ヨルを狩る者 Episode 2

NES

night, walk with me

第一節 赤く染まる

 頭上には、真っ赤な月があった。

 新月。血の色に染まった真円が、世界を見下ろしている。


 風が巡る度に、ざわ、ざわ、とすすきが喚き立てる。

 まだ青さの残る、背の高い草の群れ。

 その中に、妖しくうごめく影があった。


 ぬらり、と光る肌色。

 粘液の混ざる音。

 そして。


 規則的な、荒い息遣い。


 白い肌は、血と唾液にまみれていた。

 鋭い葉で作られた切り傷が、ちりちりと痛む。

 他の何かに意識を集中していなければ。


 すぐにでも、また忌まわしい行為に引き戻されてしまう。


 乱暴に衣服をはぎ取られた少女は。

 ただひたすらに、時間が過ぎるのを待っていた。

 赤い月が、昇って沈むころには。


 全ては、終わってくれるだろうか。


 細くて華奢な手足は、締め付けるほどに強く押さえられていたが。

 抵抗の意思など無かった。

 何もかもが手遅れだ。

 無駄だ。


 二人の男が、少女の肢体を地面の上にはりつけにし。

 一人の男が、ひたすらに突き入れる動きを繰り返している。


 もう。

 痛みも、何も感じない。

 痺れたような感覚。

 自分の中で動き続ける、異物の感触。


 まだ小さな乳房が、乱暴に、強く握り潰されて。

 咽喉の奥から呻きが漏れた。


 そして。


 吐き出されたもので、自分の中が汚されていく絶望。


「・・・代われよ」


 無駄だと判りつつも。

 自分に覆い被さる男が退いた隙に、身体を起こそうとする。


 再び、少女は強い力で地面の上に押し付けられた。

 まだ終わらない。


 赤い月だけが、全てを見ていた。




 影の刃が一閃して、そこにいるものが切り飛ばされた。


 一つ息を吐くと。

 小島ユウは、自分を取り囲む無数のヨルを見回した。


 負の想念が夜の闇と一つになり、生きているものに害を成す。

 怪異と成り果てる一歩手前の存在――ヨル。


 ユウの胸元で、ペンダントに付いた青い宝石がきらめいた。

 その光に照らされたユウの貌は。


 ぞっとするほどに、美しかった。


 ヨルが、ユウに向かって近づいてくる。

 人間の、女の形をした黒い影。

 大きく口を開けて、何かを叫ぼうとしている。


 それは助けを呼ぶ声か。

 あるいは、悲鳴か。


 いずれにせよ、そこから声は聞こえてこない。

 ユウの左掌を覆うようにして形作られた影の刃が。

 鋭く振り払われ。


 ヨルは、その形を失った。


「くっ・・・」


 ヨルから流れ出た想念を受け止めて。

 ユウの表情が曇った。


 痛みと、苦しみ。


 そして、あきらめと、絶望。


 赤い月の下で。

 いつ終わるとも知れぬ凌辱のときを経て。


 果たして、彼女は何を見て。

 何を感じたのか。


 ユウの眼前で、新たな女の影が身を起こした。

 月に手を伸ばして。

 いっぱいに口を開いて。


 叫んでいる。

 声は無い。だが、明らかに女は叫んでいた。


 もう、正気ではない。


「苦しかったのね。もういいの。全部終わったから」


 ヨルが、かつて人であったころの想い。

 行き場の無い、苦しみと、痛みと、悲しみを。


 全て、その身に受けながら。


 ユウは、刃を突き立てた。



 その一撃がとどめとなって。

 夜は、再び静けさを取り戻し始めた。


 消えていくヨルの姿を、呆然と見つめながら。


 ユウは、静かに膝をついた。


 その眼から、涙が零れ落ちる。

 一つ、また一つ。


 声を殺して静かに泣いているユウの胸元で。

 青い宝石がまたたいていた。




 重い金属のドアを開けると、外の汚い空気が溢れ出してきた。

 空調の室外機や、排気ガス、近くの飲食店の換気扇から漏れる煙。

 それらが全て混ざり合って、何とも形容しがたい臭気を生成していた。


 新川ケイスケはそのままドアの外に身を乗り出して。

 屋上の床を、上物の革靴で踏み締めた。


「はぁ、たまったもんじゃないな」


 夜の繁華街は、ネオンの光で満たされていた。

