小説家専用.短編 『七時間の幸福』

くさなぎ そうし

お題18『都会』 タイトル『七時間の幸福』





『絶対に小説家になりたいあなたに、夢を。これからも小説家でい続けたい貴方に、エネルギーを』





  ◆◆◆◆◆◆



「意外に都会じゃないか、ここも」


 俺は北九州にある駅で降りて待ち合わせ場所に向かった。いつもは新幹線で終点まで向かうので、この途中にある駅で下車することはない。


……よかった。ここなら、美味い酒が飲めそうだな。


街中を覗き込むと、小綺麗な商店街が並んでいる。打ち合わせがあるため昼間は飲めないが、今日の夜は美味い酒が飲めそうだ。


 客は本を出したいと願っている若者だ。俺の会社は自費出版に携わっており、彼のメールひとつでわざわざ新宿から福岡まで来た。



 ……どんな若者なのだろうか。



期待に心が疼いていく。メールで送られてくる作品は大概お粗末なものばかりで、大抵何を主題に置いているかわからないものばかりだ。だが彼の作品は一味違った。


 だからといって、彼の内容がとてもいいかというとそうでもない。


文章がしっかり書けているだけで全てを読もうとは思えない代物だった。要は磨かれていない原石を見るようなもので、その一部分が光っているだけに過ぎない。


「すいません、お待たせして」


 年の若い男が入ってきて俺に頭を下げた。彼の外見年齢を察するに20代前半だろう。目にも肌にも光が宿っている。


「小郷(おごう)です、よろしく」


 俺が手を出すと、彼は両手をズボンで拭きながら掴んできた。


笠原かさはらといいます。今日は契約をしていないのに、わざわざ社長さん、自らこちらに来て頂いてありがとうございます。本当に、本当にこちらこそよろしくお願いします」


「ああ、よろしく」



 ……俺はいつから、人を見下すようになったのだろう。



 彼の媚びた目が気に入らず目を背けるが、仕方ないとも思う。上の立場にたつとなれば、こういう状況にしか出くわさないのだ。ここに来たのも契約を交わした博多の人との打ち合わせのついでだ。


 俺は冷めた目で彼を観察する。彼の目には熱い光が宿ったままだった。それが自分の心に青い炎を点けたようで、温度は高くても気持ちは冷めているように感じた。



 ◆◆◆



「じゃあまず、君の作品の総評をいわせてもらう前に、わが社の方針を述べさせて頂きます」


 俺は彼の原稿をテーブルに置き、営業トークで自分の会社のアピールをした。


 自費出版の会社は俺が知っているだけで20社以上ある。だがそのほとんどが作者を客と扱っているため、物語の校正には関与しないものがほとんどだ。要は自己満足の世界である。


 ここから羽ばたこうとする者はほとんどおらず、井の中の蛙状態で、自分の作品を手に取りそれで満足する人間が大部分を占めているのだ。


「ということは、自費出版がきっかけで作家デビューということはできないのですか?」


「もちろん、できないことはないですが、可能性は低いです」


 珈琲を飲んで唇を舐めて答える。


「まずあなたが本を出したからといって、それが全てプラスにはならないのです。本が売れなければ絶版となってしまい、あなた自身に傷がつくのです」


 俺は書籍販売が諸刃の剣だということを彼に提示した。


 大概の作者は本を本屋に売り込もうとするが、それではうまくいかない。世の中、一日新書が200冊以上出ているのだ。その中で彼の本を取ろうとするのは砂漠の中で宝石を掴むことと同じくらい難しい。


「私も小説を書いて書籍を出しているのですが、部数はそれなりに抑えて電子書籍をメインでやっています。お客様がつけば、書籍の方がいいんでしょうが、中々に難しいですね」


「なるほど、参考になります」


 彼はそういってしっかり俺の言葉をメモ帳に書いていった。若者なのに珍しい、彼くらいの年齢ならスマートフォンでメモする人が多いからだ。その携帯はテーブルの上に置かれたままになっていた。


