ケルベロス

南枯添一

第1話

 頭の中がじぃーんと痺れてくるような暑さであった。気温だけでなく、湿度も大変な高さで、立っているだけで体中に汗が噴き出てくる。わたしは手の甲を使って、額の汗を拭うと久米くめに声を掛けた。

「それで、君の最新の収集品は、いつ見せてくれるんだい?」

「うむ」

 久米は言葉少なにうなずくと、温室の中央の通路を濃緑の葉群を両手でかき分けるようにしながら進んだ。通路の両脇に並ぶ標本たちはどれも貴重な珍種のはずだが、採取地のジャングルと同様に密生させられていた。わたしも彼の後に続いて、ここが信州の地であることを忘れてしまうような、その狭い通路に踏み込んだ。

 通路は長いものではなく、直ぐに、ちょっとした広場のようなスペースに出た。広場は丸く、石で葺かれており、周囲を取り囲むように低木の類いが植えられていた。そして、通路の正面に当たる、おそらくは一番良い位置に、他の標本を遠ざけるようにして作られたスペースがあり、そこに一本だけで植えられている植物があった。久米はそれを指さした。

「あれがケルベロスだ」

「ほお」

 それは高さが1.5メートルを少し越えるほどの多角形の筒であった。色はくすんだ青緑色だが、かなり青みが強い。明らかに多肉植物の一種だが、サボテンのような棘は生えていない。ちょうどわたしの胸くらいの位置に、少し段差を付けながら、周囲を一周するように、3個のこぶが並んでいる。こぶは形と言い、大きさと言い、人の拳を思わせた。

 久米は真っ直ぐに進んで、ちょうど二つのこぶの中間に到着すると、その一つを指差して、

「これはつぼみなんだ。開花すると上下にパックリと割れる。外側からは想像も付かないが、内側の色は真っ赤でね。それはもう毒々しいまでの赤い色をしているんだ」

「なるほど。それでケルベロスなんだね」

「うむ」と久米はうなずき、それからせせら笑うように、「学会に報告するなら、ラテン語で何か、それらしい名前を考えてやらねばならないがね」と付け加えた。

 わたしは言葉に詰まった。最近、派手な醜聞スキャンダルを引き起こした久米が、先手を打って、学会を退会してしまったことは、むろんわたしも知っていたからだ。

「しかし、ケルベロスは君が専門の熱帯雨林の産物じゃあるまい」話題を替えようとしてわたしは言った。「こんな温室に閉じ込めて大丈夫なのかね?湿度には弱いんじゃないか」

「高湿は大丈夫なはずだし、ケルベロスが何より必要とする高温を与えるにはここしかないのでね。だが、君の言う通りだ。これはアマゾンで採取したものではない。砂漠で採取したものだ」

「と言うと、ユカタン半島かね?」

「いや。それについては君にも正確なことは言うまい。ただ、これだけは教えよう。これは滅び行くインディオの、ある一部族の最後の生き残りと言ってよいシャーマンから、僕が受け継いだものなのだ」

「では、この植物はその種族にとって宗教的に重要な意味を持つものなのだね」

「その通りだ」

「よくそんなものを譲ってくれたね」

「そうするしかなかったのだ。彼は老齢で余命幾ばくも無く、ケルベロスを託せる者は僕を置いていなかったのだ。それでも、最初は渋ったよ。けれども、それはよそ者を敵視する頑なさからではない。親切心からなのだ」

「親切心?」

「ケルベロスの花が咲くとき、人が死ぬというのさ」

「なるほど。そんな迷信があるのなら、容易く人に譲れないと言うのも分かるなあ」

「それが単に迷信と片付けるわけにもいかないのさ」と久米は不可解な笑みを浮かべていった。

「それはどういう意味だね?」

「老人が死んだからだよ。ケルベロスの花が咲いた日に」

 わたしは息を呑んだが、同時にこの奇妙な植物に対する好奇心がむらむらと湧いてきた。わたしはほぼ久米と同じルートを取って、ケルベロスに近づき、久米はまるで狭い場所ですれ違うような仕草で、わたしと場所を換わった。

「君は勇敢だな」植物のザラザラとした表面を調べながら僕は言った。「つぼみを3個も残してある。これはつぼみをもいだ痕だろう。そんな出来事があったのなら、僕なら1個しか残さないかも知れない」

