後編
足音と虫の音と、呼吸音。それが世界の音のすべてだった。
時々転びそうになりながらも、何とか歩いていく。彼女の方は相変わらず、しっかりとした足取りだ。
そんなことまで羨ましい。どうしようもないな、と一人嗤う。
木々に囲まれた道を暫く歩いていると、やがて開けた場所に出た。少し歩いたところで、彼女は立ち止まる。
「ここで見る。シートと望遠鏡、設置する」
そう言うと彼女は素早く荷物を解いていく。
「俺は何をやればいいですか」
「今回はシート広げるだけ。お願いできる? 後は私がやるから」
「はい。わかりました」
レジャーシートを手に取ると、鈍い痛みを感じた。今日一日で随分傷ついてしまった手。そんなことに充足感を感じている自分がいた。
「……できた?」
シートを設置し終わると同時に、彼女が声をかけてくる。どうやら彼女の方は望遠鏡の組み立てを終えたらしい。
「……はやいですね」
簡単そうに見えて、望遠鏡を組み立てるのは結構難しい。
「慣れてるから」
なんでもないことのように流して、彼女は横を向く。
「そろそろ明かり消すから」
「あ、はい」
刹那どうするべきか迷う。結局、俺はシートの上に寝転ぶことにした。たぶんこれが、スタンダードの筈だ。
「目、瞑って」
唐突に、彼女から意味の分からない要求が飛んできた。
「なぜ?」
「そうしたほうが、暗闇に慣れるから」
「なるほど」
俺はすぐに瞼を落とした。
衣擦れの音がして、次いでカチリとボタンを押す音がした。次の瞬間、瞼の外に感じていた光が消え失せたのが分かった。
完全無欠の闇。どうやらこれに暫く浸っていなければいけないらしい。
…………。
五分程、経っただろうか。闇の中ではどうも時間が水あめのように延びて感じるので、定かではないのだが。
「そろそろいいですかね」
「うん……開けて見て」
彼女の許可を得て、俺は慎重に瞼を持ち上げた。
無数の光点――。
ただ、それだけの景色。
空を埋め尽くさんばかりに、ばら撒かれた白い点。
闇の中に無秩序に配置された小さな光の群衆は、綺麗と言えば綺麗かもしれない。でも、それだけだ。どれがどれだか分からない俺には、この星の光も都会のビルの光も大差がない。
星座も一等星も。不勉強な俺には、目の前に広がっている空にそれを当てはめることができない。
俺は首を傾けて彼女の方を向く。彼女はどうやら望遠鏡の隣に立っているらしかった。手にはぼんやりとした赤い光を抱いている。
「……先輩」
「ん」
「空、何か星座あります?」
「うん。今は夏の大三角が綺麗に見える」
そう言うと、彼女は手元の赤い光を切る。そして懐からレーザーポインターを取り出して、星空に向ける。スイッチを押すと細い光線が空に向かって真っ直ぐ放たれた。
「あれがこと座のベガ。こっちがわし座のアルタイル。で、あちらがはくちょう座のデネブ……」
光線は無数の星々の中から、一つの星を的確に暴き出す。
けれど、しるべである光線が消えると、たちまちその他の星に埋もれていってしまう。
「それ以外にもあるんですか、星座」
「うん……後、有名なのは、北斗七星とか」
「そうですか……」
俺はそう言って口を閉ざす。彼女もまたそれ以上は喋らなかった。静寂が質量を持ったように重い。
――天啓を、待っていた。
無数の光点が結びつき、一つの形になることを。
未来への導が在ることを。
空にはそれがあると、無条件に信じていた。
けれど。
そんなものは降って来なかった。
心のどこかでは分かっていた筈だ。祈るだけでは何も得られない。星座は学ばなければ分からないのだ。
分かっていても、俺にはただ待つことしかできなかった。祈って、期待して、待つ。それだけ。
高校の時、天文部を辞めたのは期待が裏切られたからだった。
それでも、きっと今でも、俺は懲りずに「待っている」のだろう。
「先輩は、星座の勉強とか、してたんですか」
俺は再び彼女に問いかける。
「した。天文部に入りたての頃。もともとギリシャ神話好きだったから、覚えやすかったけれど。それでも、一年はかかったかな」
「……」
俺は何も言えなかった。
「望遠鏡、見る?」
彼女はそう言って俺の顔を覗き込んできた。微かな風が彼女の髪をやわらかく揺らしている。毛先は半ば闇と同化していて、彼女を曖昧にしているようだった。
「いえ。いいです」
「そう……」
星の一つを拡大したところで、何が変わるだろう。それに、望遠鏡で星を見ることもコツがいるのだ。
静寂が再び俺たちを襲ってくる。
俺も彼女もただ空を見上げていた。崇めるように、逃げこむように。
「先輩は、将来どうするとか、何しようとか……計画みたいなのはあるんですか」
先に耐えられなくなったのは俺のほうだった。一見この星空とは関係ないような、けれど俺にとっては関係のある質問をぶつける。
彼女はその意図に気がついたのか気がついていないのか。ただ、俺のほうに一瞬だけ視線をよこした。けれどすぐに星空に戻される。
「ある」
簡潔な返答。たった二文字がひどく厭な音に感じられた。
「子どもの時から、弁護士になりたかったから」
「それで、法学部に?」
「そう」
迷いのない強い肯定。射抜くような光が彼女の瞳に宿っていた。
胸が絞られるように痛む。この痛みに名前をつけるとしたら、それはきっと「嫉妬」だ。
逆恨みに近いことは分かっている。それでも羨ましくて妬ましくて仕方がない。
彼女は立っていて、俺は寝転がっている。俺は彼女を見上げるしかない……。
俺が黙っていると、彼女は再び口を開いた。
「だから、きっと来年から忙しくなる。……もしかしたら、夏はこれが最後かもしれない。学生じゃなくなったら、次はいつかも分からないし」
「そうだったんですか」
彼女にとってこの天体観測はとても意味のあるものだったらしい。ますます何故俺なんかを連れてきたのか、分からない。
「だから、そう。ごめんなさい。私、嘘をついた」
「え」
俺は思わず目を見開いた。突然の謝罪にただ呆然とする。
「気まぐれなんかじゃない。最後は君と星を見ようって、そう思ってた」
「……どうして」
頭がついていかない。何を、言っているのだろう? 気まぐれではない? それは一体どういうことなのか。
分からない。全く分からなかった。
「どうして、だろうね。ただ、高校の、夏合宿の時。君は私と全然違う風に星空を見上げていたから。なんだか途方にくれた目つきで」
彼女はそう言って口角を上げた。どうやら苦笑いのようだ。少々下手な笑顔だ。
「……」
彼女が俺の心情を見抜いていたらしいという事実は、少なからず俺を打ちのめした。
「だから、ちょっと羨ましかった」
「――! な、にを」
声が掠れる。信じられない言葉だった。
羨ましい? 彼女が俺を――?