「じゃあ、僕が本を出したからといって何のメリットもないのですね。色々な本を出していけば、いつかは作家になれるものだと思っていました……」


 彼のいっていることもわからなくはない。要はその作者にどれだけの客がつくかということだ。客を掴むためには本を出さなければならない。だがその第一歩で滑ったら、本屋の業界では傷物として扱われてしまうのだ。


「なのでうちの会社はその絶版を無くすことに力を入れています」


 彼にわかりやすいように説明を続けていく。


 アマゾンなら書籍販売を使わなくても売り出せること、最初は100部でスタートして、徐々に売り上げていけば絶版は防げること、作家としてのスタートはマラソンのようなもので、地道に積み上げていけば必ず客がついてくれること。


「なるほど、ありがとうございます。僕にも希望があるのですね」


 笠原君はそういって笑った。素朴な笑顔にたじろいでしまう。



……彼なら本当に契約してくれるのではないか。



 わが社では90万円で自費出版を請け負うことになっている。それは安い金額ではないが、俺達にとってもリスクを背負うことになっているのだ。本が増刷されることになっても、作者には一切の負担がないことが1つのポイントだ。


 それは偏(ひとえ)に作者が安定した中で校正できるようにするためだ。


 どんなに有名でいい作品でも、校正が入らなければ駄作になってしまう。だからこそ作者個人で本を出すことはなく、編集者の俺達がいる。


 売れるための本を出すためには必ず二人三脚以上の足が必要なのだ。


「それでですね、まずあなたの作品の総評をいわせて貰いますと、いいものは持っていますが、このままでは絶対に売れません。なぜなら、あなたには基礎がない」


 きちんと自分の意見を述べていく、彼はプロの小説家を目指しているからだ。その熱意を作品に感じたので、こちらも真剣に取り組まなければいけない。


 もちろん、普通の客に対してならこんなことをいう必要がない。服屋に行って、その着こなしでは駄目だ、これをつけろ、という店員がいるだろうか? いるはずがない。


 客が自分で好きなものを選べるから楽しめるのであって、皆、ファッションモデルになるために服屋に来ているわけではないからだ。


「……そうですね」


 急に彼の顔が曇り出した。


「……僕も人に教えて貰った経験がないので、浅いと思っています……」


 悔しそうにいう彼に自分の心境を重ねていく。俺も若い頃、年上の先輩にいわれ歯がゆい思いをしたのだ。もちろんその後、営業成績では俺が勝ち、こき使うことに成功したのだが。


「いえいえ、それでも凄いですよ」


 彼を大げさに褒めて手を叩く。


「人に教わらず、ここまでの文章を20万文字も書ける人はほとんどいません。あなたの内容なら、きっと上を目指せます」


 自分と組めば、という言葉を省略して――。


 今の彼ではとてもじゃないが、しっかりと紐で縛った筏(いかだ)レベルだ。タイタニックのような豪華客船が横を通れば、それだけで潰される。小説界は荒波の中にあるのだ、彼の力量のままでは進むことすらできない。


 お世辞をいったつもりだったのだが、笠原君は急に涙を見せた。


「正直悔しいです……僕の中でこれが限界だといわれるほど煮詰めてきたので……」


 彼は涙をにじませズボンの袖を掴みながらいう。


「推敲も100回以上やっています。一度投稿したものは受け付けて貰えませんから、何度も自分で読み直しました。それでもまだ足りないといわれると、やっぱり悔しいです……やっぱり……僕の作品ではプロにはなれないのですね」



 ……本気だったんだな。



彼の姿を見て心が突き動かされる。小説は孤独な作業だ、あれだけの物語を書ききるためには半年以上費やしているだろう。それを何度も読み返していくうちに、心が折れそうになる瞬間が何度も訪れたはずだ。


