最終話

 さっきまで西山の姿をしていたそいつは、今明らかに僕の姿になって目の前に立っていた。

「な、なんだこれ……西山はどこに」

「だから、最初からいないって言ってんだろ。現実を見ろよバカ」

僕の姿のそいつは僕の声で僕を貶した。ああもう、訳が分からなくなってきた。取りあえず状況を整理すると……今まで西山だと思って接していたこいつは実は僕で、西山の姿を借りていただけだったということなのだろうか。いやいや、やっぱり訳が分からない。誰かここへきて説明してくれ。

「さあ、殺すのか殺さないのか。ハッキリしろよ」

目の前のもう一人の僕はイライラした様子で言った。さっきから言っている殺すだの殺さないだの、これはどういう意味なのか。こいつはいった。「これまでの怠惰な僕を殺せ」と。つまり……

「つまりお前は、過去の僕ってことか」

「お、理解が早いな、僕にしては」

何とも複雑な気分だ。自分に褒められても全く嬉しくない。しかもどうした訳かとても口が悪い。僕はこんなに悪態をつくような人間じゃないぞ。

そんなこと気にも留めず、過去から来た僕は淡々と話し始める。

「いいか。この現象はお前が怠惰な生活から抜け出したいと心のどこかで願った結果なのさ。そしてもう一つ、お前の中のこのダラダラとした生活をやめたくないという怠惰を極めた思いもあって、それが拮抗してこの無限ループにハマったってわけさ。だから抜け出すにはただ一つ、そんな昔の僕を殺せばいい。明日から前向きにやる気に満ち溢れた活発な大学生としての生活を始めればいい。な、簡単だろう」

なるほど。納得はした。これまで通り怠惰な、堕落した生活を願う愚かな僕を殺して明日から心機一転生活を始める。理にかなっているではないか。さっさと殺してしまえばいい。

そこにドスンと、僕の足元にナイフが一本落っこちてきた。思わず凝視する。過去の僕は言った。

「ほうら、そいつで僕を一突きさ」

そう、早く手に取れ。これで終わるんだ。こいつで刺してさえしまえば……。

「出来るのか? お前に」

その問いかけに僕はハッとする。ナイフを取ろうとした手が止まった。僕の中に生まれた迷いは決して殺すことへの躊躇いではなかった。これまでの生活からの脱出。それを今、本当に心の底から願っているのだろうか。正直あのままでいた方が楽なんじゃないか? わざわざ張り切って大学へ行く必要はない、これまで通りでも進級に支障は来さないはずだ。……いいんじゃないか、このままで。



「逃げないで。頑張ることから」



どこからか、声が聞こえた。まさか、こんなところで君の声を聞くなんて。紛れもないМさんの声だった。どうして、あの時会っていたМさんはこの現象が作り出したものじゃなかったのか。けれど、彼女の声は確かに僕の堕落した思考に突き刺さった。

「……このままじゃ、ダメなんだ」

勢いにまかせてナイフを手に取る。キッと過去の僕を睨みつけ、右足で床を蹴って飛び込んだ。やつは僕を憐れむように笑っていた。右手に握りしめたナイフを躊躇いなくやつの腹に突き刺した。生々しい、肉を貫く感触が手に伝わる。何も言わず糸の切れたマリオネットのように倒れこんだ。次の瞬間、まるでアニメの演出のように光の粒となって過去から来た僕は徐々にその姿を消していく。何も言わず、息切れた僕を虚ろな目で下から見ていた。過去の僕が消えていくと同時にこの異常空間と化していた部屋も崩壊していく。糊付けされた色紙がペラペラと剥がれ落ちていくように、部屋を構成するすべてがボロボロと崩れていく。僕はただ立ち尽くしてそのさまを見ていた。何もせず、何も思わず、何も変わらず。



 気が付けば意識を失っていた。目が覚めると僕はベッドの上だった。時間は夕方、食事を済ませたであろう痕跡が机の上にい残されていた。箸に大皿、めんつゆの入ったお椀を見てそうめんを食べたことを思い出した。なんだか随分前のことのようだけれどまだ一日も経っていなかったのだ。戻ってきた。なんてことはない、普通の大学生の日常に。

「これ、洗わないと」

食器を台所まで運んでいく。なんとなく今までの体験を振り返った。散々だったけれど、どこか自分の中で変わったものがある気がした。つまらない後悔だと思っていたけれど結果的には僕をあんな現象に巻き込んだ要因の一つでもあるんだから、晴らせてよかった。いいことだって、あったから。

「あーあ……明日から頑張るか」

そう、僕は明日から頑張るのだ。頑張って普通に生活するのだ。なぜかって、あの時の彼女の言葉を裏切ることは出来ないからだ。明日から僕を待っているのは、なんのことはない、普通の大学生の日常である。



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堕落的大学生の一日 ミコトバ @haruka_kanata

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