海と従姉と探しもの。

森沢依久乃

海と従姉と探しもの。

波の音が一定のリズムで響いている。

不規則なようで規則的な音が響くたび、その水面が蠢く。胎動のようだ、とぼんやりと思いながら、僕は目の前の大海原を無心に見つめていた。

「この海には、異界に続く扉があるらしい」

 三歳上の従姉である優奈が、唐突にそんなことを言い出した。僕は視線を海から外し、後ろを振り返る。

 ほっそりとした体を包む白いワンピースの色が眩しい。顔はいつもと同じ無表情だ。

「異界? 何の話ですか?」

 僕は、首をかしげて問う。ここに来たことと言い、いい加減彼女の行動の唐突さには慣れていた。

「この地に伝わる伝承さ」

 彼女はそう言って、艶然と微笑む。大人びた顔立ちに、その笑みはとても似合っていた。

「なんでそんなもの、知ってるんですか。ここに来たのは今日が初めてでしょう?」

 そう。彼女に出かけようと言われ、当てもなく祖父母の家から適当にローカル電車に乗った。そうして辿り着いたのがここだった。

 海辺の田舎町。そう説明するしかない、何の変哲もないところ。

「大学の研究で調べたことがあるのさ。この町の、伝承をね」

「……ああ、なるほど」

 そういえば、優奈は大学で昔話や伝説を研究している、とどこかで聞いた記憶があった。

「ねえ、探してみないかい?」

「え……?」

 海風に乗るように届いた彼女の声に、僕は目を見張る。

 彼女は、試すようにただ僕を見つめていた。長い黒髪が、風の流れる方向に靡いている。頼りなく揺れるその髪を捕まえたくなり、手を伸ばそうとして寸前で思いとどまる。

「あるかもしれないよ、異界の扉が、さ」

 冗談めかすような物言いだったが、それが冗談ではないことを僕は感じていた。

 彼女は真に求めているのだ。異界の扉を。

「……いいですよ」

 だから、僕はそう答えた。

 ――そんなことをしたって、意味なんてないのに。そう嘲る声が自分の内から聞こえた。


 私はあっちを探すから、と言って優奈はあっさりと僕の前から姿を消した。

 僕は、優奈が歩いていった方と反対の方に進む。

 波打ち際を辿るように、ゆっくりと歩いていく。視線は海の方に固定されていた。

 その内に心に浮かんでくるのはあの従姉のことで、僕は苦笑する。

 何もない時にふと思い出すなど、まるで恋をしているかのようだ。勿論、あちらは女でこちらは男なのだから、恋する可能性は無ではないのだが。 

 ……夏休みに家族で父方の祖父母の家に訪れる時にだけ会う従姉、優奈。

 彼女の多くを知っているわけではない。僕が知っているのは、彼女は僕と違って一人で祖父母の家に来ることと、彼女の両親である僕の伯父と伯母の評判がよろしくないことだけだ。

