おやすみ、ネクロマンサー

津島修嗣

牧羊犬と羊蜘蛛

第1話 「長い夜のほとりで」




 ぼくの耳の横で真四角の夏が燃えていた。

 夜ですら眩しい晩夏。長い長い夏の終わりをぼくらは通り過ぎていく。あらゆる意味で、きっと最後の夏になるだろう。

 規則的なリズムと心地よいノイズにもいい加減飽きて目を開ける。赤銅、緑、青に月白。無数の星のざわめきが瞳を通して脳髄を駆け巡る。降るような星空は、こちらにむかってつぶさに語りかけてくるようだった。

 さよならについて。




 ぼくらを乗せた急行列車はちょうど蛇行する川のほとりを抜けていくところだった。

 大小様々な湖面に星灯りが反射して、丸く黒い淵の輪郭をあらわにしている。そこかしこに星の煌めきが溢れ、空と原野の境目は完ぺきに失われていた。まるで昔読んだ銀河鉄道の夜さながらに。

 学舎専用臨時急行〈鋼青こうせい〉――。

 約一万八千ヘクタールに及ぶ湿原地帯。その真ん中を這うように列車は走っていく。

 時折、血と油で錆び付いたブレーキの音がぼくの背骨を震わせた。それは巨人の骨が軋むような禍々しい響きで、ぼくの心をひりつかせた。

 しかし、車窓からはだだっぴろい苔むした大地と湖沼がみえるばかりで、彼らの姿は視認できない。彼ら。黒い羊ブラックシープ

 この辺りにめぼしい獲物はいないから当たり前だ。それとも夜闇に紛れているのかもしれない。どちらにしろ、今夜襲ってくる気配はないみたいだ。

 荒野の駅で黒い羊の群れに遭遇したこと以外、旅は順調だといえた。終わる世界は退屈なくらいがちょうどいい。

 起きぬけのぼくに、ぞろぞろと風のさざめく音が近づいてきた。ちょうど複数人が同時にこちらへ歩いてくるかのような音と気配だ。

 でも、青い固定式腰掛の連なりから姿を現したのは、少女がひとりだけだった。ぼくが座っているシート以外はすべて空席。

 車室の真ん中に取り付けられた小さな電燈が、少女の端正な輪郭を照らし出した。雪を欺くような白い肌に幽鬼の如く妖しげな表情。薄明りの中、降るような星の光さえ飲み込んでしまう真っ黒な瞳が、ぼくを見ていた。


「おはよう、セタ」

「……べつに目を閉じていただけだよ、ヤオ。きみは探検?」

「三号車でお土産を買ってきた。口、開けて。目は閉じて」

「目を閉じる必要あるの?」

「いいから言う通りにして」


 それ以上何か言おうとすると、口の中に人さし指と中指が捻じ込まれた。ヤオの指はすぐにぼくの舌を探し当てて玩び始めた。


「うひゃ、ひょっとらに」

「黙って。目を閉じて、早く」


 ヤオが執拗に舌をぐにぐに捏ねまわすので、言われた通り目を閉じる。すぐに紙を捲るような気配がして、舌の上に小さな欠片が放りこまれた。口を閉じて転がせば、甘くて香ばしく、少し苦味を含んだ懐かしい味がした。


「……これってキャラメル?」

「サイコロキャラメル」


 ヤオはなぜだか得意そうに胸を張る。するとゴシック調の真っ白なショールブラウスの下で大きな胸がたゆんと揺れた。薄くかすかに光沢のある上等な布地が、少女の胸の圧力に負けまいと懸命に抗っている。まったくもってけしからん光景だった。


「どうしたの」

「……座りなよ、揺れたらその、危ないし」

「なにが? ヤオは転ばない」

「いいから」


 あくまで上品に黒いロングスカートを翻し、少女が斜め向かいの席に座る。

 パニエの裾端から一瞬だけ爪先が見えたが、黒く華奢なピンヒールを履いているように見えるだけだった。

 ぼくはほっと息をつく。

 ヤオは不服なのか、窓にこつんと頭を預け、言葉と目でダイレクトに訴えかけてきた。


「退屈」

「あと一時間ちょっとで着くから、我慢しなよ」

「なあ、ほんとうに面白いのか? セタが行く学舎というところは」

「さあね。きみのいう面白いとはちがう、もっと平和な意味で楽しいといいんだけど」

「でも、ヤオが一緒にゆくのを許されたってことは、面白いことが起きるからだろう?」


 なにもかもお見通しだと、したり顔で告げるヤオはしかし美しかった。隙のない、ともすれば冷血ともいえる美貌。少女が何かを喋るたびに月白色の髪が揺れて肩に零れた。たしかにヤオは冷たげな美少女ではあるが、緩く束ねた三つ編みがいちいちしっぽみたいに動く様は愛嬌があった。

