第2話 タイムマシン

 その日の夜空には、目が痛いほどの星が視界いっぱいに瞬いていた。

 私は首にマフラーをぐるぐると巻き、加茂川のほとりにあるベンチに座って、凍える指先を白い吐息で温め続けていた。

 真冬の京都は底冷えがする。心まで凍りつかせるような寒さが、コートの外から、マフラーの間から、私の体を徐々に侵食していく。

 ましてやこの鴨川デルタは、川と川に挟まれているので、一層空気が凍てついている。頬を撫でる風は凶器のごとく尖って、私の肌を切り刻んでゆく。


 二月十四日。聖バレンタインデー。


 体が小刻みに震えるのは、寒さのせいか緊張か、今の私には判断がつかない。頭の芯がじんじんと痺れ、これからのことすらも上手く考えられなかった。

 スカートの右ポケットに入っている小さな包みが、時間と共に存在感を増してくる。掌に乗るくらいの大きさだったはずなのに、今や一抱えもあるほどに膨らんでいた。

 大きく息を吸い込み、縮んで硬くなっている体中に、冷たい空気を送り込む。時計の針は、もう彼が着く時刻を差し始めていた。

 『告白』が目前に迫っている。

 二年間、大切に温めてきた想いは、今にも心の檻を破って外へと飛び出しそうだ。でも、同時に逃げたしたいほどの不安にもかられている。

 呼び出しに応じて、ここへきてくれるのだろうか?

 『告白』して断られたら、どうすればいい?

 深い、深い息を指先へ吹きかけて、私は両の掌を握り締めた。散り散りになりそうな気持ちを必死に捕まえて、彼に話すべき言葉を、順を追って考える。

 昨日までは京都タワーから落としても壊れないくらいの硬い決意が、今は指先で触れただけでも崩れそうになっていた。

 どうしよう。どうしたら・・・・・・何から話せばいい?

 白い吐息が視界に一瞬だけ靄を掛ける。

 じゃりっと小石を踏む音がして、私は反射的に顔を上げた。

 背の高い細身のシルエットが暗闇に浮かぶ。少し踵を引きずるような歩き方は、見間違えようもない彼の姿だった。

 急激に体温が上昇して、鼓動が耳元で煩く鳴っている。

 凍えた指先をぐっと握り締めて、私はベンチから立ち上がった。


 彼が、一歩、また一歩と私に近づいてくる。

 近寄りたい、けれども緊張と不安に雁字搦めにされて、思うように足が出ない。

 私は、震える手をただただ握り締めて、彼の姿をじっと見つめているほかなかった。

 街頭は私の背後、松林に囲まれた位置に建っている。灯りは木々の合間から僅かにこぼれるばかりで、彼の表情までは読めない。

 暗闇に浮かぶシルエットが、部活上がりのジャージにダッフルコート姿だと判明したとき、足を止めて彼がポツリと言った。

「ここへ来るように言われて来たんだけど」

 耳に心地よい低い声と、若干視線を落とし気味で話す癖。

「部活の後で疲れているのに、呼び出しちゃってごめんね」

 俯いて口早に告げる私に、『何も考えられなかった割にはいい滑り出しだ』と、頭の中でもう一人の私が呟いた。

 心の準備は、随分前からしてきたつもりだった。でも、実際に手を伸ばせば届く距離に彼が来ると、準備なんていくらしても足りないんだということを思い知る。

 スカートのポケットを探り、震える手で小さな箱を差し出した。

「その、これを渡したいと思って・・・・・・クラスも違うし、あんまり話したこともないから、迷惑かもしれないんだけど」

 たどたどしく言葉を紡ぎながら、私は顔を上げてしっかりと彼の瞳を見つめた。

 ガラス細工と見紛うほど、繊細で透明な瞳。

 その目を見つめていると、いつも特別空気の綺麗な高原で星空を見上げているような錯覚に陥った。彼の瞳は、ここにある物を見ているのに、遥か遠く未来を見透かしている。

 彼―――江上友則えがみとものり―――とは、男子バレーボール部のマネージャーとして出会った。部内にいる誰よりも痩身で背が高く、立っているだけでも人目を引いた。

 けれども私が彼を意識し始めたのは、体格ではなく、そのポジションにあった。

 中学まで、バレーボールの選手として同じポジションに居た私は、彼の一挙一動に目を奪われた。圧倒的なバレーセンスと、平素は子供のように純粋な瞳に浮かぶ、相手を射殺す視線。

