミは、そう言って微笑んだ。

 しょうがないなぁ、と一つ息を吐いて。

 タケヒロは、優しくカズミの頭を撫でた。



 カズミが夕食の支度をしている間、タケヒロはぼんやりとテレビを観ていた。


 どんなにタケヒロの帰りが遅くても、カズミはタケヒロの帰りを待っている。

 一緒に夕食を摂ろうとしてくれる。

 それはとても嬉しいが、半面、申し訳なくもあった。


 タケヒロの仕事は、そんなに安定したものでは無い。

 常に決まった時間に終わって。

 カズミとゆっくり食卓を囲むことができればいいのだが。

 自分にできる仕事や収入のことを考えると、なかなかうまくはいかなかった。


 更に、カズミのお腹には二人の子供がいる。

 今はお互いに、我慢が必要な時期なのかもしれない。


 そう考えたところで。

 携帯電話が鳴った。


 こんな時間に誰だろうと画面に出ている名前を見て。

 タケヒロは、心底嫌な気分になった。


 タダシだ。

 学生時代の悪友の一人。

 昔は一緒になって酷いことばかりをしてきた。


 タケヒロとはもうすっかり縁を切っていて、連絡など取ることは無かった。

 特にタダシは、定職にも付かずにふらふらとしている、ただのチンピラだ。


 大方、ケイスケに金の無心をして断られて。

 だったらタケヒロにでも声をかけてみよう、といったところだろう。


 迷惑であることをはっきりと伝えておいた方が良い。

 タケヒロはタダシからの電話に出た。


「よう、久し振りだな」


 相変わらずの調子で、タダシは馴れ馴れしく話しかけてきた。

 タダシの声を聞いていると、それだけでタケヒロは嫌な気分になってくる。

 良くない思い出ばかりがぶり返すからだ。


「なんだ、金ならないぞ」


 単刀直入なタケヒロの物言いに、タダシは電話の向こうで大笑いした。


「いやいや、それは知ってるって。流石にお前にたかろうとか思わねぇよ」


 馬鹿にされた気がして、タケヒロは更に不愉快になった。

 なんでこんな男と話をしなければならないのか。


「じゃあなんだ。何の用があるんだ」


 思わず語気が荒くなった。

 タダシはタケヒロのそんな様子など何処吹く風で。


「なに、昔のよしみで教えてやろうと思ってさ」


 飄々ひょうひょうと話を続けた。


 さっさと用を済ませて切ればいいのに。

 いらつき、たかぶったタケヒロの精神を。


 タダシの次の言葉は、芯まで凍りつかせた。



「ケイスケが死んだよ」



 死んだ。

 あの、ケイスケが。


 タケヒロがずっと引きずって。

 ずっと逃げ続けてきた。


 タケヒロの過去。

 暗くて、思い出したくもない過去の象徴。


 そのケイスケが。


 死んだ?