彼は何度も何度も、ゴールの見えない作業に苦しんだのだろう。


編集者もいない中で、100回も推敲するなんて、俺にはできない。


「それでもあなたに会えてよかったです。これで新たな目標ができました」


「目標?」


俺が尋ねると、彼は潤んだ瞳のまま、唇を歪ませた。



「再び、できるということです。小郷さんの指摘が頂けて、またあの物語を改良できると思うと、今すぐにでも読み直したいです」



……きっと彼なら自費出版でなくても成功する。



 彼の潤んだ瞳に果てしない乾きをみる。


 初対面の人間に対して、涙を見せられるほど悔しがれる者がどれほどいるだろうか。それほどまでに真剣に取り組めるのは一種の才能が必要で、今の俺にはない。


 満足している人間に先はないからだ。俺のように人生を達観しているものにはある一定の作品は書けるが、ヒット作は絶対に生まれない。


「何度だってやり直しますよ、絶対。プロになるためには、何だってやれる覚悟がありますから」


「どうしてそこまでしてプロになりたいの?」


「明確な理由なんてありませんよ」


彼は持ち込んでいた原稿を躊躇もなく破り捨てながらいう。


「決めました。この話、一度白紙に戻しましょう。プロになれるのなら、一からでもやりますよ、僕は」



 ……情熱があり過ぎるのも苦労するな。



 冷ややかな視線で彼を観察する。


 先ほどまで素朴で純粋な印象だったが、小説の話になると、こちらを食いちぎるのではないかというくらい俺を睨みつけてくる。



 ……面白い。これだけエネルギーを持っている人物は久しぶりだ。



 気を引き締め直し、彼を見る。迷いはすでにないようだ、あれだけ縋っていた瞳は跡形も消え失せ、俺を捕食対象として覗き込んでいるように見える。



 ……だがこれくらいでないと、プロにはなれない。

 


 彼のように血に飢えた狂犬でなければ、ベストセラー作家になることはできない。その最果てにある狂気こそが物語を狂わせ、読者をも連鎖させることができるからだ。



 ……どっちが本当の彼なのだろう。



 気づけば3時間が経っていた。いつもの打ち合わせなら2時間もあれば大概終わるのだが、今日は熱が入ってしまったらしい。外を見ると、タクシーのライトが眩しいくらいに夜が訪れていた。


「君、ここら辺の店に詳しい?」


「え、あ、はい。地元ですので一応」


「もし君がよければだけど、一緒にご飯でもどう?経費で落とすよ」


「え、いいんですか?」


 彼の口元が緩み、笑顔がぱっと咲く。


「でもせっかく来て貰ったので、僕に奢らせて下さい」


「経費で落ちるけど……」


「それでも出したいのです。あなたと話したという証が欲しいのです」


 笠原君は俺をまっすぐに見ていった。


 彼の熱意に俺の心は溶けていくように脆くなっていく。


「……そうか、わかった。なら荷物を置いてくるからロビーで待っていてくれ」


 ホテルの部屋に入り、荷物を置いて鏡を見る。いつも通り、50を過ぎたおじさんだ。だが心の中は新入社員の頃に戻っている。



 ……どうかしている。仕事以外でこんなことをするとは……。



  ◆◆◆



「……そうなんですね、やっぱり小郷さんは社会経験が豊富なんですね」


 笠原君は俺のおちょこにお酌をしながら真剣に頷く。


「自分は福岡から出ていないので、東京に行ったことがないのです……」


 俺達は身の上話をしながら料理を摘まんでいく。俺は酒を飲み、彼は驚くような食欲で目の前の皿を食べていった。もちろん今までの商談の中で酒を飲んだことなどない。



 ……まさか一緒に飯を食うことになるとはな。


 自分で誘っておいて状況を理解できていない。やはり都会から離れると、気持ちが変わるのかもしれない。都会には金の亡者しかいないのだ。だからこそ、気を張り続けて今までやってきた。


