最終話「地球到着まであと2時間」

「最終連絡。カリロエⅥ、全て。地球到着まであと2時間。第二パイロットは15年前の事故の生き残りの少女だ。精神的な錯乱があり、鎮静剤を投与してあるが、それ以外は健康だ。また、貯水タンクの中には彼女の子供が入っている。気密服と水圧により減速Gからは守られている筈だが、酸素は4~5時間で切れてしまうため、最優先での救出を願う。燃料の問題のため、第一パイロットはこれから船外活動に入る。発信装置を持ち、衛星軌道に乗るつもりだ。もし、万が一上手く衛星軌道に乗れたなら……救出をお願いしたい」


 再突入シーケンスに入ろうと言う宇宙船から人が飛び出して衛星軌道に乗る?


 それを見つけて救出する?


 そんなことは不可能だ。俺の着ている最新の船外活動服だって、酸素は12時間しか持たないのだから、なおさらだ。


「……彼女に罪はない。俺はカルネアデス法に則って乗組員の命が助かるために必要なだけのペイロードを投棄するに過ぎない。どうか、彼女の今後の人生に……彼女と彼女の子供の人生に、たくさんの幸せが訪れますように。以上、連絡を終わる」


 録音装置のスイッチを切り、計器に『緊急メッセージあり。要確認』の表示を点滅させる。

 俺は少女の傍らにひざを折り、顔を近づけた。


「すまなかった。許してくれとは言わない。許されるはずもないことは分かっている」


「な……ぜ?」


「なぜ? ……なぜなんだろうな。お前はあんな酷いことをした俺を受け入れてくれた。諦めか? 優しさか? 俺に対する憐みか? 理由は分からないが、俺はそれで救われた。それだけじゃない、あんな……宝物を……お前は生んでくれた。それに報いるために俺が出来ることを考えてみたら……中学生が習う方程式のように答えは明白だった……これしかなかった。それだけだ」


「いや……いかない……で……」


 少女の手が俺の腕をつかむ。その手は細かく震えていて、そっと手を触れるだけで簡単に外れた。

 俺は少女に顔を近づけ、まるで初めての口づけのように唇を合わせる。


 今まで何度も無理やり唇を奪ってきた。

 それとは全く違う感覚が唇から伝わり、俺はずっとここに居たいという気持ちに支配される。

 それを無理やりに振りほどいて、俺はゆっくりと立ち上がった。


「……さようなら。もし、また会うことが出来たなら……いや、やめよう、そんなマンガみたいな話は――」


「――あり……ますよ。諦めな……ければ、奇跡は……あります」


 少女は精一杯の力を込めて笑顔を見せる。実際にマンガのような奇跡の末にこの宇宙船カリロエⅥへとたどり着いた彼女の言葉には、それだけで何か強い力があるかのように響いた。


「……そうだな。奇跡が起きたら……その時にまた話そう」


「はい……私……私はあなたを――」


『――大気圏再突入シーケンス開始まであと3分。パイロットは着座し、安全装置を装着してください』


 何か言いかけた彼女の言葉を、艦内アナウンスが遮る。


 もう行く時間だ。

 俺は彼女へと視線を向けると内部エアロックの扉を開き、急いで与圧室へと向かった。

 与圧室の気圧が0になるまでに約1分かかる。大気圏再突入シーケンスが開始されてから与圧室の気圧に異常があれば再突入自体が中止になってしまう。

 中止になり、月などの重力場が丁度良い位置関係になるまで待ってそれをもう一度トライするだけの燃料は、もうカリロエⅥには残っていないのだ。


 減圧を待って外部エアロックを開き、船外に出る。

 エアロックを閉じ、与圧が始まったのを確認し、時間を見るとあと数十秒しか猶予はない。

 感傷に浸る間も躊躇する余裕もなく、俺は宇宙船から手を放した。


 慣性に従い、しばらく宇宙船の近くを漂う。

 突然バーニヤから光があふれ、カリロエⅥが減速して地球へと落ちてゆくのが見えた。

 絶妙な角度を保ちながら、船は地球へと吸い込まれてゆく。

 圧縮された空気の持つ熱により赤く輝くその船体を、俺は目視できなくなるまでずっと見つめ続けた。


「さて、暇だな……船外活動服じゃあ映画も見られない……一人には慣れてたはずなんだけどな……」


 上下左右、俺を何かと結び付けているものは何一つない。

 こうなってしまえば、酸素が12時間で無くなってしまうのは、逆に救いであるかのように思えた。

 圧倒的な心細さが体を襲う。それでも俺は最後に一つ、満足のため息をつくことが出来た。


「……満足できる人生なんて、俺にしては上出来じゃないか。――定時連絡。カリロエⅥ、全て問題なし。だ」

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カルネアデスの方程式 寝る犬 @neru-inu

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