呼吸投げには、まだ早い
都路垣 若菜
第1話 ラブレター
俺はカップからコーヒーを一口啜ると、それを机に置いて、椅子の背もたれにだらしなく体重を預けた。
照明を落とした部屋には、デスクトップから放たれるほの白い明かりだけが、唯一の光源となって、天井に影を落としている。
俺は今、「彼女」に最後のラブレターを書いていた。
書いては消し、進んでは戻りを繰り返して、もう何日たったのかも解らない。けれども、それは着実に終わりへと向かっている。
俺は傍らに置いた煙草を一本抜き出すと、火をつけて立ち上がった。カーテンを開いて窓を開ける。冷たい夜風が暗闇へと紫煙を押し流した。
眠らない夜の街は、ひと時の夢と快楽を内包して星を隠すほどに眩しく瞬いている。その刹那の輝きを覆い隠すように、俺は煙を吐き出した。
今でも鮮明に覚えている。
「彼女」と出会ったのは、春の日差しが心地よい昼下がり、カフェで一休みしているときだった。暗く淀んだ俺の中へ、突然、淡い色彩と共に舞い降りてきた。
「彼女」は、些細なことで泣き、笑い、そして怒りを露にする。俺は、それを遠くからじっと眺めているのが常だった。何度近づこうと思ったか知れない。けれども、その度に俺の中に住むもう一人のオレが強固に引き止めるのだった。
実際に「彼女」と付き合うようになったのは、一年以上経った夏の暑い日だ。手の届く存在になった「彼女」は、外見よりも幼く、それでいて古風な考え方の持ち主で、俺は直ぐに夢中になった。
性別も育ってきた環境も違うから、俺たちはよくすれ違ったりもした。お互いに多くを求めすぎて、何日も距離を置いたことさえある。
順調な様でいて、結構面倒くさい日々だった。でも、一日一日と時間が積み重なるに連れて、「彼女」の存在が愛しく、大切になっていったのも事実だ。
俺は、なるべく長く「彼女」と一緒に居たかったし、「彼女」もたぶんそうだったと思う。そのために時間を削り、心を砕いてきた。全てに嫌気がさしたときでも、不思議と「彼女」との縁を切ろうとは考えなかった。
今なら確信を持ってはっきり言える。
「彼女」は俺の全てだった。
「彼女」の放つ言葉、仕草、涙の一粒が俺を作り、育てた。
しかし―――それも今日で終わってしまう。
俺の綴る「彼女」の物語は、最終話を迎える。
俺は長く愛してきた「彼女」にハッピーエンドを送ることが出来るだろうか。そして「彼女」は、最後に笑顔で俺に手を振ってくれるだろうか。
短くなった煙草を灰皿に押し付けて、椅子へ深く腰掛ける。冷めきったコーヒーを含んでデスクトップへと向き直った。
キーボードの上を指が滑るように踊り、薄暗い部屋にキーを叩く音だけが響く。
カーテンがゆっくりと持ち上がり、机の上に置いたノートがぱらりと捲れた。
そこには、これまで「彼女」と歩んできた道程がすべて記してある。
一抹の寂しさに俺の胸がきりりと痛んだ。
でも、この世界のどこかに、「彼女」の笑顔を待ってくれている人たちがいる。
俺と同じように、「彼女」を愛してくれている人がいる。
だから俺は書くよ。
君への最後のラブレターを。
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