「分からないのかね?僕と彩音あやね、それに君の分さ」

 不意に彼の妻の名が出たことにわたしは驚いて振り向いた。

 わたしたち3人はかって同じ大学に学んだ仲だった。その当時、わたしたちはちょっとした三角関係にあり、恋の勝者は無論、久米であった。けれど、その後、わたしと久米の仲が疎遠となったのは、そのことが理由ではなかった。わたしはこの数年ぶりになる久米からの誘いが、わたしたちの友情を取り戻すよすがになればと願っていたのだ。

「うん?」不意に、久米は遠くを窺うように背筋を伸ばした。

「どうした?」

「あれを」

 彼は標本たちが形作る疑似ジャングルの一隅を指差した。木立が造る三角形の隙間は、濃い闇が滴るようである。わたしは立ち上がると、彼が指差す方向に向かって数歩進んだ。「あれだよ」

「なんだね」わたしは立ち止まって、ちょうど正面に来てしまっていたケルベロスのつぼみの一つと、久米の顔を交互に見て尋ねた。

「あれだよ。見えないか?」

「いや。何も見えない」

 わたしは久米が指差す巨大な葉と幹が作る暗がりに目をこらし、首を振って答えた。明らかに失望したらしい、久米は小さく「そうか」と漏らすと、歩き出した。

「来たまえ。彩音も君の到着を首を長くして待っている」


 到着早々、久米に温室へ引っ張り込まれていたわたしは、あてがわれた部屋で旅装を解き、ようやく人心地が付いてくるのを覚えた。部屋は広い洋室で、地味だが質の高い調度品が配されており、東側の大きな窓からは信州の美しい山並みが窺えた。汗を拭って衣類も替えたわたしが、その窓によって澄んだ空と空気を味わっていると、ドアに控えめなノックがした。「どうぞ」の声に応じて部屋に入ってきたのは、やはりと言うべきか、今は久米の妻である彩音さんだった。

「お久しぶりです。宝乃たからのさん」

「彩音さん。こちらこそお久しぶりです…」

 けれど、わたしはその挨拶を「お元気そうで」と続けることができなかった。彩音さんがあまりにやつれていたからだった。ともに学んだ学生時代、彩音さんはその凜々しい眉やすっきりと通った鼻筋、意志的な目もとのために、男勝りで勝ち気な性格と見なされがちだったし、事実その通りでもあった。当時のよく笑う、容易なことではへこたれない彼女を知るが故に、わたしは口ごもってしまったのである。

 彩音さんは和服姿で、それは学者バカのわたしにも良いものあることぐらいは分かる品であったが、学生時代の洋装の彼女しか知らぬわたしには彼女を縛る戒めのようにも思えた。

 わたしの気詰まりを察してか、彩音さんは運んできた紅茶のセットを窓際のテーブルに並べることに専心し、それが済んでようやく、「どうぞ」とだけ言った。ずっと当たり障りのない話題を考えていたわたしは、「何年ぶりですかね?」と尋ねた。

「こんな風に二人きりで話をするのは卒業以来ですから、12年になりますわ」

「そんなになりますか。ははは」

 わたしの笑い声は少し空虚だったかも知れない。

 先も少し触れたように、12年前、わたしと久米は彼女を争うライバルで、最終的に彩音さんの心を射止めたのは久米の方だった。それは同時に、彼女が父親から受け継いだ莫大な遺産をも手にすることを意味した。故に、久米はこのような豪邸に自前の温室と研究室を構え、海外まで自費で採取旅行を繰り返している。

 翻ってわたしと言えば教職の傍ら細々と研究を続け、未だ独身の身だ。久米をうらやむ気がなかったなどと言えるほど、わたしは聖人君子ではない。けれど、彩音さんも研究も、どちらも棄てがたかく、どこか中途半端だったわたしと違い、久米は彩音さんのためなら、全てを犠牲にする覚悟だった。「二兎を追う者は一兎をも得ず」を地で行ったわたしに何を言うことがあるだろうか。しかし。