 そして、彼女が、ひどく刹那的であること。

「……」

 僕の乱れた思考に関係なく、波は打ち寄せてくる。穏やかな海だ。無意味と知りながらも、その泰然自若な様子に羨望を抱いてしまう。

 どこまでも、どこまでも碧い海。ありふれている筈のその景色から何故だか目を離すことができなかった。

 そうやって、徒に歩を進めていると、ふと碧以外の色彩が目に入った。僕は、それに意識を向ける。

 誰かが僕のように海辺を歩いていた。僕と同じ方向に向かっているようだ。

 おそらく地元の人なのだろう。地に馴染んだしっかりとした足取りだった。ちょうどいいかもしれない。

「すみません」

 僕は走り寄り、その背中に声をかけた。

「おお、なんだい?」

 僕の声に振り返ったのは、日によく焼けた老人だった。

 衰えを全く感じさせない佇まいだから、現役の漁師かなにかかもしれない。くたびれたクリーム色の帽子がよく似合っていた。

 僕は、相手に警戒を抱かせないように笑顔をつくる。

「ちょっとお聞きしたいのですが……」

「うん。そんな堅くならんでもいいよ」

 老人はそう言って、顔中に皺を刻みながら笑った。どうやら悪い人ではなさそうだ。僕は少し安堵しながら、問いかけを続ける。

「ありがとうございます。えっと、聞きたいのはこの海にまつわる伝承についてなんです」

「ほう、伝承……」

 老人が僅かに目を眇める。

「ええ。なんでもこの海には異界の扉がある、という言い伝えがあるとか」

「ん……ああ、それか」

 老人は一瞬考え込んだようだったが、すぐに思い出したようで顔をあげる。

「それはなあ……この海の行方不明者が多かったからできたものなのだよ」

「行方不明者が?」

「ああ。この海は一見穏やかそうに見えるが、その実気難しい海でなあ……案外潮の流れが速い。それで帰らぬ人になってしまったもんが続出したというわけだ」

「……なるほど」

 自分の口から出た言葉は、少し冷たい響きを持っていた。思ったより自分は動揺しているらしい。

 考えてみれば、当たり前のことだ。伝承なんてものは今では大抵、ありふれた科学現象として説明できてしまうものなのだろう。

 優奈もそれを知っているはずだ。研究では、その伝承の「真実」を探るだろうことぐらい、高校生の自分でもわかる。

 ――そう。こんなこと心のどこかでは予想していた。それなのに、どうしてこんなに虚しいのか。

「そんな、もの……なんでしょうね」

 声が震える。僕は無様に俯いた。

 優奈は、どんな思いであんなことを口にしたのか。異界の扉なんてないことを知っていた筈なのに。それでも探そうと言った。

 それほどまでに異界の扉が在って欲しいのか――? 欲しいのだ。

 解っていた筈だ。優奈はいつだって刹那的だ。

 優奈は自分と自分を取り巻く環境を、心底どうでもいいと思っている。だから、逃げたいのだ。ここではない何処かに。

 その事実を理解していながら、僕はそこから目を伏せた。あえて、表面の優奈だけを見ていた。

 恵まれた僕では、何もできないのだから。優奈を真に理解することも。優奈を救うことも。

 そうして逃げていても、結局はこうして追いつかれる。自分の無力にただ打ちひしがれる。

 なんて、滑稽なことだろう。

 沈黙が落ちる。空気を震わせるのは、波音と風音だけ。

「……伝承なんてものは、往々にしてそんなものなのかもしれんがなあ」

 不意に老人が、その沈黙を破る。僕は恐る恐る顔をあげる。

 老人の黒い瞳には、僕を労わるような光と長年積み上げてきた深い知性の片鱗が宿っていた。

「だがなあ、それが伝承の真実として証明できるわけではあるまいて」

「え……」

 僕は目を見開く。老人の言葉がすぐには理解できなかった。

「そうだろう? 死体があがらんのだから、伝承の方が正しいことを伝えている可能性は皆無ではない。在ることも、無いことも我々に証明なぞできんよ」

「それは、そうですが」

「真実なんて、案外分からんもんだ。潮に流れていったというのだって伝承とおんなじ、勝手な解釈さ。見方を変えただけ、というな」

「……」

 僕は黙って老人の声に耳を傾ける。

 こんなもの、普通に考えればただの屁理屈だろう。しかし、それは僕には救いの言葉のように思えた。

「だから、まあ……」

 ここで老人は、海の方に目を向けた。遠い遠い、地平線の彼方に。

 僕もつられてそちらを見つめる。

「在るのかもしれんなあ……本当に」

 ぽつりと、老人は呟いて。

 その言葉がなんだか無性に嬉しくて、泣きたくなった。

「そう、ですね」

 掠れた声で僕は返答する。

 僕と老人はそうやって暫く、海を見つめていた。


