セピア

 帰り道、午後四時。

 俺は、八王子駅の中央線四番ホームから、優と二人、連れ立って電車に乗り込んだ。

 普段は徒歩だけで行き来する通学路を逸れ、高校の最寄り駅までわざわざ足を伸ばすというだけで、既に少し新鮮な気分だった。

 八王子からの慣れない電車に、切符を失くさないようぎゅっと握り締める俺と、いつも通りに慣れた手付きで磁気式の定期券を自動改札機に通す優。

 というのも、俺にとっては、他人との初めての学外……と、いうか。並んで歩く帰り道、というか、寄り道、というか。

 そんなこんなで、がたんごとんと黄色い車両に揺られ、十分と経たずに終点の高尾に辿り着いた俺達は、そこから更に先へ行く電車を待っていた。

「……ねえ。なんで突然、相模湖なわけ」

 中央線のホームから、今度は中央本線が止まるらしいホームに移動して、俺はようやく、優に訊ねた。

「え?」

 切符を買う段になって知った、目的地。

 今こうしているのは帰り道で、寄り道だ。……優の家まで行くための帰り道、のついでの、寄り道。

 そう。

 俺にとっては初めて尽くしの今日だけれど、中でも一番の初めては、優の家への外泊なのだった。

「だって、お前ん家があるのはここでしょ」

 高尾駅は、唯野家の最寄り駅だと聞いていた。

 優は頷く。

「うん。駅出て、ちょっと歩いたとこだよ」

「単に寄り道したいだけなら、八王子の方がいいはずだし。わざわざ湖に行く理由は?」

 ……ここまで黙ってついて来ておいて、今更と言えば今更なのだけど。

 でも、だからこそ、だ。

 いつもなら何においても強引に事を進めたりはしない優が、いざ一日の授業が終わり、並んで校門を出てからようやく、

『あのね……家に行く前に、寄り道してってもいい? ちょっとだけ、電車に乗るんだけど』

 なんて、いかにもわざとらしい口調で切り出してきた訳が知りたかった。

 俺の問いに、優は口元をむずむずさせながら、俯き加減に答えた。

「あ、……うん。……うちのお爺様がね、好きなんだ。相模湖」

「……ふうん」

 お爺様。

 その一言で、腑に落ちた。

 優の家は金持ちだ。

 孤児で施設暮らしの俺なんかには、とても想像がつかないくらいの。だからこいつは、金銭や物質的な意味では何も困ったことが無い。

 当人がそう言っていたのだからおそらく事実だ。

 そして多分、これからも一生、何一つ不自由はないんだろうと思う。

 そんな唯野家――優の家とその本家を、そういう家にした張本人が、その“お爺様”なのだった。

 実は俺も、一度だけ会ったことがある。

 学校の帰りに待ち伏せされて少し話をしただけだから、きっと優は知らないだろうけど。

 あの人は優しくて、威厳があって、けれど正面からまっすぐに俺を見据えてきた眼には、見られているこちらが背筋を伸ばさずにはいられなくなるような鋭さがあった。

 きっと、ああいうのを“品格”というのだと思う。

 人の上に立つ人間の顔、というのを、あの時、俺は生まれて初めて目の当たりにした。

 優が“お爺様”を慕う理由が、わかったような気がした。

「今うちが家族で住んでる高尾の家って、元々はお爺様の別宅なんだ。お爺様がまだ若い頃に、どこか自然が豊かなところに息抜きできる場所が欲しいって思って建てたんだって」

 優は気恥ずかしげにもじもじと喋る。

「へえ」

 夕暮れに近い、落ちかけの日が眼に痛い。

 相槌を打ちながら、俺は駅舎の、屋根が途切れたあたりから差し込んでくる光に目を細める。

「それでこの辺か。山と湖」

「そう! 緑は高尾山、水辺は相模湖。東京からもそんなに遠くないしね。それで今は、僕ん家が管理人みたいな感じでさ。小さい頃は僕もよく、この辺をあちこち連れ歩いてもらって」

 小さな頃。

 やさしい口調でそう口にする優の瞳を、俺はうまく見られなかった。

「、そっか。……思い出、ね」

 血の繋がりや過去の記憶に好意的な感情を抱けない俺には、縁遠い言葉だ、と思った。

 思わず、自分の声色が硬くなってしまったような気がして黙り込む。

 一人で勝手に気まずくなってしまった俺に、果たして気付いたのか否か。

 優は口調を変えずに、溜息を洩らすようにそっと、呟いた。

「うん。……だからさ、……匡紀にも、見て欲しくて」

 恥ずかしげに零された言葉に、俺は俯く。

 ――そういえば。

 あの偉大な“お爺様”曰く、どうやら優にとっても、俺が『初めての友達』らしかった。

「……。ふーん、」

 少し、風が強い。

 目にゴミが入りかけて、きゅっと目を瞑る。

 パーソナルスペースなんかとっくに超えた隣に優と並んで、俺は言った。

「じゃ、どんなとこか、期待しとく」

 するとはっとしたように、優の声が焦り出す。

「あ! えっと……、うーん。期待されると、ちょっと困る、かも。だけど」

「は? 何で」

「えっあっいや、……だって。期待するほど大したことない場所だし、っていうか実際、だいぶ寂れてるし」

「でも、思い出なんでしょ?」

「う、うん。そうだけど……思い出補正とか、よく言うし」

「お前、自分から連れて行きたがっといてさ。それこそよく言うね」

「うっ」

 いつもの頼りなさげな様子に戻った優をからかいながら、自然と俺の口端は上がっていた。

「ま、でも一応、観光地でしょ。何か面白いものとかないの」

「面白いもの……面白い……、あ! そうだ、遊覧船! クジラの形でね、デッカくて、潮まで吹くやつがあるんだ! あとは、――」

 優の賑やかな声を聴きながら、そろそろ大丈夫かな、と思って瞼をゆっくりと開く。

 数度目を瞬いてみても、今度は特に“生理的な”涙が分泌されることもない。

 依然俯いたままの俺の目には、さっきと変わらず、二人分の影が映っている。

 せわしなく身振り手振りで言葉を補足しながら喋る優は、影まで騒がしくて、俺は小さく声を上げて笑った。

 と、

「あ」

 優の声に、顔を上げる。

 白色と青色の車体が、ごぉおお、と音を立てて四番ホームに滑り込んでくる。

 気付けば優は喋るのをぴたりと止め、楽しげに笑って俺を見つめていた。


 中央本線、大月行。

 これに乗り込めば、あと十分ちょっとで、こいつの思い出が俺を待っている。

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SとM 校倉馨 @azekura333

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