「君の瞳が映す星空はきっと、自由だから。私は星空を見た瞬間星座を結んでしまうけど、君はもっと違う星空を見られるんだって。そう思って、羨ましくなった」
「……」
淀みなく発せられる声に、嘘偽りはなさそうであった。そう。彼女はきっと純粋に俺を羨ましいと言っている。こんな、何にもない俺のことを。
けれど俺にとってその事実は、受け入れがたいもので。
「なに、言ってんですか……」
身震いが止まらない。歯の根も合わず、話すことがひどく億劫だ。震えを押さえ込むように、左手で右手を強く掴む。
「そんな……羨ま、しい? そんな、そんなの、俺の、俺の方、が……!」
その先は続けられなかった。ぐっと目を瞑って胸のうちの言葉を殺す。もう何も言いたくないし、見たくなかった。
乾いた風が吹き抜ける。耳障りな鼓動の音を掻き消していく。
「ねえ」
風が収まってから、彼女は俺に声をかける。そしてどうやら、しゃがんで俺の右手にその手を重ねたようだった。じんわりとした温もりが、手の痛みを融解させていく。
「空、綺麗?」
単純なその問いが。手の暖かさが。眉間から力を奪った。
開いていった瞳が映した星空。それは相も変わらず、無意味な光の羅列でしかない。
それでも。
「……はい」
意味が分からなくても。何一つ形を成さなくても。――天啓など降って来なくても。
「綺麗ですよ」
目の前の光景が美しいことは、確かだった。
それだけは、確かに分かっていたことだった。
「そっか」
彼女はそっと頷いて、
「それなら、良かった」
その顔に微笑を浮かべた。先程の苦笑より自然で、数倍も良い笑顔だった。
俺は少しだけその顔に見とれた。そして半身を起こす。
「先輩」
「なに」
「やっぱり、望遠鏡、見させてもらっていいですか」
言い訳させてもらえるのなら、これはただの気まぐれだった。
「勿論」
彼女は大きく頷いて俺に手を差し伸べる。俺はその手をしっかり掴んで、望遠鏡の方へ向かった。
翌日。
行きと同じ種類のバスに乗り込む。運転手は昨日とは違う人だった。何故か、少しだけ安堵している自分がいた。
結局、あれから夜通しで観測をした。俺は望遠鏡をある程度使いこなせるようになったし、星座もいくつか覚えることができた。
とは言え、きっと一週間後には忘れてしまっているのだろう。
バスの窓を見つめる。行きの逆再生を見ているかのようだった。だんだんと風景が近代化していく。
「そろそろね」
隣で先輩が囁いた。目が真っ赤に充血して眠そうであるのに、眠ろうとしない。行きはあんなにもあっさり眠ったというのに。
「そうですね」
俺は窓から目を離さずに答えた。丁度、行きに待ち合わせをした駅が見えてきていた。
「先輩、一つ聞いていいですか」
「なに」
駅に着く前に、一つだけ確認したいことがあった。多分後、二、三分しか猶予はない。
「また、会えますかね」
車内放送が終点の駅名を淡々と読み上げていく。先輩は何も答えない。じっと俺を見ている。何の感情もこめられていない瞳で。
そうこうしている内に、バスは静かに止まってしまった。空気の漏れる音と共に、バスのドアが開く。先輩は無言で荷物の支度を始めてしまう。
俺はため息をついた。どうやら、返答は諦めなければならないようだ。俺も遅れながら、荷物に手を伸ばす。
「会えないよ」
手を止める。先輩はバスのドアの前で俺の方を振り返っていた。光が斜めに差し込んで、妙に絵になっている。
「君は――」
言葉を切って。悪戯っぽく微笑んだ。
「後輩歴一年未満で、ほとんど他人だから」
そう言って、彼女はあっという間にバスから降りていってしまう。――俺を置いて。
暫く俺は阿呆のようにポカンと口をあけていた。
運転手が鳴らした苛付いたようなクラクションで我に返る。どうやら早く降りろと言うことらしい。
ここでやっと俺は彼女の行動を理解した。胸の奥から可笑しさが込み上げてくる。
「やっぱり、気まぐれじゃないですか」
笑い混じりの声でぼやきながら、俺も荷物を背負う。
「でも、まあ、違いないですね」
俺はもう先輩には会わないだろう。そして、この天体観測のこともだんだんと忘れていくだろう。
天啓は降りて来なかった。
それで、いい。きっと。
天啓を待つ 森沢依久乃 @morisawaikuno
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