注文の多い幼馴染リターンズ
久環紫久
第1話注文の多い幼馴染リターンズ
夏になった。梅雨が終わって夏休みがやってきた。
暑い日が続く。毎日アイスでも食べながら扇風機に吹かれてテレビでも垂れ流していたいものだったが、高校三年生である俺たちは、受験生であるので、夏休みを返上して毎日学校へ足を運んでいた。うちの学校は進学を専攻するコースと、就職を専攻するコースがあり、俺と賢治は進学を専攻するコースであったので、一緒に受験へ向けた特別カリキュラムを受けていた。
地獄である。
様々な意味で、地獄である。地頭が良くない俺からすれば、数式はドラクエの呪文に見えるし(ルーラ!)、英文はファイナルファンタジーの呪文に見えた(ケアル、ケアルラ、ケアルガ! 誰かかけてくれ)。それに、もう一つ問題があった。創立七十年を迎えた我が校のクーラーが都合がいいほど簡単に壊れてしまったのでどこに行っても涼まないのだ(授業を担当する教師の中にはわざわざ卓上扇風機を持ってくるやつもいたが)。
そんなものだから入る身も入らず、勉強に熱が出る前に自分の頭がオーバーヒートしそうだった。というかしていた。
チャイムが鳴って、つかの間の昼休みが始まる。件の賢治はと言えばいつも楽しそうにニコニコしながら俺の隣の席に座っていた。今もそうだった。
「何がそんなに楽しいんだ?」と尋ねると、にへらと笑って。
「宮くんと恋人になれたんだもん。毎日が日曜日だよ」
とよくわからないことを言っていた。恥ずかしさで余計暑くなったが、おそらくこいつもこの暑さにやられたに違いない。
汗ばんだ額を拭いながらちらりと隣を見ると、賢治の夏のせいで無防備になった胸元が見えた。何かが見えて思わず顔をグラウンドに向けた。こいつ、ブラジャーなんかつけてやがったのか!
「……見た?」
「みみ見てねーよ!」
「青かった?」
「いや、白だろ」……まずった!!
「…………」
賢治は顔をトマトよりも赤くして俯いた。これはどうしたらいいんだ……。
「いやはや妬けますなあ」
そこに、にやにやしながら仙波がやってきた。快活そうなその容姿は学校でも人気があるやつで、女子ソフトボール部のエースとして活躍している。そんなこいつは今日はグラウンドで汗を流していたはずだったが、なんだってここにいるんだ。
「何さ何さ、私のけーちゃん奪っちゃってもー。けーちゃん、こいつに何かされたら私に言うんだよ? こいつの顔で千本ノックしてやるんだから」
くるりと木製バットを回してフォームをとった。
はっはっは。相変わらず冗談を本気で言うやつだ。命がいくつあったって足りねえ。つーか、なんでここにバットを持ってきてんだよ!
「でも、宮くんが求めてるなら僕は……」
満足げに顔を赤らめるなよ! 他の連中の顔が怖い! 数人の男たちが血涙を流しながら、歯を食いしばっているのがもっと怖い! かすかに聞こえた「俺の賢治が……」という言葉に立ち上がろうとしたところで仙波が俺の肩を抑えて席に座らせた。
「ところで、お二方。少しお耳に入れたいことがあるんだけどー」
「なんだよ。バイトはやんねえぞ、去年で懲りた」
「なははー……その節はごめんね。私もまさかあんなに大変だと思ってなかったからさー」
去年、こいつに誘われて夏休みの半分ほどをバイトに費やしたのだが(費やさざるを得なかったのだが)、そのバイトというのが仙波の実家である農園の手伝いで、朝の四時から夜の六時までほぼほぼぶっ通しで働き続けたのである。
「なんかとーちゃんがあんたのこと、私の彼氏だと勘違いしたみたいでさー」
「ちゃんと説明しとけよ!」
「ごめんってばー。でね、話なんだけど。今年は夏休みを返上して勉強漬けではありますが、なんと、四日間だけ休みがあります!」
「あー、そうなんだ」
「そうなの! でね、じゃーん! これを見たまえ!」
仙波がそう言って俺と賢治の前に見せたのはチケットだった。
「アロハハワイアンセンター?」
賢治がきょとんと首を傾げた。
「そう! とーちゃんが知り合いからもらってさ! でもうちの家族みんな興味ないみたいだし、せっかくだからあんたたちと行きたいなあって! どう?」
にやにやと仙波が顔を近づけてきた。
「けーちゃんの水着が見れるよ」
