画の道の果て
雪解の御所は異様な静けさに包まれていた。
多くの奉公人が庭に集まってはいたが、誰も何も云わない。通夜のような有様だ。
視線を滑らすと、見知った顔を見つけた。堀川の大殿様に二十年も仕えているという奉公人だ。師匠に連れられてたびたび屋敷を訪れる中で知り合った者だった。
かなり遠くの方にいて、きっとあちらからは見えていないだろう。後で挨拶だけでもしておこうか。呑気にそのようなことを思っていると、堀川の大殿様が師匠に何やら呼びかけてきた。
私は目の前の車に目を向けた。檳榔毛の、いかにも金のかかっていそうな車だ。このようなものを焼いてしまうとは、勿体無い事をするものだ。焼くなら、もっと古くて壊れた、捨てる前のようなものを焼けば良いのに。やはり、偉い方のお考えになっていることは分からない。
「その内には罪人の女房が一人、縛めた儘、乗せてある。されば車に火をかけたら、必定その女めは肉を焼き骨を焦して、四苦八苦の最期を遂げるであろう。その方が屏風を仕上げるには、又とないよい手本じゃ。雪のような肌が燃え爛れるのを見のがすな。黒髪が火の粉になって、舞い上るさまもよう見て置け」
私は大殿様のお言葉に目を見開いた。そのようなこと、聞いていない。
師匠の方を仰ぎ見る。師匠は表情もなく、唯一心に車を見つめている。大殿様のお言葉も耳に入っているか疑わしい。
「末代までもない観物じゃ。予もここで見物しよう。それそれ、簾を揚げて、良秀に中の女を見せて遣さぬか」
大殿様がそう仰ると同時に、車の簾が揚がった。私は再び車に顔を向けた。
車の中にいたのは――
「な……」
驚きが喉を締め付け、悲鳴まで押し殺す。
「良……香、様……」
車の中にいらしたのは、師匠の娘の良香様だった。きらびやかな繍のある桜の唐衣にすべらかし黒髪が艶やかに垂れて、うちかたむいた黄金の釵子も美しく輝いて見える。前に見た時とは随分身なりが違うが、間違いない。
「師、匠……師匠! 良香様が……良香様が……」
うわ言のような言葉が口から零れていく。
分からない。さっぱり分からない。何故このようなことになっている。何故!
――親族と画、どちらかを選べと言われたら、どうする?
「まさか……」
後ずさる。だが同時に何処かで、やはりそうか、とも思っていた。
――親族の命を差し出せば優れた画が描ける。差し出さねば、お前は生きている間画が描けなくなる。そうなった時、お前ならどうするかと聞いているのだ。
「火をかけい」
大殿様の冷たいお言葉とともに、
火が――
――この車へ乗って来い――この車へ乗って、奈落へ来い――。
――奈落には――奈落には己の娘が待っている。
◇
迸る炎が、すべてを燃やし尽くしていく。それは闇を照らす優しいものではなく、唯壊すだけの冷たいものだ。
見えるのは、広がる赤と白と黒。聞こえるのは、炎の弾ける音と――断末魔。
これは、
これが、地獄だ。
ただし、私にとっての地獄ではない。師匠にとっての地獄だ。娘が炎に焼かれていくなど、これ以上ない苦痛だろう。
これを、描くのか。
これを描くことが、画の道の果てだと云うのか。
「こんな、こんなもの……」
師匠の背中を見る。師匠の表情を見ることはできない。しかし、想像がついた。きっと恍惚とした表情を浮かべている。そうだろう。これは師匠が望んだものなのだ。
「こんなものが……?」
師匠の背中を見る。それは画の道を極めたものとしての姿だ。さぞ荘厳に違いない。
であるのに、何故、寂しそうに見えるのだろうか……。
「本当に、これしか道はないのでございますか」
炎に照らされて黒く染まっていく師匠の背中に、私は小さく問う。
答えは、無かった。
こうして、良香様は贄として焼かれた。
そして、師匠は、
人として、死んだ。
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