 空には本物の星が見えている時間なのだろうが。

 今ここでは、人口の光が何もかもを駆逐してしまっている。


 オーダーでしつらえたスーツの内ポケットをまさぐると。

 ケイスケはタバコとライターを取り出した。


 自分の持ちビルだというのに、喫煙所も無いというのはどういう了見だろうか。

 一服するために、わざわざこんな臭くて汚い場所を訪れる必要があるとは。

 次に来るときまでに、一部屋潰して喫煙室を設けておくべきだ。


 一本取り出して口に咥えて。

 安物のライターで火を点ける。

 タバコはジャンクだ。

 これに金をかけるつもりにはなれない。

 そんなことをする余裕があるのなら、投資するべきものは他にもたくさんある。


 ふぅ、と煙を吐き出したところで。

 携帯がやかましく振動した。


 左ポケットの携帯は、プライベート用のものだ。

 ということは、相手はタダシだろう。

 確認しないわけにもいかない。

 携帯を手に取って、画面を見て。

 予想通りの結果に、ケイスケは思わず「はっ」と声を漏らした。


 タダシとは長い付き合いになる。

 一緒になって色々とヤンチャしてきた仲だ。

 だがお互いに、既にいい年齢になっている。

 ケイスケのようにうまくやれ、とは言わないが。


 そろそろ、地に足を着けて生きるべきだ。


 事あるごとに金の無心を送ってくるので。

 こうなるともう、強請ゆすりのようにすら思えてくる。

 昔なじみのよしみで、ある程度の我がままは聞いてやっていたが。


「潮時、かなぁ」


 ぽつり、と呟いて。

 煙草を落とすと、ケイスケは靴の先で踏み消した。


 目の前には、大して綺麗でもない安っぽい夜景。

 ケイスケと同じ、粋がって、突っ張っているだけの、空虚な光

 ぼんやりとそれを眺めながら、ケイスケは遠い過去に思いを巡らせた。


 ケイスケの家は、地元の名士という奴だった。

 幼いころから何一つ不自由はしていなかったし。

 逆らう者など、誰一人としていなかった。


 金であろうが、何であろうが。

 思い通りにならないことなど、何も無かった。

 例外など存在しなかった。


 ケイスケのおこぼれにあずかろうと、頭の悪い連中が何人もすり寄ってきた。

 その中でも最高に頭が悪かったのが、タダシだった。

 何しろ未だにケイスケにたかってくる始末だ。

 救いようのないバカだと言える。


 それともう一人、タケヒロ。

 今ではすっかり疎遠になってしまったが。

 タケヒロは、ケイスケに言わせればタダシの次に頭が悪かった。


 自分だけは違う。

 自分だけは正しい。


 そういう態度が透けて見える、いけ好かない奴だった。

 だから、何かをするときはワザと呼び出してやった。

 一緒に行動することを強要した。


 タケヒロなど、ケイスケと何も変わらないということを。

 身をもって教えてやった。


 それなのに、結局理解できなかったのだから。

 バカ以外の何者でもない。


 そういえば、あのときもその三人だったか、と。

 思い至ったところで。



 ケイスケは、背後に何者かが立つのを感じた。



「ああ、そうか」


 こんな場所で、こんなことを考えるのは。

 偶然にしては出来過ぎている。

 何かの作為があると疑った方が自然だろう。


 ただ、それがこんな形のものだとは。

 ケイスケには予想できていなかった。

 そういうことだ。


「ヒロキか。久しぶりだな」


 後ろを振り返らずに、ケイスケはそう声をかけた。

 返事は無い。

 だが、ケイスケには確信があった。


 今、ケイスケの背後に立っているのは、ヒロキだ。


「お前、今頃になって復讐か?」


 誰かが近付いてくる気配がする。

 足音も何も無い。

 それでも、ケイスケには判った。


 ここにいるのは、間違いなくヒロキだ。


「まあ、いつ、とかは関係ないか。お前はあのときからずっと俺を恨んでいた。それだけのことだ」


 ゆっくりと、ケイスケは後ろを振り返った。


 そこには、真っ暗な闇があった。

 見通すことのできない深淵。


 屋上からビルの中に戻る扉も。