 電話の向こうで、タダシがまだ何か喋っている。

 だが、もうどんな言葉もタケヒロの耳には届いていなかった。


 そうか、ケイスケが死んだのか。


 視界の隅に、台所に立つカズミの姿が映る。

 タケヒロの妻。そして子供。


 タケヒロの未来。


 これで、もう昔とは縁が切れたのかもしれない。


 ケイスケはそう考えようとしたが。


 不思議と、胸の奥の方に。

 どす黒く濁ったおりが溜まっていくのが感じられた。




 祭囃子が聞こえる。

 賑やかな人の声。子供たちのはしゃぐ声。下駄の足音。弾ける笑い声。


 提灯の光が、参道を明るく照らしている。

 普段は薄暗い夜の神社が、今日だけは真昼のように明るい。

 並んだ出店から、威勢の良い呼びかけと、うまそうな匂いが漂ってくる。


 白地に、青い杜若かきつばたの浴衣。

 まとめ上げた後ろ髪の下に、艶やかなうなじが覗いている。

 縁日に立つシオリの姿を、ヒロキはぼんやりと眺めた。


 シオリのことは、ずっと子供だと思っていたが。

 考えてみれば、シオリはもう中学生だった。


 その立ち姿は、しっとりとした柔らかい曲線を描いている。

 ふとしたときに見せる、ちょっとした仕草に。

 思わず、どきっとさせられたりもする。


 そうか、シオリももうそんな年頃なのだな、と。

 ヒロキはそう悟った。


 以前から、仲の良い兄妹だと言われていはいたが。

 今は、そう評されること自体がとても複雑で。


 心の何処かで、くすぐったいと感じてしまう。


 可愛くて、大切な妹。

 いつかはヒロキの下を離れて、誰かの所へ行ってしまうのだろうけど。


 今だけは。

 ヒロキの、妹でいてほしい。

 兄を慕う、シオリでいてほしい。


 ヒロキの視線に気が付いて。

 シオリは振り返って、はにかんでみせた。


「何かヘンかな?」

「いや、とても似合ってるよ」


 ふふっ、と笑って。

 シオリは、ヒロキの手を握った。


「ありがとう、お兄ちゃん」


 ふわり、と甘い香りが鼻孔をくすぐる。

 乳臭い子供のものではなくて。

 何処か心を惑わせる、少女のもの。


 小さな、白い掌。

 暖かくて、柔らかい。


 シオリを感じる。

 お互いを想う気持ちが。

 絆が。


 掌を通じて、理解出来る。


 ・・・この掌が。


 真っ赤な月に向かって。


 絶望と共に伸ばされることになろうと、誰が想像しただろうか。


 並んで立つ二人の姿を、小島ユウはただ静かに見つめていた。



 神社の境内。

 夏祭りで賑わう社殿から少し離れた、小さな社。

 薄暗がりの中、賽銭箱の横に、ユウは座り込んでいた。


 その目の前を、縁日を楽しむ人々が行き交っている。

 ただ、ユウの眼には、そこにいる誰の姿も見えていなかった。


 ユウの瞳に映っているのは、かつてユウが鎮めたヨルの持っていた記憶。

 仲の良い、兄と妹。

 ヒロキとシオリが、幸せであったころの思い出だった。


 手を繋いで歩く二人は、とても仲睦まじい。

 兄妹というよりは、恋人といった方が良いかもしれない。


 いや、あるいは。


 ほのかに、そんな想いも持っていたのだろう。

 血縁という縛りがあるゆえに、表に出すことを良しとしていなかっただけで。

 二人の中には、そんな気持ちが芽生えていたのかもしれない。


 ならば。


 尚更、ヒロキの中にある悲しみは、計り知ることができない。


 ユウは自分の腕をぎゅうっと強く抱いた。


「悩んでいるのか?」


 少年の声がした。

 ユウは顔を上げると、声のした方向、自分のすぐ横へと目線を投げた。


 いつの間に現れたのか、そこにはユウと同じくらいの年頃の。

 一人の少年が立っていた。


 ぼさっと伸びた髪の隙間から覗く、射すくめるような鋭い眼が。

 ユウの眼差しを受け止める。


 胸元のペンダントに付けられた赤い宝石が。

 少年――風間ショウの、不機嫌そうな貌を照らし出していた。


「悩むことなんて無いって、そう言いたいの?」


 ユウの言葉に、ショウは視線を外して。

 軽く、肩をすくめてみせた。


「人ひとり殺した時点で、もう手遅れだ。後は俺の仕事になる。ユウはもう手を引け」


 ユウは眉根を寄せた。


 ショウの言っていることは判る。

 ヨルとは、まだ怪異が形を持つ前の存在のことだ。

 人を殺すという明確な結果を伴ってしまった今となっては。


 ヒロキは、ユウが鎮めるべき、夜の闇の中で眠りにつくもの。

