天啓を待つ

森沢依久乃

前編

 ――久しぶり、夢木君。

 ――突然だけど、星を見に行かない……一緒に。



 バスの窓から、流れていく景色を見つめていた。

 ビルが消え、住宅が消え、民家が消えて行く。都会で育った者として、そこに一抹の不安を覚えなくもない。

 隣に座っている彼女はどうだろうか。首を回して見ると、彼女は目を閉じて寝息を立てていた。俺は一つ、ため息を吐く。

 おそらく、彼女は今更不安など感じないのだろう。何度も何度もこういう経験をしてきた筈だから。すぐにやめてしまった俺と違って。

 星を見るために。

 俺も彼女に倣って目を閉じる。バスの排気音がいやに耳についた――。


 甲高いブレーキ音に首を上げる。どうやら少し眠ってしまったようだ。無機質な車内放送はここが終点であることを告げていた。

 俺は慌てて彼女の肩を揺らす。

「ん……」

 彼女はむずがりながらも、すぐに目を開ける。だが、覚醒までには至らないようで、ぼうっと虚空を見つめている。

「先輩、着きましたよ」

 言ってから、少しだけ詰まる。「先輩」という言葉がまだ馴染まない。舌先で硬い石を転がしている感じがするのだ。

「ん、ああ……そう」

 俺の言葉で彼女は覚醒したようで、一つ伸びをすると立ち上がった。動きに合わせて長い黒髪が一瞬だけふわりと広がる。そして荷台から大きな荷物を取ると、慣れた手つきで背負った。

 俺も彼女のものよりは幾分小さい荷物を取る。だが背負った瞬間、その重さにふらついてしまう。大学に入ってからまともな運動をしていないからだろうか。鍛えたほうがいいのかもしれない。

「どうしたの」

「……いえ」

 彼女は俺の方を見て首を傾げる。背負う荷物を負担に感じている様子はない。

 情けない――。慣れた劣等感が心に浮上した。


 降車時、やる気のなさそうな運転手が俺たちを一瞥した。その瞳にある種の下衆な好奇心が見て取れて、俺は苦笑する。

 誰も降りそうにない山奥のバス停に、男女二人。妙な勘繰りがあっても仕方ないことだろう。

 バスが完全に見えなくなってから、俺は彼女の方に顔を向けた。

「ここから、どれくらいでキャンプ場ですか」

「三、四十分くらい」

「そう、ですか」

 この大荷物を持って、坂道を三十分……。道のりは長いようだ。

 ぐずぐずと考えている俺を置いて、彼女はおもむろに歩き始める。俺もやや遅れて彼女に続く。

 右を見ても左を見ても、木。道路はかろうじて舗装されているものの、歩きやすいとは言いがたい。

 それでも、俺には黙って歩くという選択肢しかない。彼女に誘われて、それに応じたのは俺であるのだから。

「でも、変な感じ」

 しばらくして、彼女がポツリと言葉を零す。

「なにがですか」

「君に先輩、と呼ばれること」

 動揺で肩がはねる。転ぶことだけは何とか避けられた。

「……それは、まあ。一応先輩ですし」

 裏返らないように努力しながら声を発する。喉への負担が気持ち悪い。

「高校の時の話でしょう。それに君が私の後輩だったのは、一年も満たない時期」

「それはまあ、そうですけど」

 確かに俺が天文部に所属していたのは、高校一年の時だけだ。活動に参加していたのはもっと少ない。

「だからって、名前で呼ぶのはちょっと……。年上ですし」

 序に言えば、たいして親しくもない。天文部所属時すら事務的な会話以外交わさなかった。

「そう……。別に、呼び方は貴方の好きでいい。ごめんなさい」

「……いえ。ありがとうございます」

 彼女の大きな荷物に向けて軽く一礼する。俺の方を一度も振り向かない彼女には見えていないだろうけれど。

「俺も、不思議ですよ」

 仕返しのように、俺は彼女と同じ言葉を打ち返す。多分、俺は彼女を振り向かせたかったのだろう。ちっぽけな矜持だ。

 思惑通り、彼女は肩越しに少しだけ振り返ってくれた。

「後輩歴一年未満の、ほとんど他人の俺と一緒に星を見に行こうとしている、先輩が」

 今更だ。本来なら、彼女から電話で誘いを受けた時に問うべきことの筈だ。

 ただ、確認しようとすれば、彼女がその提案を取り下げてしまうような気がした。それはなんだか惜しいことだと思ったのだ。

「……」

 彼女は俺の瞳を無言で見つめていたが、ややあって耐え切れなくなったように目線を逸らす。

「理由は、ない」

 ゆっくりと、重く発せられた言葉。とっさにそれは嘘だと言おうとした。

「ただの、気まぐれ」

 吸い込んだ息が、何の意味もなく吐き出されていく。

 気まぐれ。これほど彼女に似合う言葉はない気がした。朧げで形のはっきりしない記憶の中でも、彼女は気まぐれだったように思う。

 天文部で部長をしていたことも。伸びっぱなしだが、一応手入れはされている様子の黒髪も。ところどころ日焼けした肌も。――そして、俺を誘ったことも、きっと。

 納得したわけではない。それでも、反論の言葉を失うくらいにはその言葉には力があった。

「そうですか」

 結局、無難な返答をするしかなかった。彼女も興味を失ったようで、前を向き歩調を速める。

「気まぐれ、ですか」

 彼女の言葉をぼんやりと反芻しながら、空を仰ぐ。凪いだ青空には雲一つ見受けられない。

 気まぐれという言葉は、この空にも似つかわしいかもしれない。数時間後には光の割合も色も、すっかり変わってしまうだろうから。

 そんなことを思っていた。


 キャンプ場に着いてからの彼女の行動は、実に手慣れたものだった。

 手続きを素早く済ませ、指定された場所に行くとすぐにキャンプの設営に取り掛かる。

 俺はただ彼女に付いていって、彼女に指示されたことをこなすだけだった。しかし、慣れていない俺はそれすら満足にできない。仕方ないことは言え、情けないと思ってしまうのは、もうどうしようもなかった。