 まばらで面白みのないネオンの灯りも。


 全てが、暗黒の内に飲み込まれている。


「悪かった、とは思ってるんだぜ?これでも一応はな」


 ケイスケは一つ息を吐いて、目をつむった。

 目を開けても閉じても、同じこと。

 どうせ、もう漆黒以外に視界に入るものなど無い。


 いさぎよく、あきらめる。


 いつか、誰かにこうやって復讐されるのだろうと、ケイスケはそう自覚していた。


 それだけのことをしてきた。

 人を傷付けて、うまい汁を吸って。

 そのままのうのうと生きていられる方がおかしい。


 どうせ人は、いつか死ぬ。

 それならその限られた時間を、せいぜい面白おかしく生きた者が勝ちだろう。


「ヒロキ、お前には悪いがな」


 ケイスケの口元に、笑みがこぼれた。


 ここまでか。

 まあ、楽しかったかな。


「死んだ人間のことは、どうこう言ったって始まらねぇよ」


 強い力で、身体全体が弾き飛ばされた。

 呼吸が止まり、ぐぅっ、という声が漏れる。


 足元の感触が消えている。

 浮いている。


 そう感じて目を開けると。


 月が、見えた。

 ケイスケの胸にあてがわれた、尖ったナイフを思わせる。

 鋭い三日月。


「ああ、これが報いか」


 ・・・仕方ねぇな。


 落下の加速を感じる。

 屋上のフェンスを越えて、外に投げ出されたのだ。

 どういう力によるものかは判らなかったが。


 それはもう、ケイスケにとってはどうでもいいことだった。


 地面までの数秒にも満たない時間。

 ケイスケは、何も考えず。

 ただ、笑みを浮かべていた。



 新川ケイスケは、自らがオーナーを務める雑居ビルの屋上から転落死。

 遺書の類は見つかっておらず、事故、他殺の両面から捜査が進められている。

 目撃者はおらず、付近に不審な人影も認められていない。




 桜の花びらが、風に煽られてはらはらと舞い落ちる。

 満開の桜並木の下は、薄紅色のカーテンに覆われているようだった。

 その中を歩いていると、それだけで。

 自分が特別な何かになったみたいに思えてくる。


「お兄ちゃん?」


 横に並んだシオリが、不思議そうに声をかけてきた。

 どうやら、ぼんやりとして足を止めてしまっていたみたいだった。


 白いセーラー服に身を包んだシオリの姿は、まだ見慣れない。

 二つに結んだおさげ髪も。

 透き通るように滑らかで、ふっくらとした肌も。

 優しい眼差しも。


 自分の妹であることが信じられないほどの、愛くるしい笑顔も。


 ヒロキには、まるで夢のように感じられた。


「ごめん、ちょっと桜に見惚れていた」


 ヒロキの言葉に、シオリも桜並木を見上げた。


「うん、すごく綺麗だよね」


 シオリはもう中学生だ。

 子供ではない。


 ほんの少し前までは、よちよちとヒロキの後ろをついてきて。

 事あるごとに泣いて。

 頭を撫でてやると、ぽかぽかと日向のように暖かかった。


 人見知りで。

 知らない人間に声を掛けられるだけで、ヒロキの影に隠れて。

 甘えん坊だと言われて、頬を膨らませて不機嫌になっていた。


 握った掌に力が入る。

 誰よりも、何よりも大切にしてきた妹。シオリは。

 少しずつ、子供から、少女へと姿を変えていっている。


 シオリが、ヒロキの方を見て。

 にっこりと笑った。


 無邪気で、無垢な微笑み。


 シオリはいつでも、ヒロキにその笑顔を見せてくれる。

 妹に懐かれているのは、正直気恥ずかしいと思うこともあったが。

 シオリの顔を見ると、どうしても邪険にはできなかった。


 誰よりも近くて。

 誰よりも自分を慕ってくれる。


 春の陽射しの下で。

 ヒロキは、美しくなった自分の妹を見て。


 自分には、恋はできそうにないと。


 そう、自覚した。




 まぶしい。

 ちかちかする。


 なんだろうと思って目を開けると、街灯の明かりだった。

 そんなものがこんなに強く感じるのか。

 公園のベンチの上で、ヒロキは身体を起こした。


 まだ真夜中を少し過ぎた程度の時刻。

 辺りからは何の物音も聞こえてこない。