「長かった」

「何がです?」

「この12年がです」

 彩音はそう言うとわたしのことを見つめた。わたしは言葉を失って、視線を逸らした。

「何を言うのです」

「久米は変わってしまいました。特にこの数年はまるで別人です。あなたが知っている久米はもういないのです」

 わたしは視線を逸らしたまま、考え込んだ。

 問題は、久米の学問には粗野で、どこか力づくのところがあったことだ。結婚後はその力づくを、彩音さんの財産が支えるようになった。そのことを快く思わないものが出ることは当然で、様々な当てこすりや批判が久米に向けられるようになった。無論、その多くは単なるねたみそねみのいきを出ず、笑殺しておけばよいのだが、狷介けんかいな性格の久米はそれができず、次々と争い、結果的に多くの敵を造った。

 学者とて人間である。感情的ないさかいがあれば、その人の業績に好意的にはなれない。故に、彼の学問は学会で正当な評価を得ることが難しくなり、不当に軽んじられることが多くなった。時には嘲弄ちょうろうの対象にさえなり、久米は益々狷介となり、もめ事を起こし、敵を増やした。

 久米が批判されるとき、むやみと引き合いに出されたのが実はこのわたしである。同じ師に学び、学生時代はライバルと目され、今は資力に於いて圧倒的な差を付けられながら、その業績に於いては引けを取っていない、むしろ、上回っている、と。

 わたしにとってもこのような持ち上げられ方は迷惑でしかなかったが、久米はそうは取らなかったようだ。無論、久米の複雑な思いが、わたしに理解できないわけではなかったのだが。やがて、わたしたちの付き合いは疎くなり、いつしか全く途絶えてしまった。ここ数年はわたしの方から賀状などを出しても、返事すら返ってこなくなっていたのだ。

「しかし、彼も考えを変えたのでしょう」わたしは無理に明るい声を作って言った。「今回も、久しぶりに僕を自宅にまで招待してくれた」

「それがわたしには恐いのです。久米は一体何を考えているのか、わたしには分からないし、恐いのです」

「ははは。考えすぎですよ、彩音さん」

 わたしには自身も不安を抱えながら、彩音さんを励ますことしかできなかった。そうこうするうちに日は暮れて、夕食の時間になった。

 夕食のテーブルに付いたのは3人だけだった。食事そのものは豪華だったが、食卓での会話は弾まなかった。久米は上機嫌で良く喋ったが、その言葉にはよくは分からない、微妙な棘が仕込まれているようだった。

「いつまでいてくれるのだね?」

「一週間ほどを考えているよ。あまり長く居着いて迷惑になっても良くない」

「何を言っているんだ。こんな広い家に一人くらい住人が増えたくらいで何が変わると言うんだ。君の方の休みが続く限りいてくれて構わないよ。いや、いて欲しい。第一、この家は君のものになっていたのかも知れないのだから」

 こんな調子で久米との会話は芯が疲れた。それでも、わたしが彼の家に居続けたのは、やはり彩音さんが心配だったからだ。わたしはあまりに気が塞ぐときは信州の山野に遊んだが、それ以外のほとんどの時間を、彩音さんとともに過ごした。

「久米が起こした事件を知っていますね」ある日、彩音さんが話し始めた。

「もちろんです。あのとき、わたしは都合があって参加していなかったので、現場は見ていないのですが」

 久米は学会が行われている、その会場で暴力沙汰を起こしてしまったのである。どこだかの大学助手を殴りつけ、止めに入った数人にも暴力を振るったのだ。助手の側にも非があったとは言うが、公式の場での暴力は論外で、除名が必須となった久米が先手を打って退会してしまったのは既に述べた通りだ。

