名もなきポッぺの物語

ペイザンヌ

短編

 ポッぺは作家になりたかった。


 それは、幼い頃に読んだはずの一冊の本の影響だった。その物語があまりにも胸を打ち、ずっと脳裏から離れなかったからである。自分もあんな物語を書いて世界中の人を感動させてみたい。ポッぺはいつしかそんなことを願うようになっていた。


 高校を卒業するとすぐ彼は都会へ出て小さな出版社に勤めた。空いた時間や夜中に自分の小説を少しずつ書いたが、仕事は忙しく、なかなかポッぺにまとまった時間を与えてはくれなかった。


 自分には才能などないのだ、作家になることなどもう諦めてしまおうと思うこともたびたびあったが、そんな時ポッぺはいつもあの幼い頃に読んだ物語をふと思い出すのだ。その物語の主人公はどんなにつらい境遇でも決して諦めなかった。もがき苦しんでも最後には知恵を絞って何とか前に進もうとしていた。若いポッぺはそんな姿をいつも自分に照らし合わせ、なにくそと頑張ることができたのであった。


 しかし、書いても書いてもポッぺの小説が売れることはなかった。どうすればあの時読んだ物語のように、自由な発想に満ちあふれ、人の心の奥深く届く物語が書けるのだろうかとたくさんの本や童話を何冊も読んでは研究を重ねた。


 それでもやはりポッぺの書く物語はどの出版社からも取り上げられることはなく、それどころか世間の話題に上ることすらなかった。今となっては世界中の人間になんて大それたことは思ってはいない。百人でもいい、いや。十人でもよかった。認められたかった。


 ある時ポッぺはふと幼い頃読んだあの物語をもう一度読み返してみたくなった。物語の内容ははっきり覚えているのだがタイトルがどうしても思い出せなかった。街中の書店に足を運んでみるが、くまなく探してみても店員に尋ねてみてもそれらしい本を見つけることはとうとうできなかった。


 十年以上そんな生活を続けただろうか。一冊の書籍も出せず、たまってゆくのは原稿用紙の束だけだった。自分にはあの幼い頃に読んだ物語のようなものは決して書くことはできないのだと限界を感じていた。歯をくいしばった。決して非凡ではなかった自分の才能を認めざるを得なかった。


 ポッぺは筆を折った。


 まるで鉛のような挫折感に押し潰されそうになったがその時に再び立ち上がることができたのも幼い頃に読んだあの物語のおかげであったのかもしれない。主人公はどれだけ涙を流しても、自分の力に限界を感じても、生きること自体に対しては希望を決して捨てなかった。だから自分もそうしようと思った。せめて潔く筆を折り、新しい人生を歩もうと思った。


 やがて、そんなポッぺにもいつしか恋人ができ、二人の子供が生まれた。そんなわけだからますますいつまでも自分の身勝手な夢を追っているわけにはいかない。家族を幸せにするためにもっと稼ぎのいい働き口を探し、大手の旅行代理店に勤めるとそこで一所懸命に働いた。


 華もなく、肉体的にも精神的にも疲労のたまる仕事だったがポッぺは負けなかった。


 母が自分にそうしてくれたようにボッペは仕事が休みの日や夜眠りにつく前に子供たちに本を読んで聞かせてやった。いつも仕事ばかりであまり遊んでやれないせめてもの罪滅ぼしのつもりだった。


 それらの本はどれもこれも素晴らしい物語だった。時には子供たちと一緒に思わず胸を踊らせたり、涙を流すこともたびたびあった。それと同時に、やはり本という形で出版され、世に取り上げられているようなものを書ける人間というのは常人では考えつかないようなアイデアや発想を持ち合わせているのだなと改めて力の差を見せつけられている気分がした。


 そんな風に才ある人と自分の才能をついつい比べてしまうとポッぺは子供たちが寝静まった後に人知れず悔し涙を流すことさえあった。嫉妬する資格などあるはずもなかったがまだ夢に対しての未練があるのかなと少しだけ思った。



 母が死んだ。


 決して裕福ではなかったが女手ひとつで自分を育ててくれた母だった。ポッぺが本が好きだと知るとなけなしのお金でよく本を買ってくれたりした。そしてそれらを毎晩読み聞かせてくれた。