 鳥肌が立った。長くボールを触ってきたのに、私には手に入れることのできなかったものが、そこにあった。

 悔しいと思うのに目が離せなくて、結果、私は彼に―――恋に落ちた。

 『好きです』その一言を告げるために、大きく息を吸い込む。

 同時に、彼の澄んだ大きな瞳が小箱へと移った。

「ああ。あの、俺・・・・・・今日、ちょっと腹の調子が良くないんだよね」

「へ?」

 口から空気の抜けるような声が漏れる。喉まで出掛かっていた言葉は、抜け出た空気と共に冷たい風の中へと胡散霧消してゆく。

 まじまじと彼の顔を見上げて、私の思考回路は完全に停止した。

「朝から体調が悪くて」

「ええっと・・・・・・じゃあ、渡さない方かいいのかな?」

「いや、折角だしもらうよ」

 彼は私の手からそっと小箱を持ち上げた。

 その動作を目で追いながら、私は呆然と呟く。

「あの、体調悪いって知らなくて、こんな寒いところへ呼び出してごめんね。お大事に」

「ありがとう」

 彼はそう言って、いつものように軽く手を振りながら踵を返した。

 私の五感に、街の灯りとざわめきが戻ってくる。デルタの飛び石にぶつかる寒々しい水音が耳朶を打った。

「・・・・・・何も・・・・・・言えなかった」

 鴨川を渡る風が私の顔に吹き付けてくる。尖った切っ先は、体だけでなく心までも切り裂く。

 街の明かりが、加茂川に反射してキラキラと揺らめいていたのを今でも覚えている。



 あれから八年。

 四条烏丸からほど近いホテルの大広間。煌びやかな料理と美酒を片手に、私は同窓会へと出席していた。

「ちなっちゃーん。飲んでるぅ?」

 強いアルコールの香りがする吐息が耳元にかかり、急激に加えられた重みで、がくんと右肩が下がる。

 私は顔を顰めて元凶を見下ろした。

「痛っ、いたたた。飲んでる飲んでる、飲んでるから腕にぶら下がらないでよ。沙彩」

「だって千夏に会うの、本当に久しぶりなんだもの」

 酔った沙彩は目の下を赤く染めて、私を睨み付けてくる。

「あんたがなかなかこっちへ戻ってこないから、沙彩ったら随分寂しがっていたのよ」

「翠」

 左手からワインレッドのドレスを纏った翠が、グラスを片手に近寄ってきた。二人は高校三年間すっと同じクラスだった、私の悪友だ。

「千夏が横浜の大学へ行って、そのまま就職しちゃうから。もう少しまめに京都へ戻ってくれば、沙彩だって絡んだりしないわよ」

 そう言って、翠は沙彩の肩をそっと支える。

「で、滅多に帰ってこない千夏が、今日の同窓会に出席してるのは、もしかしなくても学年同窓会だからかしら?」

「そんなわけないでしょ。仕事に一区切り付いたところだったのと、お世話になった先生が今年で定年退職だからよ」

 私は苦笑を浮かべて、手にしたグラスを傾けた。

 クラス単位ではなく、学年単位での同窓会が行われるという案内が届いたのは、一ヶ月前のことだった。

 我がクラスに始まり、今年で定年退職を迎える先生が、私たちの学年に三人もいたことから、いっそのこと学年で同窓会をしようという話が持ち上がったらしい。

 大学からそのまま関東で就職した私は、忙しさを理由に帰省の回数が目に見えて減っていっている最中だった。

 にぎやかで豪奢なホテルの一室に、懐かしい顔ぶれが揃っている。

 二十代も半ばを迎え、女性の中には苗字の変わった者も多い。私はまだそんな予定もないけれど、そういう人たちを見ると少し羨ましいとも思う。

「ちなっちゃん。この後の二次会にも行くよね?」

 幾つになっても変わらない、沙彩の無邪気な瞳が私を映し出す。

「残念。今日は母親も同窓会だっていうから、少し早めに帰るつもりなの。二、三日こっちにいるつもりだから、また明日にでも会おう」

「えー、そんなぁ。ちなっちゃん、横浜に行ってから付き合い悪くなったんじゃない?」

「ごめんって。明日からの予定は何もないから、そこで埋め合わせさせて」

 手を合わせて拝む私に、翠が小さく溜め息をついた。

「ほら、沙彩。千夏もこう言ってるんだし、今日は開放してあげなよ」

 


