問答
そのような日が続いていたある日の事。
師匠に呼ばれて、私はためらいながら廊下を歩いていた。ここのところ妙なことばかり続くから、何をされるのかと不安だったのである。
寒い廊下を我慢して歩いていると、やがて師匠の部屋の前に着いた。足を止め、声をかけようとした、その時であった。
部屋の中からすすり泣く声が聞こえた。私はぎょっとして、息を潜めながら障子を少し開けて、中を垣間見る。
師匠は、泣いていた。手で顔を覆い、くぐもった押し殺した声で嗚咽していた。それはまるで、罪を犯してしまった人の嘆き悲しむ様子で。
私は、仲間の弟子の一人が話していた話を思い出す。何でも師匠が庭先で空を見ながら、眼に涙をためていたと言うのだ。聞いた時は、信じていなかったのだが。
そうだ、まさかあの師匠に限って――
「弘見か」
私の名前が呼ばれて、肩が跳ねた。師匠は相変わらず顔を手で覆ったままで、私の方を見ていなかったが、気付いていたらしい。
「お、お声もかけず、申し訳ありません」
「良い。入って来い」
「はい。失礼いたします」
わたしはそそくさと礼をすると、師匠の前に膝を着く。なんだかばつが悪い。
「お前、親族兄弟はいるのか」
私が坐るなり、師匠はそんなことを云ってきた。
「はあ、居りますが。母と、同腹の妹が一人」
質問の意図が掴めず、私は内心で首を傾げる。
「そうか」
師匠は短くそう答えると、目をやっとこちらに向けた。白目は赤くなっていて、先程まで泣いていたことが嘘ではないと分かる。
「では一つ問うが」
「はい」
「親族と画、どちらかを選べと言われたら、どうする?」
「は……」
私は唯、師匠の目を見つめ返す。その顔はどう見ても、冗談を云っているようなものではなかった。
「失礼ですが、仰っている意味が……」
「親族の命を差し出せば優れた画が描ける。差し出さねば、お前は生きている間画が描けなくなる。そうなった時、お前ならどうするかと聞いているのだ」
何だ。それは。何を仰っているのかさっぱり分からない。
しかし、問うている師匠が真剣であることは火を見るよりも明らかだった。ならば、私も真剣に考えねばなるまい。大小言はできれば貰いたくない。
しかし、このようなこと――
「……」
思う。郷にいる母や妹のことを。私とて人並みに家は大切だと思っている。できれば守りたいし、母や妹が幸せには幸せになって欲しい。
しかし同時に、画の道も私は捨てられない。師匠程の才は無いと分かっていても、この道から離れたいと思ったことは一度もない。だからこそ、師匠の横暴にも耐えてきたのだ。
でも、どちらかしか選べない。
その時、私は――
「私は、」
どちらを、選ぶ?
ゆっくりと口を開く。答えを選ぼうとして――
「…………いえ」
私は目と口を閉じた。
違う。そうではない。
顔を上げた。きっとこれは、師匠の望む答えではない。それでも、私はこう答えるより他なかった。
「私は、選びません」
「なに。選ばないと?」
師匠は目を瞠った。
「はい。私は未熟者ゆえ、選べません。画も家も、どちらも失いたくございません」
私は逃げるだろう。このような事を選ばせる事自体から。
師匠のようになることはできない。私は唯の絵師見習いだ。
「申し訳ありません。師匠にご満足いただけるお答えではないと存じますが」
「……いや」
師匠はそう答えたきり、体を強張らせて動かなくなってしまった。その目はまだ赤く、私を見ているようで見ていなかった。
私も師匠も、暫くの間唯黙っていた。西日が、刺すように部屋に入り込んでくる。
やがて、師匠は震える声でこう云った。
「明日、堀川の所の、雪解の御所へ参上する。お前もついてくると良い」
「承りました。しかし、また、なにゆえ……」
まだ屏風は完成していないはずである。しかも堀川の御邸にはつい二三日前参上したばかりだ。
師匠は嗤った。唇を吊り上げて、まるで鬼のように嗤った。
そう。それは不気味な笑みだった。だと言うのに、私にはそれが、小さな童が不安げな表情を浮かべているように見えた。
「車を、焼くのだ――」
――この車へ乗って来い――この車へ乗って、奈落へ来い――。
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