「久米がなんと言われて、当てこすられたかはご存じですか?」

「いいえ。そこまでは」

「亭主がアマゾンくんだりでウロチョロしている間、女房は日本で何をしているのやら、だそうです」

「それはひどい」

「それだけではありません。おまえがジャングルにいた頃、信州で何があったか、調べてみろと言われたのです」

「信州で何があったと言うのです?」

「発表会ですわ。講師の一人があなたで、一月の間滞在しておられた」

「……」

 わたしは絶句し、独り「どうも、これは弱ったな」とつぶやくことしかできなかった。


 そうして、ついにあの悲劇の夜が来てしまったのである。

 わたしが当家に来て以来、既に十日ほどが過ぎていたのだが、その夜の気まずい夕食が済んだ後で、不意に久米が言い出したのだった。

「これからケルベロスの花を見に行かないかね」

 わたしは驚いて、「ケルベロスの花が今夜咲くというのかい」

「うむ。元から夜咲く花なのでね。いろいろ調べてみたが、つぼみは充分膨らんでいるようだ」

「だが……」

「ハハハ。インディオのバカげた迷信を気にしているのだね。あのときは話さなかったが、あれには合理的な説明が付くのだよ」

「そうなのか」

「さあ。来たまえ。僕は、僕が魔犬のあぎとを連想した、血のように赤い花を君たちにも見てもらいたいのだ。愛妻と親友にね」

 こうまで言われては仕方がなかった。わたしと彩音は心の隅に不安を抱えながらも、久米の後について温室に向かった。けれど、初日以来、久しぶりに温室に入ったわたしは絶句してしまった。

「これはどうしたことだ」

 あの日はまるでジャングルを思わせるほど鬱蒼うっそうと茂っていた標本の多くが枯れて、しなびていたのだ。高木低木は葉を落とし、花を枯らし、ツタや羊歯は干からびて茶色く変色していた。

 理由は直ぐに解った。湿度だった。高温は変わらなかったが、温室内の空気は砂漠を思わせるほど、カラカラに乾いていた。そのために乾燥に弱い、熱帯雨林の植物の多くが枯れてしまったのだ。

「ハハハ。仕方がないのだよ。あの日、君が指摘したじゃないか。やはりケルベロスは砂漠の植物でね。ケルベロスを開花まで持っていこうとするなら、乾燥した空気が必要なのだ」

「しかし、貴重な標本の多くが枯れてしまっているじゃないか」

「だから、仕方がないのさ。ケルベロスの開花を見るために、彼らには犠牲になってもらった」

 わたしは歯ぎしりをしたくなるような不安を覚えた。久米がここにある標本一本一本を入手するためにどれほどの労力をつぎ込んだか、わたしにはよく分かっていた。故に、それは信じがたい行為だったのだ。彼はなぜ、そこまでして、ケルベロスの開花にこだわるのか?わたしには解らなかった。

 そうこうするうち、わたしたちはあの広場にたどり着いた。周囲を取り囲む低木群は全て葉を落として、しなび、中には傾いで、今にも倒れそうになっているものすらあった。

「さあ、見てくれ」

 久米は最初の時と同じルートを取って、ケルベロスに近づくと、つぼみの一つを指差した。

「ほら、上下に分けるような筋が一本入ってるだろう。ここまで来れば開花寸前なんだ」

 わたしは進みかけて、ふと立ち止まり、あのとき久米が指差した、今では枯れてしまった木々の隙間を見た。そのとき、稲妻のようにある考えがわたしの脳裏に閃いた。それは口に出せないくらいおぞましいものだった。わたしは腕を伸ばすと、そのまま進もうとしていた彩音さんを止めた。

「久米。一つ頼みがある」

「なんだね?」

「君が言う、その開花寸前のつぼみの前に立ってもらえないか」

 久米はいきなり哄笑した。けれど、その笑いを無理に収めた後の、彼の顔は不気味なまでに青ざめ、目だけがぎらぎらと光っていた。

「そんなことに何の意味があると言うのだね」

「分からない。分からないが、君はなぜか、決してそのつぼみの前に立たないよう、実に慎重に振る舞っている。それだけではなく、この前はありもしない何かを見たと偽って、僕をその前に立たせようとした」

「ふふふふふ」久米は低く笑い、「では、君たちはこのつぼみの前には決して立たないと言うんだね」

「ああ」

「宝乃。君もあの連中と同じだな」

「あの連中?」

「ねたみとそねみに凝り固まって僕の学問を黙殺した連中のことさ。ゲスな奴らのことだ。才能もなければ、克己心もない、ただ女房の金だけが頼みの猿と僕を呼んだ奴らのことだ」

「久米…」

「黙れ!才能も学問に対する情熱もおまえの方が俺より上だ。そんなことは俺にだって分かってる。だが、俺が努力をしなかったというのか。ここにある標本の一本一本は、金に飽かせてどこかの採取人に集めさせたわけじゃない。この俺が自分の手で集めたものだ。アマゾンの泥濘でいねいを俺が這い回って集めたものだ。そんな苦労をしたこともない、自分の手では土を掘り返したこともない糞どもが、この俺を嘲りやがる」