『おまえはいつかきっと素晴らしい物語を書ける作家になれるよ』


 頭を撫でながら母がよくそう言ってくれたことをポッぺは思い出した。優しい母だった。都会へ行くとわがままを言った時にも何も言わず黙って送り出してくれた。自分はそんな母の期待にとうとう答えることができなかったのだなと情けなくなって涙が溢れた。恥ずかしくはなかった。あの物語の主人公だって自分の母が死んだ時は泣いた。愛するものとの別れの場面では涙を流した。だから恥ずかしくなどはなかった。


 母の葬儀は厳かに終わった。きっと実家の自分の部屋ならば幼い頃読んだあの本があるだろうと期待していたのだが結局見つからずじまいだった。随分昔のことだし、おそらくは母が処分してしまったのかもしれない。だが、これだけ探しているのに、ここまで見つからないなんてことがあるだろうかと、ポッぺは少し不思議に思った。あの本は本当に実在したのだろうか、とも。



 ある時、友人の娘が亡くなった。出版社に勤めていた頃の同期の娘である。信号無視による交通事故だった。自らが二人の子供の父親であるためその悲しみはいかなるものであろうか痛いほどわかっているつもりではあったが、どこまで理解してあげられたのかは疑問だった。悲しみにうちひしがれる彼を一人にはできなかった。しかし一人にしてあげたくもあった。何か言葉をかけてあげたかったがかけてあげられる言葉などひとつもないような気もした。そんな綺麗事や生半可な慰みなどでは埋められないことが人生には時々起こってしまう。それはそれは理不尽なくらいに。そう、これはフィクションではない。現実なのだ。


 さすがに今回ばかりは幼い頃に読んだ物語も何の役にも立たなかった。今回ばかりはポッぺ自身の経験、想い、そして自分自身の言葉が必要だった。

 そしてそれは物語を書くことなどよりも遥かに難しいことなのだと悟った。悟らざるを得なかった。物語みたいに気のきいた言葉などひとつも出てきはしなかった。ただぎこちなく、たどたどしい。それでもそれはポッぺの肉声だった。だが、それで彼を勇気付けられたのかどうかなど決して分かりはしなかった。


 やがて、子供たちが成長して大きくなると、ポッぺには時間的余裕ができるようになった。

 また、これまで一生懸命働いたおかげで金銭的にも余裕が生まれた。

 定年した後は、妻と一緒に世界中いろんなところを旅行した。仕事ではなく旅客としてあちこちを飛び回るのは実に快適だった。それは贅沢もさせてやれず、何の文句も言わず自分を支えてくれた妻に対するせめてもの感謝の気持ちでもあった。そのついでといっては何だがポッぺはその都度いろんな書店に立ち寄ってはあの本を探した。幼い頃に読んで、ことあるごとに自分の人生の羅針盤となってくれたあの本を。


 死ぬ前にどうしてももう一度読みたかったのだがやはりどの国のどんな書店に行っても見つけることができなかった。廃版になってしまっているとしても、これだけ探して見つからないなんてことはあり得ないように思えた。これはいったいどういうことなのだろうと旅行から帰ってきたある夜、ポッペは自分の部屋で腕を組んで考えた。あれはよほど地方の小さな出版社から出た期間限定の本だったのだろうか、それとも、近くの大学生がサークルか何かで趣味で書いたものだったのだろうか。


── それならば。


 ポッぺは若かりし頃、作家になりたかったあの時の気持ちを思い出し、押し入れの奥に仕舞い込んだ埃まみれのタイプライターを取り出し、書斎に籠ると一心不乱に物語を書き始めた。もちろん幼い頃に読んだあの物語をだ。記憶の断片を繋ぎ合わせ、出来うる限りのエピソードや台詞を思い起こし、辻褄の合わない部分は自分の体験や感情をベースに接着剤程度に書き足して繋げた。本来の世界観をなるだけ壊さないようにしたかった。


 書きながら、果たしてこれは盗作ということになるのだろうか、などと、多少後ろめたさを感じもしたが、自分がもう一度読むために昔読んだ本の記憶を辿って書くことが罪になるとも思えない。しかも、これだけ探しても基になる本が見つからないのだ。今も著者が生きているかどうかなどはわからないが文句を言われることもないだろう。そもそも出版目的などではないのだ。


 なにより、



 ポッぺはもう老いていた。



 これは自分に残された最後のわがままなのだと思えばきっと神様だって許してくれるだろう。そう苦笑した。


 半年ほど書斎にこもりきりだった。幼い頃に読んだ物語をなぞっているとはいえ、これはもはやポッぺの物語だった。困った時には勇気を、苦しんだ時には救いをくれた。そして悲しい時には一緒に涙を流してくれた。そんな血肉にも似た物語なのだ。