 だいぶ遠くで、幹線道路を自動車が行き交う音がかすかにするくらいだ。


 公園には、ヒロキ以外には誰もいない。

 ぐるりと、周囲を見回してから。


 ヒロキは、自分の掌をじっと見つめた。


 感触が、ありありと残されている。

 この手で、突き落としたのだ。

 明らかに自分の、この手だ。


 不敵な笑みを浮かべたまま、落下していくケイスケの顔。

 ケイスケは、ヒロキに復讐されることを判っていた。

 その上で、受け入れていた。


 報い。


 そうだ、これは報いなんだ。

 ヒロキの中に、冷たい炎がともった。


 最初に「力を貸してやる」と言われたときは、半信半疑だった。

 そんな虫の良い話があるはずがない。

 自分にできることなど、何も無い。


 ただ、どうせ何もできないというのなら。


 せめて一度試してみようと、そう思い立ったのだ。


 やれるというのなら、何でもしてみよう。

 何事も無かったかのように生きている連中に対して。


 一矢だけでも。

 自分という苦しみがあることを。


 最後に、思い知らせてやりたかった。



 そして、この力は、本物だった。



 ヒロキは誰にも悟られずにケイスケの下に辿り着き。

 その胸ぐらを押して。


 ビルの屋上から、叩き落としたのだ。


 復讐の力。


 一人を殺して、もう一人を探している間に。

 あるいは、二人を殺しても、もう一人に逃げられている間に。

 ヒロキが警察に捕まってしまうようでは、何の意味も無い。

 そうやって幾度も考えて、その度に断念してきた。


 三人を、全員を。

 一人残らず、この手で、確実に葬り去る。

 殺す。


 この力があれば、それができる。

 長い間あきらめていた彼らへの復讐が、ようやく実行に移すことができる。

 ヒロキは掌を強く握りしめた。


 ヒロキの胸の中で、炎が燃えている。

 決して消えることのない、恨みの炎。

 大切なものを踏みにじられた痛みと、苦しみと。


 深い、悲しみ。


「ヒロキさん」


 突然声を掛けられて、ヒロキは顔を上げた。


 気配も無くヒロキの前に現れたのは、一人の少女だった。


「・・・あんたか」


 長い黒髪が、ふわり、と揺れた。

 十三、四才といったところの、すらりとした体つきの少女。


 その胸元で、ペンダントに付けられた青い宝石が光を放って。

 まだ幼さを残しつつも。

 年恰好にふさわしくない憂いをたたえた。

 美しい少女の貌を照らし出した。


「ついに、やってしまわれたんですね」


 少女――小島ユウは、悲しげにそう口にした。


「そのための力だ。あんたに何を言われようが、俺は復讐をやめるつもりは無い」


 ヒロキがこの力を手に入れたとき。

 この少女、小島ユウがヒロキの下を訪れて。

 復讐をやめるようにと、説得を試みてきた。


 その力は、ヨルと呼ばれる存在に結びつくものである。

 ヨルとは、行き場の無い負の情念が夜の闇と交わったもの。

 ヒロキがその力を使って復讐をおこなえば。

 ヒロキは生きたまま、ヨルと化してしまう。


 ユウは、それを止めたいということだった。


 しかし。


 ヒロキにしてみれば、この力は千載一遇のものだった。

 ずっと望んできた、あの男たちへの復讐。

 それが叶うというのなら。


 自分など、その後どうなろうと知ったことではない。


「このまま復讐を果たせば、あなたはヨルですらなくなってしまう」


 ユウの言葉は、しかしヒロキには届いていなかった。


 ヒロキの中は、燃えたぎる憎しみの炎だけで満たされている。


 ヒロキは、既にケイスケを殺してしまった。

 一人殺してしまったヒロキには。

 もう、戻る道など残されてはいない。


「あと二人。そいつらを殺すまでは、誰であっても邪魔はさせない」


 ぎろり、とユウを睨みつけて。

 ヒロキは、冷たい覚悟の言葉を告げた。


 ユウは少し悲しそうな顔をしただけで。

 それ以上は何も言わずに、きびすを返すと。


 静かにその場を後にした。

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