み、水着かあ……。賢治の水着かあ。
赤くなっていく俺の顔を見て、仙波が嫌らしい笑みを浮かべた。
「なになにー? もしかしてやらしい想像とかしたわけ? 青いねえ、高校生だねえ」
「お前も高校生だろうが!」
「否定はしないんだ?」
「はっ!?」
否定していなかった! 賢治の水着はきっとフリルのやつが似合うだろう。とか、そんなことを考えていたのは事実だったし、確かに、その姿を想像して顔が気恥ずかしくなったのも事実だった(それがやらしい想像かと言われれば断固としてそんなことはないと言い切るけれども)。
よくあることなはずだ。高校生で、異性に多感な年頃であるこの年齢の男たちはきっと少なからずそんなことを考えているのではないだろうか。
故に俺は先日、あんな妄想丸出しのような夢を見て跳ね起きたのである。
「どうするどうするー? 行くー? 行かないー?」
ちらりと賢治を見やった。賢治も同じように俺を見ていた。行きたいと顔に書いてあった。
「行くか。せっかくだしな」
俺がそういうと、賢治は顔を輝かせた。胸がどきりと高鳴った。
どこからどう見ても、こいつは可愛い女の子にしか見えない。たまたま男に生まれただけで、心まで可憐な乙女のようで、些細なことでも喜んでくれるらしい。今もそのようだ。
「じゃあけーちゃん、さっそくだけどジャスコに行こう!」
「な、なんで?」
「いいから!」
賢治の手をとって、仙波が嵐のように去って行った。
陽に焼けた黒い弾丸が、白い賢治を引っ張って飛んでいく。遠くのほうで、「廊下は走るな」と乾先生(物理担当のメタボ)の叫び声が聞こえた。
取り残された俺はと言えば、残っている課題に取り組んだのであった。
——◇——◇——◇——◇——
それから数日経って。あの後何があったのかを尋ねても、賢治は頑なに口を割らず、頭を撫でようと、脇腹をくすぐろうと、決して何があったのか明かさなかった。そのたびに、「後でね」とだけ言われた。
そしてその後でねが明かされるであろう今日がやってきた。
今日、八月八日は仙波が誘ってくれたプールにいく日である。
正直、目星はついている。ちょうどこの時期、我が町にあるジャスコでは”水着セール”を行っているのだ。きっと、仙波が気をつかって、賢治に新しい水着をあてがったのだろう。だから、ジャスコ。故に、ジャスコ。きっとそうだ。
朝が来て、あまり寝付けずにいた俺がリビングに降りていくと、もう賢治は起きていて、鞄に何かを詰めていた。白いワンピースが良く似合っていた。
「おはよう」
声をかけると、がばりと身を挺してその鞄を隠した。わたわたとしてあいさつを返しながら一生懸命に背の向こうで、何かをしている。
なるほど、そこまで隠したいか。なら見ないでおくのがいいだろう。とっとと俺は踵を返し、キッチンの方に向かった。
「昨日は眠れたか?」
冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、喉を潤す。
俺は眠れなかった。クーラーの動きも悪かったので暑くて寝苦しかった(今日のことを考えると眠れなかったとは言わない)。
「なんか、俺の部屋のクーラー壊れたみたいでさー、親父に後で言わないと」
「そ、そうなんだ、大変だね!」
「お前んとこは大丈夫か?」
「な、なにが?」
「クーラー」
「ああ、大丈夫! ちゃんと動いてるよ!」
ならいいか、とオレンジジュースを冷蔵庫に戻した。
時計を見るとまだ朝の六時で、仙波に言われた集合時間まであと三時間はある。
なんとなしにテレビの電源をつけた。日曜の朝らしく、子供向けのアニメ番組がやっていた。それをBGMにしてソファに腰かけた。首を背もたれにもたれさせて天井を眺める。今なら眠れそうだ。うとうととしてきて、目を閉じた。
遠くの方から宮くんと声を掛けられたが、うん、と適当に答えたところで意識が遠のいていった。
——◇——◇——◇——◇——
起きるとブランケットがかけられていて、隣で賢治が寝息を立てていた。その前にはニコニコとした親父と母さんがこちらを眺めてコーヒーを飲んでいた。
「起きたか」
「起きたけど」
何見てんだよ……。
「こうしてみると、まるで兄妹みたいだよなあ。恋人にも見える」