 ホテルを出て市営地下鉄烏丸線に乗り、暗いトンネルの中を北大路方面へと揺られて進む。

 車窓を通り過ぎて行く明かりを見送りながら、私は会場で常に視界の端に映っていた人のことを考えていた。

 江上友則。

 高校一年生の時に出会って、告白しそびれた男の子。

 卒業してから八年も経っているのだから、きっと見分けが付かなくなっているだろうと思って会場に入った。

 でも、誰に教えられた訳でもなく、遠くから一目見ただけで彼だと解ってしまった。

 背が高く華奢な体躯。

 少し踵を引きずるような歩き方。

 長めだった髪は短く切りそろえられ、顔つきは当時より精悍になってはいたが、間違いなく彼だった。

 京都に帰るまでの間、当時の気持ちを思い出して苦しくなるかとも思ったが、彼を見た瞬間、その考えは杞憂に終わった。

 彼を好きな私は、もうここには居ない。

 居るのは彼を好きだった私だ。

 地下の暗闇を走り抜ける車窓に自分の姿が映り込む。下手なお洒落しか出来なかった私は、八年の間に姿だけは一人前の社会人になっていた。

 唇に紅を引き、目元に色を添えて眉を整える。モスグリーンのシンプルなワンピースに袖を通し、ストールを肩にかけてヒールの高い靴を履く。

 地下トンネルの壁面に設置された照明が、一瞬、そんな私の姿を掻き消す。

 少女だったあの頃の私は、伝えられなかった気持ちを持て余しながら、その後の一年間を過ごした。

 学校に居る間は、廊下の隅で、校庭の端で、いつも彼の姿を探していた。声をかけるつもりで探していたわけじゃない。私の中にある消化されない感情が、いつまでも彼を追いかけていたのだ。

 卒業までの間に、想いを伝える機会は幾度か訪れたが、結局、もう一度勇気を奮い起こすことは出来ないままだった。

 大学に入り、人並みに恋もしたけれど、うやむやに終わった想いは心の奥でくすぶり、いつの間にか石のように硬くなってしまった。

 地下鉄今出川駅に車両が滑り込む。

 開いたドアから、私は過去を引きずりながらホームへと降りた。

 薄暗い照明に照らされて、壁面のタイルが一層古く汚れて見える。地上までの階段を上がって今出川通りに出ると、出町柳に向かってゆっくりと歩き出した。

 通りの右手には京都御苑のうっそうとした森林が続き、左手には大学の塀が飽きるほど長く伸びている。今出川御門の近くまで来ると、塀と木々場所が入れ替わったように逆になる。

 この辺りは商店も少なく、夜になれば四条界隈に比べて、ぐっと人気が少なくなる。けれども、今出川通りを照らす街灯と、走り去る車のお陰で道は思ったよりも明るい。

 私は酔い覚ましも兼ねて、ぶらぶらと鴨川方面へと歩き始めた。

 烏丸通りから鴨川までは、歩けないほどではなくとも少し距離がある。普段ならバスを使うところだけれど、酔ってほてった体に夜風が心地よかった。

 京都は条例により高層の建造物がない。

 横浜よりも格段に広い夜空を見上げながら、アルコールで熱せられた息をほうっと吐いた。

 初秋の京都には、そこかしこに金木犀の香りが漂っている。月の光を吸い込んで、小さな橙色の花が、強く甘い芳香を放つ。

 今出川の交差点を抜け、鴨川沿いにあるカフェの前を過ぎると、急に視界が開けた。

山や川、糺の森から来る清廉な気のお陰で、空気の濃度が一層濃くなる。黒々とした山の稜線が、星空を千切ったようにぐるりと私を取り囲み、川面を渡った風が髪を弄んでいった。