 ――ヨルではないのだ。


「待ってもらうことは、できないかな?」

「あと二人、殺させればいいのか?」


 ショウの返事は冷たかった。


 ヒロキをこのまま野放しにしておけば。

 復讐を続けようとすることは明らかだ。


 愛する妹をはずかしめた、三人の男たち。


 その全員を殺すまで。

 ヒロキの中にある暗い負の情念は、消え去ることは無い。


 ヨルと同じ想いによって、ヨルと同じ力を使い。

 自らを人以外のものにおとしめてまで。


 ヒロキは、身の裡を荒れ狂う怒りを。

 恨みを、晴らそうとしている。


「それでどうするつもりだ?また新しいヨルが産まれれば良いのか?」

「そんなことは・・・」


 反論しようとして。

 ユウは、それ以上の言葉を紡ぐことができなかった。


 憎しみは、連鎖する。

 受けた痛みを、そのまま返すことを続けていれば。

 それが、取り返しのつかないものであるのならば、なお。


 その先に待っているのは、際限の無い報復の応酬だ。


 後には、行き場の無い想い。

 ヨルだけが、残される。


 何も言わずに、ショウはその場を離れた。


 残されたユウは、じっと祭りの灯りを見つめていた。




 うまくいかない。

 面白くない。


 タダシは手に持った缶入りの酒を一気に煽った。

 まずい。

 こんな酒、ちっともうまくない。


 それでも一滴残らず胃の中に流し込むと。

 空き缶をすぐ近くのゴミ箱に向かって放り投げた。


 狙いが大きく外れて、空き缶はゴミ箱の横の芝生の上に転がり。

 そのまま、暗がりの中に消えていった。


 面白くない。


 少し前までは、こんなことは無かった。

 金もそこそこあったし、運も向いていた。

 賭け事はトータルで見ればプラスだったし。

 ちょっと足りなくなっても、ケイスケに頼めば何とかしてもらえた。


 そうだ、ケイスケだ。


 酔いが回ってぐらぐらする頭で、タダシはケイスケのことを思い出した。


 いつも偉そうにして。

 金があるからって威張りくさって。

 面倒なことばかりタダシに押しつけて。


 タダシは、ケイスケが気に食わなかった。


 小狡こずるいだけの、金持ちのボンボンだ。

 自分だけだと何もできないから。

 タダシみたいな貧乏人をうまく使って楽をしている。


 結局は金だ。

 金さえあれば、何だってできる。


 ケイスケがタダシにあれこれ言えるのも、金を持っているからだ。


 そのケイスケが、死んだ。


 事故なのか、殺されたのかはわからない。

 ビルの屋上から転落したということだった。


 正直、タダシはケイスケが死んでスカッとした。


 ざまあみろ。そう思った。


 金にモノを言わせて汚いことばかりしているから。

 きっと、恨みを買って殺されたんだ。


 けけっ、と笑い声が漏れ出た。


 周りには全く人影が無い。

 ふらふらと彷徨さまよっているうちに、良く知らない路地裏に入り込んでしまったようだ。

 急に吐き気に襲われて、タダシはその場で激しく嘔吐えずいた。


 コンクリートの壁にもたれて、咳き込む。

 本当に、何もかも面白くない。


 目線を上に向けると、コンクリートに挟まれた狭い空に、三日月が昇っていた。

 タダシはいつも、こうやって穴の底から空を見上げている。


 ここには何もない。

 面白くもなんともない。

 穴の外はきっと楽しくて。

 毎日が愉快であるに違いない。


 ケイスケにくっついていれば、外に出れると思っていた。

 だが、ケイスケはタダシをうまく使うだけで。

 別に、タダシを今の場所から救い上げてくれるわけでは無かった。


 タケヒロは、早々にケイスケのところから逃げ出した。

 元々、タケヒロとタダシでは、立っている場所が全然違う。

 見えているものも、恐らく全く異なっていた。


 つまらない仕事をして、綺麗でもない女と結婚して。

 タダシには、タケヒロが何を考えているのかさっぱりわからなかった。

 そんな人生、ちっとも楽しくないじゃないか。


 そうだ、世の中にはもっといい女がごまんといる。

 昔、ケイスケとタケヒロと一緒に襲った女。

 あれは良かった。

 名前なんて覚えてない。

 ただ、姿と感触だけを記憶していれば良いんだ。


 きつくて、良い感じに締め付けて。

 泣き叫んで。

 最後には、人形みたいにだらんとして。

 それが良かった。