親父がそう言ってコーヒーをすすった。ぎくりとして冷や汗が背中に垂れた。
「こうやって、家族になれたのはうれしいことだな。娘が一人増えたみたいで、幸せが増えた」
「そういや、おじさんとおばさんは? 家にいることはわかってんだろ? 怒ってねえの?」
「そうだなあ。まあ、それは今度話すよ」
「……怒ってんのか」親父は首を横に振った。
「そうじゃないよ。それは父さんから言うことじゃないってことだ。母さんからでもない。それはいつかけーちゃんが言うことだ。正直なところ、俺たちもわかってないんだ。父さんからお前に言えるのは、けーちゃんを大事にしなさい、ということだけだ」
「母さんも右に同じ。左か。ふふふ」
のんきな二人だ。
「今日はデートなんだろう?」
「は?」
「そうじゃないのか? お前が部屋に戻ってからもけーちゃん、一生懸命今日の弁当の仕込みしてたんだぞ。少しつまもうとしたら怒られてしまった」
隣ですやすや寝ている賢治を見る。こないだ俺が言った注文を聞いてくれているようだ。
「外は暑いからな、熱中症には気をつけろよ」
「一応、ポカリ買っといたから持っていきなね」
親父たちはそこまで言うとしたり顔で、「父さんたちも久々にデートでもしようか」と言いながらリビングから出ていった。どうやら映画を見に行くらしい。
時計を見ると、もう八時を過ぎていた。
……やばい。
「おい、賢治起きろ!」
賢治を揺さぶって起こす。ぐわんぐわんと頭が揺れたが賢治は起きる気配がない。あと少しと言ってブランケットをむしり取られた。
「もう時間だ! やべえぞ、遅れたら仙波に千本ノックされちまうぞ!」
仙波の憎たらしい笑顔が脳裏に浮かんだ。まだまだぁ! と声を張り上げてぎろりとこちらを見るアイツの顔はまさに鬼でしかない。
びくりと跳ね起きた賢治が、決意を込めた眼差しで俺を見ると、「準備!」とだけ言った。俺も頷いて即座に行動を開始した。
二人で洗面台に向かって寸分狂わず歯ブラシを手に取って歯磨き粉を着ける。すっと口に放り込んでしゃかしゃかと磨いた。俺が先にコップに水を注ぐ。その後に賢治がコップに水を注いでお互いにうがいをして歯ブラシとコップを元あった場所においた。
それからリビングに戻り、荷物を持って、玄関へ向かう。靴を履きながら、賢治が俺に声をかけた。
「ハンカチは?」
「持った」
「ティッシュは?」
「持ってる」
「お財布は?」
「ある」
「お弁当は僕が持ってるからいいとして、あとはー」
「いいから行くぞ!」
「ひええええ!!!」
賢治の手を掴んで家を後にした。
「いってらっしゃーい」と親父たちの声が聞こえた。
「いってきまーす!」と賢治が手を振りながら俺に引きずられていた。
——◇——◇——◇——◇——
アロハハワイアンセンターにつくと、腕組みをした仙波が待ち構えていた。タンクトップにショートパンツの出で立ちで如何にも夏らしい。
「五分前、セーフだね! うんうん!」
肩で息をしている俺と賢治と対照的に、仙波は意気揚々と「じゃあ行こうかー!」とチケットを三枚ひらひらさせながら入場口に歩いていく。さくさくと入場出来た俺たちは、更衣室で別れて、また入り口で落ち合うことにした。
男の俺の着替えなんてあっという間で、全部脱いで一枚着ればいいだけなのであっという間に終わった。手ぶらでぷらぷらと外に出る。
出ればそこにはもう結構な人数の水着を着た人たちがいて(プールだから当たり前だ)、所狭しと泳ぎ遊んでいた。揺れていたし、揺れていた。
ぼーっと見ていると、頭をハリセンで叩かれた(何で持ってんだよ)。痛え。振り向くと、肩にハリセンを担いだ仙波と困った顔をした賢治がいた。
……開いた口がふさがらなかった。賢治がひた隠していた水着は思っていた以上に可愛かった。賢治が可愛いから、そりゃ何を着たって可愛いけれど、とにかく可愛かった。薄い水色をしたビキニというやつで、でもスカートのようにもなっていた。そして、仙波は着やせをするタイプだったらしい。
餌を待つ鯉のように口をあけていたら、仙波が「何か言え」と凄んできた。
「可愛い、です」
「もっとなんかないわけ? 他の女たちに現を抜かしてたみたいだけど」
「そうなの?」
いや違う、そうじゃない。そうだけれど、そうじゃない。現は抜かしていない!