 ヤオはぼくの友人だ。元来おとなしい性格の、だけど風変わりな旅の道連れ。

 この車両には、ぼくと彼女の他に乗客はいない。

 今では東をめざすひと自体、とても少ない。

 ぼくたちがこれから向かうところは、彼ら・・がやってきた場所なのだから。



 終わりは突然に星を降らせて、そして現在もゆっくりと進行中だ。

 長いキスでおやすみといわんばかりに、時間をかけて人類は終わっていく最中だった。

 駅を通過するたびに黒い羊の群れブラックシープ――彼ら・・がわらわらと集っているのが見えた。

 黒い羊。彼ら。あれは元々人間だったモノたちだ。

 魂に置き去りにされた肉体。夜動き回り、太陽の栄光すら恐れず、人畜を襲い、喰らうもの。

 リビングデッド。ゾンビ。キョンシー。ウォーカー。虚構フィクションのなかでは呼び方も描かれ方も様々だけど、みんなそこそこは知っているだろう。

 マインド・アップローディングの隆盛による純粋生存者の減少に加え、が降り、死が溢れたことで終末時計はひとっとびに零を刻んだ。

 それでも滅びる方向へ向かっていた人類が、偶然か必然か、ほんの少し早く終わりを迎えただけにすぎないと誰かが言っていたのをぼくはなんとなく覚えている。嘆く人さえ去って久しい世の中だけれど、ぼくらはまだ生きている。

 でも、ただ生きるだけでは済まなくなった。

 ぼくは父も母も兄弟も、そして祖父母も家族はみんな死操師ネクロマンサーという一家に生まれ育った。ところが、魄を置き去りにして魂だけが連れ去られてしまった後の世界で、ぼくらにできることのほとんどは無くなってしまった。

 死操師を廃業したぼくにとって、残された時間はあまりなかった。なにかやりたいことは、あるいはやり残したことはないのかと聞かれて、ぼくはこう答えた。

 学校に通ってみたい、と。



「北の砦」

「うん?」

「どんな場所なんだろう」


 ヤオがいつのまにか黄緑色の入学案内を興味なさげに捲っていた。

 ブラウスの姫袖からちょこんと覗く指先が可愛らしいな、と思って見つめていると、少女は咎めるような顔をした。


「おい、ためしに犯行動機を話せ。里で練習していたのを見たが、ひどい大根役者っぷりだった」

「犯行って……それをいうなら志望動機でしょ。なんでも物騒な方向に間違えないでよ」

「どっちだって似たようなものだろう」


 ブラックホールのような双眸がぼくを射抜く。射抜くと言うか、本心ごと嘘が吸い込まれてしまいそうな瞳だ。重力の波さえ感じるようだった。


「おかしいのはおまえだぞ、セタ。乳臭いこどもが大勢いる場所なんか、ヤオには興味ないのにな」

「……興味ないなら、面白いかとかどんなかとか、どうしてしつこく聞いてくるのさ」

「それはセタが行く場所だからだ」


 ヤオの何者をも映さぬ瞳には、しかし確かにぼくが映っているらしい。


「セタが行く場所はよいところでないとだめだ」

「……また、すぐそういうこという」

「なにも間違ったことはいってない。セタが決めたことを、ヤオは最後まで守る必要がある」

「あー、ね、そうだ。ヤオもキャラメル食べたら? はい、ほら口を開けて」


 紅白サイコロ模様の小箱をひったくり、包み紙を開けながらヤオの顔を見やる。

 少女はそっと目を閉じ、そしてわざとらしくほんのわずかに唇を突き出していた。長いまつ毛が翳を刻み、仄かに染まる頬を真昼の如くに明るい星々が照らしている。青白い肌は若い林檎のように色づいて、薄い唇だけが彼岸花のように紅かった。


「あの…………そういうのはいいから、口を開けてくれる?」

「しないのか」

「しません」

「サービス精神がないやつは、きっと学舎のいじめっことやらに真っ先に目をつけられるに決まってる。やーい、便所飯便所飯」

「急に呪わないでっ!? あとなんで闇っぽい部分だけ詳しいの」

「ネットに落ちていたんだ。ほら、早く飴をおくれよ」


 べぇ、とぼくに向かって舌を出してみせる様は憎らしくも逆説的に可愛らしい。

 薄闇い車室、ヤオの紅い舌はぬらりと妖しく艶を帯びて映えた。ぼくは大人しく彼女の口に四角いキャラメルをほうってやった。他にどうしろというのか。


「はい。どうぞ」

「……やっぱりこっちのほうがいいな」

「え、なに――」


 続けようとした言葉はヤオの口づけによって奪われてしまった。開きかけた唇は簡単にこじ開けられ、柔らかく濡れたヤオの舌が別の生き物のように絡みついてくる。

 ヤオが手を伸べて、ぼくのこわばった上半身を包み込むように抱いた。ヤオのほうがぼくよりも少し背が高いから、まるで大きな蜘蛛が獲物を絡め取るようにもみえただろう。ヤオの手指がぼくのうなじをそっと掴んで、髪の毛の束が隙間から零れていくのがわかる。

