異変
翌日から、師匠は画にとりかかった。
師匠は一度画筆を取ると、描き上げるまでは何も彼も忘れ、絵のことばかりになってしまう。故に、弟子の私たちのする事と言えば、絵の具を溶くか、師匠の呼び出しを待つかぐらいである。或いは、師匠の絵の描く様をお傍で見るか。そんな命知らずな真似をするのは、私を含め数えるほどしかいないが。
今回もいつもと変わらず、日がな絵の具を溶いたり、大小言に心を磨り減らしたり、見つからないように絵を垣間見たりするのだろう。そう思っていた。
異変を感じたのは、画を描き始めて十日も経った頃だった。
特にすることもなくぼんやりと絵の具を溶いていた時のことである。
「弘見」
名を呼ばれて振り返ると、師匠が丁度私の後ろに立っていた。
「己は少し午睡をしようと思う。がどうもこの頃は夢見が悪い」
私は手を休めずに、ただ、
「さようでございますか」
と一通りの挨拶をした。別に珍しいことでもない。昼も夜もなく画を描いているため、寝るのも夜とは限らない。
いつもと同じ。そう思っていたのに。
師匠の顔が悲しげに歪んだ。私は思わず手を止めた。師匠のこのような表情を私は見たことがなかった。
「就いては、己が午睡をしている間中、枕もとに坐っていて貰いたいのだが」
耳を疑った。師匠が夢なぞを気にして、弱音を吐くなど今までになかったことだ。
一体師匠に何があったというのだろうか。不思議に思いながらも、
「よろしゅうございます」
と応えた。すると、師匠はまだ心配そうに、
「では直に奥に来てくれ。尤も跡で外の弟子が来ても、己が眠っている所には入れないように」
と、ためらいながら云いつけた。奥というのは、師匠が画を描く部屋だ。
師匠はその部屋に入ると、肘を枕にして、まるで疲れ切った人間のように睡入ってしまった。
私はその顔をじいっと見つめた。よく見てみると、いつもより大分顔色が悪いようだった。気がつかなかった。師匠が恐ろしくて顔を正面から見ることもなかった。
こうして見ると、確かに美しいとは言えない顔立ちだが、化け物のように恐ろしいわけでもない。普通の老人だ。
今度からは、少し師匠の体も気にかけてみようか……そう思いながら絵の具を再び溶き始めた時。
何とも彼とも言いようのない、気味の悪い声が耳に入った。
それは、始めは唯の声だった。しかし、暫くすると、次第に切れ切れな語になって、溺れかかった人間が水の中で呻るような、妙なことを言い始める。
「なに、己に来いと云うのだな。――どこへ――どこへ来いと? 奈落へ来い。炎熱地獄へ来い。――誰だ。そう云う貴様は。――貴様は誰だ――誰だと思ったら」
私は思わず絵の具を溶く手をやめて、恐る恐る師匠の顔を、覗くようにして透かして見た。皺だらけの顔が白くなった上に大粒な汗を滲ませながら、唇が干いた、歯の疎らな口を喘ぐように大きく開けている。その口の中で、何か糸でもつけて引張っているかと疑う程、目まぐるしく動くものがあった。舌だ。切れ切れな語は、この舌から出てきていた。
「誰だと思ったら――うん、貴様だな。己も貴様だろうと思っていた。なに、迎えに来たと? だから来い。奈落へ来い。奈落には――奈落には己の娘が待っている」
低い、低い声。人の声とは思えない、まるで地獄から響いてくるような。途端、朦朧とした異形の影が、屏風の面をかすめてむらむらと下りて来るように見えた心地がした。
私は震える体を何とか抑えて、師匠の体に手をかけた。
「師匠! 師匠!」
力のあらん限り揺り起こしてみるが、師匠は猶夢現に独り言を云いつづけて、眼のさめる気色がない。そこで私は思い切って、側にあった筆洗の水を、ざぶりと師匠に浴びせかけた。後が怖いが仕方ない。これはどうにも尋常ではない。
「待っているから、この車へ乗って来い――この車へ乗って、奈落へ来い――」
と云うと同時に、喉をしめられるような呻き声に変ったと思うと、やっと師匠は眼を開いて慌しく刎ね起きた。まだ夢の中の異類異形が後を去らないのだろう。暫くは唯恐ろしそうな眼つきをして、大きく口を開きながら、空を見つめて居たが、やがて我に返ったたようで、
「もう好いから、あちらへ行ってくれ」
と、今度は如何にも素っ気なく、云いつけた。私は恐ろしさも相まって、返事もそこそこ部屋から飛び出した。部屋から大分離れた所で、足を止めて息を整える。
「あれは……」
眼を閉じて、胸を押さえる。師匠の声がまだ耳に張り付いていた。
――誰だ。そう云う貴様は。
――誰だと思ったら――うん、貴様だな。
――奈落には己の娘が待っている。
――この車へ乗って、奈落へ来い。
「師匠……」
ふと顔を上げると、明るい日の光が私の顔を照らしていた。暖かい光だ。まるで自分が悪夢から覚めたような、ほっとした気がした。
――しかし、これは始まりに過ぎなかった。
翌日、屏風には獄卒の姿が描かれていた。
一月後、私と仲の良かった盛岡が蛇に襲われた。聞けば、「わしは鎖で縛られた人間が見たいと思うのだが、気の毒でも暫くの間、わしのする通りになっていてはくれまいか」と言われ、鎖で縛られたそうだ。その間に蛇が部屋の隅にある壺から逃げ出したらしい。
「師匠が気が違って、私を殺すのではないかと思った」
引き攣った笑みを浮かべながら、彼は吐き出すようにそう云った。逞しい体には赤いみみず腫れが走っていて、痛ましい。私は黙って彼の手当てをした。
翌日、屏風には鉄の鎖に縛められた罪人の姿が描かれていた。
更にその一月後、弟弟子の金茂が耳木兎に襲われた。まだ十三四歳で、女のような出で立ちの優しい少年だ。よほど恐ろしかったのだろう。私たちが駆けつけた時には、口が利けないようになっていた。そして、七日後には暇を取って郷にさがった。
翌日、屏風には怪鳥に悩まされるものの姿が描かれていた。
このような類のことは、その他に幾つもあった。師匠の怪しげな振舞は日に日に増えていき、皆師匠の周りにはなるべく近づかないようになった。かく云う私も、恐ろしくてなるべく近づかないようにしていた。
ただ、どうやら、屏風の方は捗ってはいないようだった。八分程は出来上がったようだが、そこから一向に進んでいない。
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