 それも、もう少しの辛抱だが。


「君は東京に行きたいの?」


「もちろんですよ。出版社は東京に集中しているじゃないですか、それだけ素晴らしい作品が集まっている所で自分の力を試したいです」


 彼の変わらない熱意に俺の冷めた心が解けていく。


「……そんなにいい所でもないけどね」


 おちょこを傾けながらいう。


 俺は東京生まれで、県外には出張でしか行ったことがない。金の匂いがする所でしか働いたことがないのだ。だからこそ、彼のような人間が羨ましくも見える。


 彼は都会に憧れ、作家になるという夢を持っている。もちろん今の俺にはどちらもない。小説家でもある俺が夢を持っておらず、小説家ではない彼が夢を持っている。


 まったく、皮肉な関係だ。


「さっきも訊いたけど、君はどうして小説家になりたいの? それだけのエネルギーがあれば何だってできそうな気がするけどね」


「一人前に……なりたいんだと思います」


笠原君は拳を作りながら答える。


「自分が信じた道を貫きたいんですよ。会社でもなく、自分一人の力でどこまでやれるか挑戦するにはこれしかないと思ったんです」



……やはり同じだ。



 彼のエネルギーに俺の心が溶けていく。俺にも同じ時代があったのだと思うと、彼の心とシンクロし、胸がかっと熱くなっていく。


「それにしても凄いですよね、小郷さんはずっと東京で働いて成功しているなんて」


「大したことないよ、別に」


 彼に認められることが嬉しくて、つい目を背ける。


 大手の出版社で働きづめだった俺は独立し会社を立ち上げた。俺自身の苦労もあったが、会社は水を得た魚のようにぐんぐんと急成長した。


そして俺は今、社長業を引退し、一人のライターとして若手の育成に力を入れている。


「君はお酒、飲まないの?」


「小郷さんと話したことを覚えておきたいんです」


「……そうか」


 笠原君と会って俺の心はどんどんと若くなっていく。時間が経っても彼の姿勢は崩れず、俺の一言一句逃すまいとメモしている。彼の携帯はずっとテーブルの上で静かに止まっている。