 加茂大橋の欄干に指を這わせながら、私はことさらゆっくりと足を進めた。

 眼下には、鴨川を渡る飛び石が橋と平行に連なって並んでいる。街頭の明かりを反射して、鴨川の水面が静かに揺れていた。

 サラサラと流れる水音を聞きながら、私の心は八年前の自分をデルタの片隅に見た気がした。

 今思えば、憧憬にも似た想いだった。私は恋に恋する少女で、本気で彼と付き合いたいと考えてはいなかったのかもしれない。

 けれど、伝え切れなかった言葉は空間も時間も飛び越えて、今もまだ、あのベンチに留まっている気がするのだ。

 私は足を止め、川を見下ろす。

 あの日に返ったとしても、十七歳の私は、きっと何も言えずに立ち尽くすのだろう。

 ぼうっと見下ろす視界の端に、黒々とした木々の間から、デルタに向かって影が一つ現れた。

 大学の多い街だけに、夜更けでもデルタへ繰り出してくる学生は多い。夏場には一晩中人影が絶えない事も珍しくはなかった。

 その影も、そういった人の一部だろうと思って眺めていたが、一向に人数が増える気配を見せない。

 影は少しばかり下流へ下ってくると、立ち止まり、オレンジに揺らめく明かりを一瞬だけ灯した。

 その後には、赤い小さな光が消えることなく灯り続けている。

 煙草の灯りだと思った。

 赤い光は上下に揺れながら、徐々にデルタの頂点へと移動してくる。加茂大橋にいる私のところからも、その光が煙草であるということが、次第にはっきりとしてきた。

 夢のように揺れる光を、不覚にも綺麗だと思って見つめていた。

 マナーとしては絶対に良くない。でも、アルコールの力で歪められた私の視界は、それすらも幻想的で美しいと思わせた。

 交差点の信号が青に変わり、次々に流れる車のライトに照らされ、影が明滅して人の姿を映し出す。

 人影の全貌を認め、私は大きく息を飲んだ。

 ―――江上君。

 八年のブランクがあっても、毎日その姿を探した人だ。見間違えるはずがない。

 無意識の内に、欄干を掴む手に力が入る。同窓会の会場では、目の端に追うことしかできなかった姿がそこにあった。

 瞬間、圧倒的な熱量が胸の内に生まれた。

 その熱に突き動かされ、足が勝手に後退を始める。

 何故―――彼がここに?