「あなた……」

「黙れと言ってるだろう。おまえの金が俺の学問を腐らせたんだ。おまえなんかと結婚しなければよかった。おまえは本当は宝乃の方が好きだったんだ。だが、宝乃はおまえだけのものにならない。そのことが勝ち気なおまえには不満だった。そこへ頃合いの俺がいたのだ。そんなことを俺が分からないでも思って……。なんだ、その目付きは。俺は一体何だ。化け物か。おまえたちまで、俺のことを化け物を見る目で見やがって。ああ、そうとも。俺は化け物だぞ。だが、俺を化け物にしたのは誰だ。学会のクズども。それに俺を裏切り、影で嗤っていた妻と親友だ!」

「それは違うぞ」

「黙れ!」

 久米は内懐から小ぶりなピストルを取り出した。

「さあ、宝乃。単なる情痴事件の被害者として射殺されるかね。それともケルベロスの開花実験の殉教者として博物学史に名を残すかね。君が選びたまえ」

「ふざけるな」

「ははん。君は案外くだらん男のようだ。では、僕が選んでやろう。ケルベロスのつぼみの前に立つんだ。さもないと、僕は彩音を撃ち殺す」

「貴様!」

「宝乃さん!」

「さっさと行け。あと3秒だけ時間をやる。僕が3つ数えるまでに行くんだ。いくぞ、3,2」

 わたしが歯を食いしばったとき、わたしの肩を押さえるように、彩音さんが手を触れた。

「行く必要はありません」彩音さんは久米をキッとにらみ据えると、

「あなたがそこまで下らない人だとは思いませんでした。わたしは今まで、世間の無理解があなたの心を曇らせてしまったのだと思っていました。けれど、あなたは芯から腐った人だったのですね。よく分かりました。あなたは化け物などではない。単に下等なだけの人です」

「黙れ!」

「いいえ、黙りません。撃つと言うのですか。いいでしょう。撃ちなさい。わたしはあなたのような者の妻であるくらいなら、ここで殺された方がましです」

 彩音さんの火を吐くような舌鋒は、鞭のように久米を打ち、彼の顔は朱に染まって、鬼の形相に変わった。

「ぐ、ぐ、ぐ、貴様ら…」

「いけない!」

 わたしが前に出ようとしたときだった。メキメキメキと言う聞き慣れない物音ともに、周囲の低木の一つが広場に向かって倒れ込んだ。

「ああっ」

 低木はちょうど、わたしたちと久米の間に倒れこんだ。その場で飛び退ったわたしたちは互いに抱き合って、更に下がった。広場に弾んだ倒木の動揺が収り、舞い上がった塵芥が薄れたとき、彩音さんが息を呑んだのが感じられた。つられて、視線を上げたわたしも凍り付いた。

「久米?」

 久米はそのまなじりを裂けんばかりに開いていた。けれども、その目はもはや何も見てはいなかった。朱を注いでいた顔色も今は蒼白となり、わたしたちに向けて銃口をかざした腕も力なく垂れていた。彼は何事かを口にしようとして果たせず、2歩を進んで前のめりに倒れた。

 彩音さんが悲鳴を上げた。

 それまで久米の身体に遮られて、見えなかったものが見えたのだ。

 ケルベロスの花であった。ケルベロスの花が一輪、顎を開いていた。その花は血のように赤かった。久米は愚かにも、自らつぼみの正面に立ってしまったのである。

「宝乃さん。一体これは」

「ケルベロスの花が咲くとき人が死ぬのではありません。ケルベロスの花は咲くときに人を殺すのです。ケルベロスの花は開花するとき、種を銃弾のように人の心臓に向けて打ち込むのです。おそらく、その人の死骸を栄養にして育つのでしょう」

 わたしは久米の死骸を調べて言った。彩音さんは温室の内部を見渡して、最後にあの倒木に目をやった。

「久米は自ら集めて、世話をしてきた植物たちに最後の最後で、裏切られてしまったのですね」

「けれども、それは久米の自業自得です。久米は彩音さんを信じられなかったように、この標本たちも信じられなかった。おそらく、そのことが彼に破滅をもたらしたのです」

 彩音さんはうなずいて言った。「行きましょう」

 そして、彩音さんのその言葉を待っていたかのように、そのとき、役割を終えたケルベロスの花はポトリと地に墜ちたのである。

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ケルベロス 南枯添一 @Minagare_Zoichi4749

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