第24話 もういくつ寝ると

私は、大晦日とお正月が好きだ。


大晦日の夜がふけ、紅白歌合戦のテレビを見ながら、除夜の鐘を聞き、年越しそばを食べる。

年が明ければ、家の近くの山に登って初日の出を拝み、朝食のお雑煮とおせち料理。

くだらないお笑い番組の漫才を見て、親戚が集まってお年玉をもらい、それをニヤニヤと数える。

寒空の中での凧揚げ、羽根つき、コマ回し。なんという、楽しいことだらけのイベントの応酬。


365日の中で、たった2日間の最高の日々。凝縮された嗜好の悦び。

こんな楽しい日々を毎日味わいたい。そう子供心に思っていた。


それから、数年、数十年の月日が流れた。

無常にも、子供心は枯れ、嫌らしい心の大人へと変わる。

それは成長ではなく退化と呼ぶにふさわしい。


社会は荒み、経済は低迷し、人の心も汚れていった。

それは、私の心もシンクロしていったように感じた。


ある年の大晦日、私は思った。

明日になれば年が明け、新年になって、何かが変わるという事はない。

そう気付いた。


10代の頃は無邪気に遊び

20代の頃は夢に向かって

30代の頃は少し大人で

40代の頃は仕事に勤しみ

50代の頃は少し落ち着き

60代の頃は健康に気をつけ

70代の頃は何かを悟り始め

80代の頃は無我の虚しさ

90代の頃はすべてが無意味


そして……ついに明日、私は100歳になろうとしている。

誰もわかってくれない社会のやるせなさを苦々しく感じる日々。

私の魂を開放し、楽しませてくれる正月はもう来ないのだろう。


もう政治には興味がなく、誰が総理になっても関心がない。

地球温暖化や少子化や紛争問題も興味がない。

どうなろうと知ったことではないし、どっちでもいい。

明日にでも核ミサイルのボタンが押されようと驚かないし恨むこともない。


安アパートで、安酒を飲み、生活保護で食いつなぎ、緑のたぬきをすすって汁を飲み干す。オムツからはみ出た糞尿の臭いをかぎながら、ゴミ屋敷のような部屋を見渡す。


そこに、虚しさは無い。怒りも無い。

私という生命が、運よく持続してしまったことへの恨みもない。


ひとつの発明によって、ほとんどの人が長寿を得ることが出来た昨今。

それが良かったのかはわからない。悪いことではないことはわかる。

でも、結局、幸せは長生きすることではないということだけはわかった気がする。


ああ……この除夜の鐘がなり終わる頃、私の人生も終わるのだと感じた。

やっと終われるのだ。この無限地獄から開放され、何も考えなくても良い瞬間が始まる。そう思うと、死ぬ瞬間こそが幸福の絶頂なのだと、思わなくも無いかもしれない。


だけどもそれはわからない。誰にもわからない。

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クソくだらねぇショートショート しょもぺ @yamadagairu

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