 驚きと疑問でいっぱいになった心を置いて、体は道を引き返して、疾走し始めていた。

 夜の闇に吸い込まれるヒールの高らかな音を聞きながら、彼の影を探して振り返る。

 反動でストールが肩から舞い落ち、通り過ぎる通行人に当たった。慌てて「すみません」と謝りながらも、足は止まろうとしない。

 橋の袂まで戻ると甘い香りが私を包んだ。鴨川へと降りる階段に、小ぶりな金木犀の植木が並んでいる。枝いっぱいに咲く花が、カフェの明かりを受けて色味を増していた。

 金木犀の笑顔に見送られつつ、息を切らして階段を下りると、デルタの頂点に赤い小さな火が、誘蛾灯のように揺れているのが見えた。

 誘われるままに河川敷を駆け抜けて、私はあることに気が付く。

 デルタを挟んで、鴨川を横断することのできるこの場所は、京都でも有名な観光スポットだ。大学生だけでなく、地元の人間、特に子供たちには人気がある。

 配置されている石自体は小さくない、が、ヒールで飛び移れるほど易しい間隔ではなかった。幼い頃に、友人が足を滑らせて川に落ちたことを、まざまざと思い出す。

 川面へと降りる階段に足をかけたまま、私はヒールを履いてきた自分を呪った。灯りの乏しい中で、最後までバランスを保ったまま渡りきる自信は無い。

 一瞬の躊躇の後、私は思い切ってヒールを脱ぐと、階段を一足飛びに越えて、飛び石の上に降り立った。

 ここを渡るのが最短の道だ。背に腹は変えられない。

 思ったとおり、街の明かりだけが頼りの足元は、暗くて覚束なかった。それでも、慎重に一つずつ石を踏んで行く。

 きっと、今までのどんな時よりも、今が一番格好悪いだろう。

 時間を掛けてセットした髪を振り乱し、ドレスもストールも皺くちゃ。暗くて確認はできないけれど、裸足の足元は、ストッキングがみっともないくらい破れているに違いない。

 私を突き動かす、この熱と感情が何なのかは解らない。けれども、どうしても向こう岸へ辿り着きたかった。

 全ての始まりである、あの場所へ―――。


 最後の石を蹴って、私はデルタへ着地した。両の膝に手をついて息を整える。

 ざりっと小石を踏む音がして、私は顔を上げた。

 背の高い影が、こちらを伺っているのが解る。明かに自分を目がけて走り寄って来た人物を、不審に思っているのだろう。

 大きく息をついて靴を履きなおすと、私は足元を確かめるように、一歩ずつ、ゆっくりと彼に近づいていった。

 川の水音や光る水面は、八年前と何も変わらない。デルタに敷き詰められた石畳。その隙間から伸びる雑草が、柔らかく甘い風に踊っている。

 会場で見た時と同じ濃い紺のスーツを纏い、ネクタイを緩めて、江上君はじっと私の挙動を監視していた。

 ヒールを履いても、見上げるほどに背が高い。

 驚きで目を見開いている表情が、薄っすらと見える距離で私は足を止めた。

「江上君。あの、覚えているか解らないけど・・・・・・私、神河千夏かみかわちなつです」

「ああ・・・・・・」

 得心のいった顔で頷く江上君に、私は内心驚いていた。

 私が部活のマネージャーをしていたのは、高校三年の春までだ。それまでも多く言葉を交わす間柄ではなかったが、バレンタインの出来事があってからは、余計に口数が減ったように思う。