 なんでも思い通りにできた。


 ほら、ああいう方が楽しいんだって。



「タダシ」



 呼び声がした。


 突然声を掛けられて、タダシは慌てて周囲を見回した。

 灯りの無い、真っ暗な裏路地。

 しんと静まり返って、何の気配も感じられない。


 だが、そこには確実に、誰かがいた。


「誰だ!」


 大声で叫んだが、返事は無かった。


 気味が悪くなってきて、タダシは表通りに出ようと小走りに路地を進んだ。

 角を曲がって、真っ暗な闇の中に足を踏み入れる。


 すると、目の前に延々と暗闇だけが広がっていることに気が付いて。

 タダシは、その場に立ち尽くした。


「お前は相変わらずだな、タダシ。あのときと何も変わっていない」


 また声がした。


 男の声。

 何処かで聞いたことがある。

 だがタダシにとって、そんなことはどうでも良かった。


 今は、とにかく全てが自分の思い通りにならないことが腹立たしかった。


「なんだてめぇは、どこのどいつだ?」

「覚えてもいないのか。ケイスケは覚えていたぞ?」


 ケイスケの名前が出されて。


 タダシは、背筋がぞくり、と冷えた。


 こいつはマズイ。

 何かの仕返しじゃないのか?


 ケイスケは、間違いなく誰かに恨まれて殺された。

 タダシも確かに色々とやらかしてはいるが。


 全ては、ケイスケに言われてやったことだ。

 こんな目に遭うのは、理不尽すぎる。

 復讐なら、ケイスケだけにやってくれ。


 そう考えて、タダシは後ろを向いて一目散に逃げようとした。


 だが、背後に広がっていたのも、無明の闇。


 タダシが走り出すよりも早く。


 その首に、何者かの手がかかった。


「まあ、その方が良い。こちらも罪悪感を覚えないで済む。安心して始末できるよ」


 耳元に、ひどく懐かしく思える誰かの声を聞きながら。


 タダシの意識は、真っ白になって消えていった。




 暗い。何処までも暗い世界。


 遠くから、産声だけが聞こえてくる。

 赤子の、泣き叫ぶ声。


 足元は血の海。

 まとわりつくような、ねっとりとした液体。

 この先に、赤子がいる。


 間違いない、自分の子供だ。

 根拠など何も無かったが。

 タケヒロの中には、確信があった。


 手を伸ばす。

 血の中に、足跡を残す。


 カズミとの間にできた子供。

 古い自分を捨てて。


 新しい自分に生まれ変わる、きっかけになるかもしれない。

 カズミと共に生きていく、大切な絆になるかもしれない。


 可能性。

 とても大切な、タケヒロの未来。


 前に進むうちに、血の海はどんどんと深さを増していった。

 膝までが血に飲まれ。

 腰までが浸かり。


 やがて、首から上だけが覗くまでに至ったとき。


 ぷかり、と。

 タケヒロの前に、女が浮かび上がった。


 虚ろな目をした、カズミ。

 大きく膨らんだ腹を、いつくしむように撫でて。


 カズミは、その手をはるか上空へと伸ばした。


 血に塗れた指の示す先にあるのは、月。

 真っ赤に染まった、新月。


 めり。


 聞き慣れない音がした。


 めりめり。


 カズミの腹が、いびつに盛り上がっていく。


 めりめりめり。


 何かが、赤子が。

 カズミの腹から、この暗くて血で満たされた世界に。


 飛び出して来ようとしていた。


 叫び。


 その声は、カズミのものだろうか。

 良く判らないが、カズミは大きく口を開けていた。


 あのときの。

 あの女と同じように。


 カズミは。

 声にならない叫びを、悲鳴を、慟哭を。

 いっぱいに開いた口腔から響かせていた。


 肉を、皮膚を突き破って。

 小さな手が、カズミの腹から伸びている。


 二本の腕が、虚空を掴む。

 真っ赤な新月目がけて、ぶよぶよの指がうごめく。


 今度こそはっきりと、産声が聞こえてきた。

 不快な三重奏。


 カズミの腹の中から。

 この世界に産み落とされた。


 三つ首の赤子が。


 六つの真っ黒な瞳でタケヒロを睨みつけて。


 大きな、泣き声を発した。


「ねぇ」


 知らぬ間に、カズミがタケヒロの方を向いていた。

 赤子と同じ、真っ黒な眼で。


 タケヒロの顔を凝視して、問い掛けた。


「これが、私たちの子供?」


 タケヒロは、絶叫した。

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