 再び時計を見ると、20時を回っていた。すでに彼と出会って5時間だ。


「どうします? もう一件いきますか?」


「しかし君は飲んでないだろう?」


「次はよかったら……奢って下さい」


 彼は笑いながらいった。


「安い所でいいです。一緒に飲みたいです」


 俺も彼のことを忘れたくない、と思い始めていた。彼には俺が失った魅力を備えているのだ。


 金では買えない情熱を、彼は確かに持っている。


「よかったら友達の店があるんです、そこにいきませんか?」


「いいよ、じゃあ次に行こう」



 ◆◆◆



 俺達は店を変える度に、関係がどんどん変わっていった。


 編集長としての俺が、たった一人のための編集者となり、今では彼と肩を並べる友人となっている。



 ……ああ、彼とは仕事の関係になりたくないな。



 俺の心が金(ビジネス)から解き放たれていく。仕事の話になれば、いいたくないこともたくさんあるのだ。金が絡むと友情は生まれないというが、まさにその通りだろう。


 俺は次の店に向かうまでに自分の秘密を漏らしていた。


 誰にもいってないが、庭を造る免許を取っていること。密かにサックスを習っていること。彼は本当に聞き上手で俺の話を楽しそうに全て聞いてくれた。


 次の店につき、彼と乾杯を交わした後、俺は最大級の秘密を告白することにした。


「実は俺には秘密があるんだが、訊いて貰ってもいいだろうか?」


「ええ、いいですよ。ゲイとかでなければ」


 彼は酒を含み、人懐っこい笑顔を見せていた。ゲイでなくとも彼を抱き枕として寝たいという欲求が働く。



「実はだ。俺の体はあと、2年持たない」



「え?」


「仕事尽くめで俺の体は癌になっていたことに気づかなかったんだ。それで今、社長業を降りて一人のライターとして働いている。正直働かなくても食っていくだけの金はある」


「……それではなぜ、働いているのですか?」


「もちろん、夢があるからだ」


 俺は火照った顔を手で冷やしながらいった。


「いや、夢ができたといった方が正しい。俺は君のような若者に自分の技術を教えたい。今まで培ったものを誰かに託したいんだ。俺は結婚していないし、子供がいないからな」


 なんとなく社長業を降りてライターになったが、そこには明確な目的はなかった。


 だが今なら俺がなぜこの道を選んだのかがわかる。


 俺は自分の経験を誰かに託したいのだ。死ぬことに恐れはないが、死ぬことで全てを失うことを恐れているのだと、今気づいた。


「そうだったのですか……」


 笠原君は急に黙り込んだ。


確かにこんは話、いきなりされても困るだろう。しかし、もうこの気持ちは止められない。


「どうかな、俺の最後の仕事、君にさせてくれないか? 正直、君とは金の話をしたくないが、君がよければ俺の技術を託したい」


「小郷さん、ありがとうございます。でも、すいません……」


 笠原君は席を立って頭を下げてきた。


「……実は僕、お金ないんですっ!」


「えっ!?」


 聞いていない話だった。最初に定義していたはずなのだが、彼はどうやって契約するつもりだったのだろうか。


「正直にいわせて下さい。最初、あなたが来てくれるとわかってこれは詐欺だと思っていたのです」


 彼は頭を下げながらスマートフォンを取り出した。


「電話の対応も怪しかったので、僕は今日警戒してきました。実はスマートフォンであなたとの会話を録音していたのです」


 電話の対応を思い出す。確かに俺が電話をした時は興奮しており冷静には対処できなかった。


それは迷惑メールの中に本物が紛れているような幸運を掴みとったように感じたからだ。


「つまり、俺のことを大金を得るための詐欺師だと思ってたの?」


「そうです。だから最初のご飯代を出しました。お酒を飲まなかったのもそのためです」


「はははっ」



 ……まさか、俺が騙されるとは!



腹がよじれ、笑いが漏れる。スマートフォンをメモに使わず録音していたなど夢にも思わなかった。確かに俺の会社は有名だが、業界を知らない彼にとって俺は怪しい人間に他ならない。


 面白い、本当に純粋だったのは俺だったわけか。


「それでも小郷さんの話を聞いていて、どこにも矛盾がなくて……どんどんあなたに魅力を感じるようになりました。今すぐには用意できませんが、自費出版で出すのならあなたの所で出したいです」


「ちなみにどれくらいで溜まりそう?」


「……2年後くらいに」


「俺の体がちょうど、ないじゃないか」


 俺は彼に突っ込んだ。金なら払ってもいいと思うが、それでは彼のためにならない。彼は原石だ。ここで磨かなければ、ただの石ころで終わってしまう。


「じゃあ仕方ないな。今回の契約はなしにしよう」


 俺は編集者の顔を取り戻しながらきつくいった。


「だが友人としてならアドバイスができる。授業料は俺の書いた本を読むことだ。それでいいか?」


「え、いいのですか」


彼は目を大きく開けていった。


「当たり前だ。これは友人としてできることだからな。だからそれ以上、それ以下でも話すことはできない。これは契約ではなく誓約だ」


「もちろんそれで構いません、ありがとうございます」


 笠原君の手を取り合い誓い合う。


 彼の熱意なら、必ず小説家として成功するだろう。彼の飢えた瞳に昔の自分と同じものを感じたからだ。



 ……そうか、俺はこの瞳を見たいがためにこの世界に入ったのだった。



 編集者として、エネルギーを貰い、気づけば人任せにしていた。


 俺はこれが欲しかったのだ。俺の人生は彼と出会うために存在していたのかもしれないと思うほど、体が熱を帯びていく。


 時計を見ると、22時を迎えていた。編集者としては失格だが、彼と共にいた7時間は幸福な時だと確信してしまう。


「僕があなたの小説を全て読むまでは死なないで下さいね。ところで何の癌なんです?」


「ん? 俺の病気か?」


 俺は口角を上げながらいった。


「咽頭癌(いんとうがん)だよ。だから酒を飲めば、その分死期が早まるな」


「え? マジですか」


「ああ、マジだよ」


 笠原君のグラスに自分の酒を全て混ぜて答えた。そこには腑抜けになった氷だけが残っている。


 彼が情熱を注いだ原稿を破ったのなら、俺だってその気持ちに応えてやりたい。


溶けるには、まだ早い。


「だから今日から酒は止める。俺はもう一度、この7時間の幸福を味わいたいからね」

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