 結局、三年間、一度も同じクラスにはならなかった。どちらかといえば地味で目立たない、『その他女子』の一人である私を、彼が覚えているとは到底思えなかった。

 私は、次に発する言葉を捜しながら、江上君の隣に並ぶ。

 ここへ来ることに精一杯で、話す内容を全く考えていなかった。覚えていてくれたことに喜びはあるものの、どこから、何から話せばいいのか検討もつかない。

 暗い闇の中に、加茂大橋の欄干が重厚感を伴って浮かんでいる。石作りの欄干の上には、ちらちらと燃える星が降り注いでいた。

 何もかも夢みたい。

 風化するのを待つだけだった『高校生の私』が、『今の私』と重なっている。

 微かな香りと共に、江上君のくゆらせる煙草の煙が、薄いヴェールとなって川下を覆う。

 視線を動かすと、彼の横顔がはっきりと見えた。無造作に煙草を携帯灰皿へと押し付ける姿など、あの頃は想像もしていなかった。

「江上君は、二次会へ行かなかったの?」

 彼はゆっくりと橋を見上げて、肩を竦めた。

「俺のクラスは、神河のクラスみたいに、全員が仲良しって訳じゃないからな。気の合う者だけが集まって二次会を開いている。俺は―――」

 彼は言葉を続けながら、百万遍の方角を指差す。

「友達がその辺で一人暮らしを始めたから、そこへ行くことにしている。ここには酔い覚ましに来ただけだ」

 頷いて振り返る私を、彼の視線が絡め取る。

 幼く丸みを帯びていた顎はシャープになり、顔つきも厳しくなっていた。でも、澄んだ繊細な瞳は変わらない。

 透明な視線に晒されて、私の心がきゅっと音を立てて縮んだ。

 私の好きな―――好きだった瞳がここにある。

 あの頃、抱えていた気持ちが一気に甦るのを止められない。

 同時に、私が持て余している感情が―――『感傷』ではなく『後悔』だと知る。

「神河は、二次会に行かなかったんだな」

「うん。今日は、母が家に居なくてね。うちの父は、一人でお風呂にお湯も張れない人だから、残念だけれど二次会は断ったの」

 感情の全てを隠して、自然に微笑むことが出来る自分を、私は賞賛する。

 江上君は「ふうん」と相槌を打って、視線を伏せた。

 長い沈黙が訪れ、水音と橋上を行き交う車の騒音だけが止むことなく続く。

 八年前の二月十四日。

 私は、その日の事を蒸し返すべきか迷っていた。

 今を逃せば、言えなかった気持ちを伝える機会は、もう訪れない。けれど、それを今更伝えて何になるというのか。

 あの日、私が告白するよりも先に、彼が体調不良を訴えたのは、続く言葉を牽制するためだったのかもしれない。

 だとしたら、やはり過去が風化するのを待つしかないのだろうか。

『あの・・・・・・』

 話しかけようとする言葉が、江上君と重なる。

 慌てて手を振って、話す意思がないことを告げると、彼は視線を落としたまま口を開いた。

「俺・・・・・・神河に謝らないと、と思って・・・・・・」

 唐突な台詞に、私は首を傾げる。江上君は気まずそうに続けた。

「ここで、バレンタインに・・・・・・その、チョコレートを貰ったことがあって・・・・・・」

「ああ、うん。そうだね」

「俺、誰かにチョコを貰うなんて初めてだったから、軽くパニックに陥ってて、思わず『腹が痛い』なんて言ってしまったんだ。事実だとしても、神河に酷いことを言ったんじゃないかって、ずっと気になっていたんだ―――あの時は、悪かった」

 呆然とする私の前で、江上君が頭を下げる。

 予想外の謝罪に、私は瞬きをするのさえ忘れて、彼の姿をただ見つめていた。

 頬を少し冷たい風が撫でてゆく。

 甘い香りが体中に浸透し、心の奥底で固まっていた小石が、砂粒へと変わっていくのを感じた。

 同じ景色が、一瞬にして色を取り戻していく。

「気にしてないよ」

 思うよりも、ずっと明るい声が口をついて出た。これまでを思うと、それは嘘に違いなかったが、もういいと思える。

「でも、後悔しているから、一言だけ言わせて。

 私、江上君が好きだった―――。

 コートの中だけで見せる、意志の強い目が、すごく好きだったの」

 目を丸くして、彼が顔を上げる。

 私は、晴れ晴れとした思いで、それを見つめていた。

 乱れた髪に、破れたストッキング。あの日の続きは、格好良くはいかなかったけれど、これで、もう後悔は無い。

「ありがとう」

 呟く江上君の低い声は、八年経っても心地の良いままだ。

 首を横に振りながら、私は笑った。

 今日の、この奇跡を神様に感謝する。

 どんなに頑張っても時間は遡行しない。

 八年前に戻れるわけではないから、答えなど要らなかった。

「私の方こそ、ありがとう。まさか、江上君があの日の事を覚えているなんて、思ってもみなかった。お陰で、すごくすっきりしたよ」

 明るい私の表情を見て、江上君も徐々に相好を崩していく。

 なんだか可笑しくなって、私たちは声を上げて笑い合った。

 お互いにチャンスなんかいくらでもあったはず。それを全て素通りして、結果的に秋空の下で二人ともデルタに立っている。

 素通りした理由だってあったはずなのに、終わってみれば酷く滑稽だ。

 夜の鴨川を一頻り賑わせて、私たちは息をついた。

 江上君が声を上げて笑うのを、私は始めて見たかもしれない。それ以前に、二人きりでこんなに長時間、同じ場所に居ること自体が初めてだ。

 彼は首からネクタイを抜き取ると、それを丁寧に折りたたんでポケットへ入れた。美しいボール捌きをしていた指先は、今も健在らしい。

 その様子を見て微笑む私を、彼は笑顔で振り返った。

「神河は、確か大学が横浜だったよな。今もそっちに居るのか?」

「うん。卒業して、そのまま就職してるよ。江上君は―――九州だったよね。仕事も九州なの?」

「いいや」と答えると、彼は視線を外して川面を見つめた。

「俺、この秋に東京の本社へ移動になったんだ。行ったばかりで、右も左もわからなくて困っている」

 上がったままの口角からは、困っている様子など微塵も伺えない。

 くすりと笑う私を、彼は横目で睨んだ。

「なんだよ」

「だって、ちっとも困ってなさそうなんだもの」

「嘘じゃない。本当に困っているんだって。友人も居ないから、休日に出かけるところもないんだよ」

 ふと言葉を止めて、江上君は照れくさそうに頬をかいた。

「それで、もし神河さえよければ―――色々と案内してくれると、ありがたいんだけど」

 驚く私の目に、街の灯りを宿した透明な瞳が映る。

 夜空に浮かぶ星々に負けない輝き。そこには未来という名の小宇宙が煌いている。

 金木犀の甘い香りを胸いっぱいに吸い込んで、私はゆっくりと唇を開いた。

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呼吸投げには、まだ早い 都路垣 若菜 @egaku-kokonobi

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