 夜が明けるまでデスクに向かい、無精髭だらけになりながら何本も煙草を揉み消す。ポッぺはなんだか自分が二十代の頃に戻ったような感じがしてほの懐かしい気持ちになった。



── あなたは私と出会う前、そんな感じで、そんな風だったのね 。



 執筆するポッぺの姿を覗きこんで、時折、妻はそんな風に語りかけてくすりと微笑んだりした。だから、そんな時はポッぺもこう答えるのだ。



── ああ、そうさ。私はおまえと出会う前、こんな感じで、こんな風だったのさ 。


 と。


 半年ほどかけてその物語は完成した。ポッぺはソファに腰掛け自分が書いたその物語を読み返しながら満足気に頷くとまるで役目を終えたかのようにゆっくりと息を引き取った。


 消えゆく意識の中、ポッぺは瞬間的に現れては消えていく自分の姿を見ていた。


 妻と旅行で訪れた様々な場所が見える。


 初めて子供が生まれた時の自分が見える。


 妻と初めて出会った時の自分が見える。


 もの書きに挫折して涙を流している自分も見える。


 初めて都会に出てきた時のぎこちない自分が見える。


 高校に入学した時、中学に入学した時の自分が見える。


 そして幼い頃、眠る前に母に本を読んでもらっている自分の姿が見える…… 。



 これが走馬灯というやつなのかなと感じながらポッぺは全てを思い出していた。


 あの物語がいったいどこからきたものであったのかも。


「ごめんね、今月は新しい本を買ってあげる余裕がなくて…… 」


 母にそんなことを言われた時、ポッぺはいつも申し訳ない気持ちになったのを覚えていた。

 そしていつしかこう思うようになっていたのだ。


( ーー そうか、新しい本が無けりゃ自分で書いちゃえばいいんだ…… )


 母が仕事に出掛けている間にポッぺは自分で物語を創作することを覚え、いつしかそれに夢中になっていった。よくわからないところは持っている本を参考にした。それは今まで押さえつけられ受け身でしかなかった想像力の蓋が突如勢いよく開き、何色にも重なった虹が自分の中から溢れ出してくるような感じだった。


 そしていつも本を読んでもらっているお礼にと、今度は自分で作ったお話を母に聞かせることにした。空想の扉を開き、飽きられないようにあれやこれやと物語の展開を考え、迫り来る困難に立ち向かっては成長していく主人公の姿を身振り手振りを加えながら母に読んで聞かせている自分自身の姿が見えていた…


 そんなポッぺの物語を聞きながら母は嬉しそうに笑っていた。ポッぺには母が自分の頭を撫でながらこう言っている姿が見えた。


(ーー おまえはいつか素晴らしい物語を書ける作家になれるよ )


 ポッぺはようやく思い出した。


 そう。彼が幼い頃、読んだと思っていた物語。時に彼を支え、人生の方位磁針となってくれた物語。それは幼い頃、彼自身が作りだした物語であったのだと。


 あまりにバカバカしく、単純なことにポッぺは可笑しくなった。そしてそれを崇めるように追いかけ、ついにはそれ以上のものを生涯書き得なかった自分自身を笑い飛ばした。



 ポッぺの書いた物語はやがて彼の死後、ゆっくりと世界をめぐった。


 幼い頃に母に聞かせてあげたお話に、これまで彼が生きてきた思いや体験を肉付けしてようやく完成した物語。ポッぺの一生を支え、そしてまた彼が一生をかけて紡いだ物語。


 彼の妻がそれをまとめ、娘を亡くしたポッぺの友人が出版した。


 困ったのはタイトルをどうするかということだった。


 ポッぺがタイトルをつけないまま他界してしまったので皆、頭をひねらせたが結局のところ彼の妻の提案でタイトルはあえてつけないことにした。


 真っ白な表紙、そしてその右下の部分に透かし文字で作者であるポッぺの名前を小さく刻むのみにした。


 後にホワイト・ブックと呼ばれるようになったその本はゆっくりとだが確実に人々の心を捉え、ロングセラーとなっていった。

 子供たちに勇気を与え、道を示し、自分もこんな本を書いてみたいと思わせる導火線になった。


 だがその事実がポッぺ自身に届いたのかどうかは知る術もない。

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