首を横に目いっぱいに振って、もう一度賢治達を見る。
「可愛い」
思わず声に漏れていた。
「まったく、どうしてもっと言葉巧みに褒められないものかねえ。さて、じゃあ遊ぼっか! 目いっぱい遊ぼう!」
仙波の掛け声で俺たちはプールに駆けだした。
「そこの両手に華の三人組のお客様方、危険ですので走らないでくださーい!」
そんでもって注意された。恥ずかしかった。ごめんなさい。
——◇——◇——◇——◇——
夕暮れになって、遊び疲れた俺たちはそろそろ帰ることになった。
「いやあ、遊んだ遊んだ。目いっぱい遊んだねー」
仙波が背伸びをして、息を漏らす。
「送って帰ろうか?」
「ううん、大丈夫! それに、もし家まで送られたら、とーちゃんにどやされるよ?」
ぞっとした。
「じゃあ、気を付けて帰ってください」
「そうします」へへへ、と仙波が笑った。
仙波が賢治に駆け寄って、耳打ちをした。それから、「じゃね!」と手を挙げて、走って行ってしまった。本当に、あいつを表現するのには嵐のような、というのが良く似合うと思う。仙波の背中が小さくなっていって、ついには見えなくなったころ、俺たちも帰ろうかと賢治に声をかけた。
賢治は小さく頷いた。夕日に照らされた横顔が綺麗だった。
オレンジ色に歩道を染める夕日を背に俺たちは歩いた。朝は時間がなくてバッファローのように走っていたけれど(テレビで一度見たくらいだけれどあれは圧巻だった)、帰りはゆっくりと、歩幅を合わせて歩いた。
賢治が作ってくれた弁当は相変わらず——というより以前にも増して美味しかった(あまりの豪華さにギャラリーが少しできていたくらい立派でもあった)。
隣を歩く賢治は満足げで、幸せそうだった。
二人で歩いて、信号待ちをしているときに、賢治が「宮くん」と俺を呼んで体ごとこちらを向いた。
「なんだ?」
「あのね」
「おう」
「あの、ね」なんだ?
「僕、今日は楽しかった」
「俺も楽しかった。仙波に感謝だな」
「うん、そうだね」
……。
「水着似合ってたぜ」
「ホント? 良かった」
にへらと賢治が笑った。こっちも嬉しくなる。
「あのね、宮くん」
「どうした?」
信号が青になった。青になったけれど、賢治はこちらを向いて、まだ動かない。
「信号、青になったぜ?」
「うん、そうなんだけど」
「どうした? 腹冷えたか?」
「そうじゃない!」じゃあなんだ。
「あのね。その、プレゼントがあります!」
目をつむってぐっと拳を握っている。
プレゼント?
「これ、えっと、これ!」
鞄から差し出されたのはラッピングがなされた小さな箱だった。
「そんなに大したものじゃないけど、一生懸命選んだんだ!」
賢治は不安そうに下を向いている。俺たちを吹き抜けた風が賢治の綺麗な黒髪をさらりと横にないだ。それが仮面のようになって、その表情はなおのこと見えなくなった。
「今開けて」
賢治がそう言った。
信号が点滅を始めて、赤になった。
丁寧に施されたリボンをしゅるしゅると取って、青い包装紙をはがす。四角い小箱の中にあったのは腕時計だった。もうすでにカチカチと時を刻んでいるその腕時計は、シンプルで、丸時計に革のリストバンドがなされていた。
「嬉しい?」賢治が下を向いたまま尋ねてきた。
「嬉しいよ、ありがとう」
「本当に嬉しい?」
「本当に嬉しいよ。まさか、急にこういうのもらえると思わなかったからちょっとびっくりしてる」
「驚いた?」
「驚いた」
「ドキドキした?」
「ドキドキした。嬉しかった」
ようやく賢治が顔を上げた。にへらとして、俺を見た。
「お誕生日おめでとう、宮くん」
その笑顔が、やっぱり俺は好きで、こいつが男とか、そんなのどうでもよくて。
夏風が日に焼けた肌を心地よく冷やしてくれたころ、にへらと笑った賢治が背伸びして俺の頬にそっとキスをした。
危うく腕時計を落としそうになった俺を楽しそうに見て、賢治は青信号になった横断歩道をとててと効果音が出るように走って行った。
しばらくそこでぼうっとしていた俺の名を呼んで、
「注文です、その腕時計をこれから毎日大切に使ってください!」
と、言って。点滅を始めた信号に急かされるように、俺のことを急かしてきた。
その小さな背中を追いかけて横断歩道を走る。言われなくたって大切にするっつーの。
転びそうになった賢治を抱きかかえて、横断歩道を渡り切る。抱きかかえた賢治からプールの匂いがした。
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