 老人と別れて、暫くして僕は砂の上に座り込んだ。膝を抱え、体操座りで海を見る。暑さと疲労が、澱のように体に沈殿していた。

 日が大分傾き始め、海の色はちょうど碧から橙に変化しようとしているところだ。その光景は、昼と夜が曖昧になっていくような不安定さを感じさせた。

 僕は、優奈を、待っている。

 優奈に会ったら何を言おうか。そんなことを漠然と考えていた。

 何か、伝えたい。伝えなければならない。けれど、言葉にする前にそれは零れていってしまう。

 底なし沼のような思索に沈んでいると、不意に視界が暗くなった。代わりに目の辺りがじんわりと温かくなる。

「だーれだ」

 無感情な声音で囁かれたその台詞は、やはり優奈には似合わない。だが、それが面白くて、僕は忍び笑いを、洩らす。

「何、やってるんですか」

「ん? たまにはこういうのもいいだろう」

 彼女はそう言って、僕の目から手を外す。離れていく温もり。瞳に突き刺さる夕焼けの光。

「で。見つかったかい、異界の扉」

「……いいえ」

 僕は彼女を見ないようにして、答える。

「まあ、そうだろうね」

 彼女は特に頓着した様子も見せずに、僕の隣に腰を下ろした。

「所詮、伝承は伝承でしかないか」

 僕は彼女の横顔を、そっと盗み見る。そこに落胆の色はない。あるのは濁った諦観だった。

 胸に鋭く鈍い痛みが走る。何か言わなければ。強く、そう思った。

 けれど、それを言葉になど纏めることはできなくて。

 ならばもう伝えなくていいのだ、と突然に吹っ切れてしまった。分からない言葉を、無理に紡ぐことなんて意味のないことなのだ、と。

 僕は口角をつり上げ、微笑する。なんとなく綺麗に笑えている気がした。

「また、探しましょう、扉」

 彼女は大きく目を見開いた。薄い唇からは、言葉にならない息だけが洩れる。

「どうして、君は――」

 怯えるように目を泳がせ、彼女は黙ってしまう。

 なんと続けようとしていたのだろう。そんなことを思いながら、もう一度海の方に顔を向ける。

「どうして、でしょうね……」

 どうして。思えば、僕達はこの問いをずっと避けていた。

 お互いのこと。お互いに関する感情。一緒にいる理由。――一緒にいた時間だけは長いというのに。

 そして、これからも僕達はこの問いを避けていくのだろう。

「でも、在るかもしれないと、そう思いましたから」

 でも、それでもいいと思えた。逃げて、目を逸らして。そんなことを続けている内に、もうどれが真実ほんとうかなんて分からなくなってしまった。だったら、もうそれを暴くことなんてできはしないだろうから。

 分かりきったありふれた真実より、曖昧な虚像の方がましだと、本気で思ったのだ。

「だから、信じて縋ってみるのも悪くないって、思ったんです」

 僕は息を大きく吸う。潮の匂いが体に満ちていく。そして、それを長い時間をかけて吐き出し、目尻を下げて彼女の方を向く。

「駄目、ですかね?」

 彼女は息を呑んだ。だが、すぐに体の緊張を解き、愁いを帯びた瞳で僕を見た。

「いいのかい、本当に……君の時間を無闇に奪う権利なんて、私にはないのだよ?」

 頼りなく揺れるその眼を、僕はしっかりと見据える。

「ええ。いいんです。僕が、そうしたいと決めたんですよ」

「そう、か」

 彼女はそう答えて、刹那目を閉じた。

 そして、次にその目を開けた時には、いつもの無表情に戻っていた。

「では、明日もここに来ようか」

「そうですね。夏休みは短いですし」

 僕は勢いをつけて、立ち上がる。太陽はもう、半分ほど海に沈んでいた。

「さ、帰りましょう。祖父ちゃんと祖母ちゃん、待っていますよ。ああ、後、親父とお袋と妹も」

 僕は、いまだ座ったままの彼女に手を差し伸べる。彼女は呆けたようにその手を見あげていたが、やがてふっと頬を緩めた。

 そして、彼女はその手をそっと僕の手に重ねた。

「ああ。一緒に帰ろう」

 僕は彼女の手をそっと引いた。

 彼女もまた、それに応え、歩みだす。そして、僕の手を少しだけ強く握った。

 彼女の行為に驚きながらも、笑って、僕も又彼女の手を握り返した。


 曖昧な虚像で構わない。それはまぎれもない僕の本心。

 だが――

 今この手に伝わる温もりだけは偽りなんかではないということ。 

 それだけは、自信を持って言えるのだ。

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海と従姉と探しもの。 森沢依久乃 @morisawaikuno

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