終章 僕と名前のこと
終章 僕と名前のこと
外の風が冷たくなってきたので、戸を閉めようと時生が窓枠に手をかけた時のことだった。
黙々と瓶の中の夜光魚を観察していた春日井が、唐突に口を開いた。
「時生。常々思うのだが、君はいい名前をもらったものだね」
何を突然、と時生は思ったが、春日井は気にせずに話を続ける。
時を生きる。これから、きっとわたしにとっても君にとっても、苦難に満ちた時代がやってくると思う。もう既に時代はそのように動いてしまったのだからしょうがない。それを今から修正するのは難しいことだ。そんな中でも、どうか強く生きて欲しい。たとえ今のような暮らしができなくなったとしても。
そのような旨のことを言われたので、時生はどう返答しようかとしばらく考えた。そして、戸を閉めながら今思いついたことを口にした。
「先生はカスガイだから、大丈夫ですよ」
春日井、音だけ見れば『
「だから、何があっても、離れ離れになることだけはありません。先生は、僕と姉様を繋ぎとめることができる。カスガイ、いい名前です」
そして、時生は座ったままの春日井の横にちょこんと座る。彼らの目の前で瓶に入った二匹の夜光魚はくるりと宙返りする。まるで踊っているかのようだ。二匹が舞うたびに鱗が擦れ合い、同時に淡い群青の光が宿る。この頃、夜光魚は頻繁に身体を擦り合わせている。一日に何度もお目にかかれるものだから、最近ほんの少し感動が薄れてきた。慣れとは恐ろしいものである。
「もしかしたら、先生も僕も、この夜光魚のようなものだったのかもしれませんね」
お互いが触れ合うことが怖くて、光ることを恐れていて。だから一緒にいても光ることがなかった。それでも今は互いに触れ合うことができる。痛みが伴おうとも、その痛みの価値が分かるからこそ輝ける。青い光を纏いながら、繋がっていることができる。
ね? と時生は春日井に同意を求めるべく顔を上げた。
が、しかし。
「――っ」
それ以降の言葉は、出なかった。
顔を上げた刹那、春日井の口唇と時生のそれがぶつかり合い、言葉そのものを持っていかれてしまったからだ。触れるだけの軽いものだが、時生にとっては精神的な意味で相当の威力があった。
口唇が音を立てて離れると、放心状態の時生をよそに春日井はいつもの飄々とした顔で、
「残念」
そしてにやりと意地悪く笑うのだ。
「青く光るかと思ったのに」
まるであの瓶の中で仲睦まじく泳ぐ夜光魚のように。
今年も特別な季節がやってきた。
そして、この季節はもうじき終わりがやってくる。
青い光に包まれて、そうして彼らはつながってゆく。
了
夜光魚 The noctiluca fish. 依田一馬 @night_flight
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