地獄変~画の道の果て~

森沢依久乃

堀川の大殿様からの依頼

 師匠のような方は、これまでは固より、後の世にも恐らく二人とはいないだろう。

 優れた人格者では決してなかった。横柄で高慢で、人として大事な何かが欠けていたのは確かだ。それゆえに多くの人に嫌われ疎まれた。

 しかし、絵師として悪く言える者はいなかっただろう。かくいう私も、「智羅永寿」などという渾名をつけて陰で師を謗っていながら、その絵を目の前にすると、尊敬の念を抱かざるを得なくなる。

 師匠は骨の髄、魂の奥底まで、絵師だった。

 ……だからこそ、あのような画を描けた――否、描いてしまった。

 地獄変を――


                  ◇


 あれは木々が赤く色付く頃だった。

「地獄変の屏風、でございますか?」

 私は、師匠の顔を仰ぎ見る。揺らめく蝋燭の炎が、痩せすぎの老人の横顔を不気味に浮かびあがらせている。

「ああ。堀川の大殿からの御云いつけだ」

 低く嗄れた声で、師匠は返事を寄越す。

 そういえば今日の昼、師匠が堀川の大殿様のところへ参上なさっていた。その時に言い付かったのだろう。

「はあ……。それでお描きになるのでございますか」

 私が恐る恐る問いかけると、師匠は目をぎょろりとこちらに向けた。その目には苛立ちの炎が映っている。さっと、私の顔から血の気が引いた。

「愚かなことを問うな、弘見。この己が、描かぬなどと言うとでも?」

「も、申し訳ありません」

 私は思わず頭を下げた。師匠を怒らすと何をされるか分からない。

 がたがたと体を震わせながら、次のお言葉を待つ。やがて師匠は、フンと鼻を鳴らした。

「明日からとりかかる。他の者にも伝えるように」

 それだけ言うと、さっさと部屋を出て行ってしまわれた。

 私はほっと安堵のため息を吐く。折檻は何とか免れたらしい。額に滲み出た冷や汗を拭う。

「しかし……」

 地獄変の屏風を描けなどと命ずるとは。堀川の大殿様は何を考えておられるのか。偉い方の考えることは、良く分からない。

 そもそも、私はあの大殿様が少し苦手だった。特にあの目がだめだ。普段は貴族らしく静かであるのに、ふとした拍子に酷く冷たい目をなされる。それが何やら恐ろしい。大物であるのには違いないのだろうが、何か悪いものを隠し持っているような気がしてならない。常に横暴な師匠の方がまだましだと思える。

 それに、大殿様は師匠のことを嫌っている筈である。何度も娘の良香様の御暇を願い出たためだ。良香様は、堀川の御邸に入ってからやつれてしまわれたご様子だった。

 師匠の気持ちも分からなくはない。ただ、立ち回りが下手ではあったと思う。あのようにしつこく申せば、不興を買うのも仕方がない。

 その大殿様が、地獄変の屏風を師匠に御云いつけなさった。

「……」

 私は部屋を照らす蝋燭の炎に目を向けた。静かに灯るそれが、何故か厭なものに見えて仕方なかった。

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