 荒々しい口づけの間を縫って、ヤオは狂おしげに吐息を吐きだす。ヤオはヤオなりのやり方で角度を変えて何度も口づけてきた。ほんとうに、食べられてしまいそうだった。

 薄いブラウスの生地越しに、ぼくは束の間温かさを錯覚した。大きな胸がぼくの胸板に押しつけられて潰れている。ヤオの鼓動は伝わってこなかったが、ぼくのそれは伝わっている筈だ。

 言葉はおろか呼吸までもをじっくりと奪い尽くしたあと、ヤオはぼくの口の中にキャラメルを置き去りにした。ぼくはそれを流し込まれた唾液と一緒に飲み下さないように努めるので精いっぱいだった。唯一生温かいヤオの舌がぼくの唇を舐めて、離れた。

 二人の唇の間に糸を曳いた唾液が滴り落ちるのを見た。それは蜘蛛の糸を連想させた。


「……ひ、人が来たらどうするのさ」

「どうせ誰も来ない」

「車掌さんとかいるでしょ。切符を拝見しますってアレ」

「このご時世、駆け落ちだと思われるだけだろう」

「か、かけおちって、意味分かってる? あと、いい加減離れて!」


 ヤオはなおも僕の背に腕を回したままぎゅうぎゅうと締め付けてくる。抱き寄せられるたびに身体がくっついて、柔らかく張りのある双球がぼくの胸板の上で暴れ回った。

 ヤオの漆黒の瞳はぼくだけをまっすぐに見下ろしている。


「……はなしたくない。学舎とやらに通いだしたら、わたしはほとんど留守番だろう。いまのうちに充電が必要だ」

「寮で毎晩会えるけど」

「夜だけじゃないか」

「その日にあったこと全部教えてあげるから」


その時、がらりと扉が開く音がした。一人分の足音。


「……約束だぞ」


 頷くと、しぶしぶヤオが離れてくれた。がら空きの車室に、検印を携えた車掌さんがやってきた。


「切符を拝見します」

「おねがいします。終着まではあとどれくらいですか?」

「あと三十分といったところです。到着後は寮へまっすぐ向かわれるんでしたね?」

「はい。彼ら・・の様子はどうです?」

「今夜の出現情報はまだありませんね。もちろん警戒は必要ですが、おそらく通常よりは安全な道行きになる筈です」

「そうですか。ありがとうございます」


 ぼくがそう挨拶すると、車掌さんは柔和な笑みで「よい学園生活を」と挨拶を返してくれた。学園生活。その響きにぼくの胸はまたほんの少し高鳴った。

 彼は隣の車室へと渡っていくが、果たしてぼくらのほかに乗客がいるのかどうかは知れなかった。


「ということで、もうすぐ着くから荷物を忘れないように……ヤオ? どうしたの」

「あと二十五分」


 向かい側から隣の席へと移ってきたヤオが、ぼくの肩へ頭を預けてくる。ぼくより背の高いヤオが少し身を縮ませて甘えようとする姿はほんの少しおかしく、そして愛おしかった。

 〈北の砦〉の学舎へ向かう列車は、降るような夏の星空の下、ゆっくりとカーブを描きながら進んでいく。

 遠くに灯りが見えた気がして、ぼくは思わず窓を開けた。外気はひんやりとしていたけれど、何の味も匂いもしなかった。明日も暑くなるという予感があった。晩夏、昼間の空気は冷たいが、日差しはまだ灼ける様に熱いのだ。

 故郷を去るとき、路面に焦げ付いていた影の形を、ぼくはまだはっきりと覚えている。ぼくの億劫な予感を振り払うように、ヤオが声をあげた。


「セタ。街の灯りだ」


 その声にぼくも同じ方向を見る。橙色のあたたかな灯が夜暗の淵に燈っている。星々とは異なる人工的な光だが、文明の叡智を感じさせるものだった。

 あれは塔だ。〈北の砦〉。学舎らしき建物も確認できた。

 見間違いではない。ぼくらがこれから日々を送ることになる場所だ。


「きれいだな」

「へんなの。ぼくよりよっぽどヤオのほうが楽しみにしているみたい」

「そんなことない。セタがよっぽど悲観的なだけだ」

「そうかなぁ……ぼくはけっこう楽観的なタイプだと思うけど」


 そんなことを言い合うぼくらを、青鋼という名の夜汽車が容赦なく、だけど優しく揺さぶり、北の砦へと運んで行くのだった。







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