 彼女があまり気にした様子ではないことが、せめてもの救いだった。

「大学はどう? 建築学科、だったかしら」

「ええ。まあ、興味はあんまりないんですが……今のところついてはいけてます。先輩は法学部でしたか」

「そう。山奥だから勉強に集中できるけれど。でも、不便」

「はあ。そんなもんですか。うちの大学はまあ、交通の便はいいですけど。でも、そんなに便利と思ったこともないですね」

「そう」

 作業をしながら、他愛もない会話を交わす。お互いがお互いのことをほとんど知らないから、話が尽きることはない。夕方になる頃には知り合いと言える程にはお互いのことを把握した。

 彼女は大学でも天文部に所属しているらしい。

「そちらの天文部の方はいいんですか? 夏には合宿とかあるでしょう」

 キャンプ設営後。腐りかけたウッドデッキで夕飯のカップラーメンを啜りながら、俺は彼女に問うた。

 確か、天文部では夏の合宿をかなり重要視していた筈だ。少なくとも、俺と彼女が所属していた天文部ではそうだった。

「ある。八月下旬」

 カロリーメイトちびちびと口に入れながら、彼女は返事をよこした。いつの間にか着替えたのか、ジャージ姿である。

「ああ、そうでしたか」

「でも、行かないかもしれない」

「なぜ?」

「バイトとの兼ね合い。他にインターンもゼミ合宿もあるから」

「……成る程。お忙しいんですね」

 胸に痛みが走る。

 俺のスケジュール帳はほとんど真っ白だ。そもそも先輩の誘いに乗ったのも、大学最初の夏休みを持て余していたからだった。

 思えば大学に入ってからはいつもそうだった。バイトもサークルもせず。かといって勉強に打ち込むわけでもなく。手に入れた中途半端な自由を持て余す。消極的な浪費をするだけ。

「……」

 音を立てて、思いっきり麺を啜る。チープな塩味とスープの熱さが舌に刺さって痛かった。

 彼女が何かを窺うように俺を盗み見ていたことには気が付いていた。けれど俺はあえて無視をして、黄昏に染まる空を見ていた。

 これくらいならば、許されるだろう。


 ささやかな晩餐の後。テントの中で、夜を待つ。

 先輩はテントの右端で音楽を聞いていた。

 一方、俺はテントの左端で、スマートフォンに落としたオフラインのロールプレイングゲームをしていた。流石にオンラインゲームは繋がらなかった。ここに来る前にログインだけしておいたのは正解だったようだ。

 密室空間に、男女が二人。安っぽいメロドラマならここで何かが起こるのだろう。だが、俺は画面上の勇者の経験値を貯めることに夢中だったし、彼女の方も好きな音楽の音を拾うことしか頭にない様子だった。

 ――ゲームの勇者が中ボスを倒し、真のラスボスが判明した頃、

「そろそろね」

 彼女は不意にそう呟いた。小さな、ともすると聞き逃してもおかしくないような声で。

 俺はハッと顔を上げる。彼女は腕時計を覗き込んでいた。

「準備、手伝って」

「はい」

 俺は再び彼女の言われた通り荷物をまとめて、最後にスマートフォンを手に取る。

「待って。スマホは置いていって」

 少し鋭く制止をかけられた。俺はびくりと肩を震わす。

「え? でも、時計代わり……」

「だめ。目、暗闇に慣らさないといけないから。スマホの明かり、点けるの厳禁」

「ああ……。そういえば夏合宿の時、そんなこと言われた気もしますね」

 もはや生活の一部と化しているスマートフォンを手放すのはやや躊躇われる。それでも、俺はスマートフォンを鞄の中にしまった。

 彼女はもう、テントの外に出ているようだった。俺も彼女を追いかけるように外に出る。

「……っ」

 外は思った以上に暗かった。木も石も草も、そして自分の四肢さえも。すべて闇の中に溶けていた。これが本来の夜の姿かと、戦慄する。

「大丈夫?」

 心配そうに問う彼女の顔もはっきりしない。なるほど、闇の中では人間も幽霊も同じに見えそうである。

「ええ。思ったより暗くてびっくりしました」

「うん。でも、大丈夫。星見るところまではペンライト点けて行くから」

 そう言うや否や、ぱっと光が弾けた。思わず目を細める。

 ――記憶がよみがえる。高校の時、俺が参加した唯一の合宿。あの時も俺は暗闇に怯えて、先輩は無言でペンライトを点していた。

「この先、道がよくないから……気をつけて」

 仄かに照らされた彼女が、母校の野暮ったい制服を纏っているように見えて、俺は軽く首を振る。

「はい」

 一つ頷いて、彼女の手元に視線を落とす。拡散していく光の道筋がやけにはっきり見えた。

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