14×恋する狼と夢みる羊飼い

 全ては終わった。

 終わりがあるということは、つまり、始まりがあるということだ。夜明けがある。どんなに辛い夜もいつかは明けてしまう。それは、本当にいいことなのか。俺は辛いことよりも、辛いことを忘れてしまうことの方が怖い。

 日にちをまたげば、人の心は摩耗する。

 記憶が薄れる。

 その一時の感情はなくなってしまう。

 それは、自分が自分でなくなるということだ。

 勉強をしていると本当に思う。勉強したことの五割は、翌日になれば忘却の闇へと消えてしまう。そんな時、どうするか? ただ机に向かっているだけじゃだめだ。例えば、単語の勉強をしている時だけ、部屋の角に座って黙々と口に出すとか、そういうので覚える。特殊なことをするとそれだけで人間の記憶に残りやすい。

 同じことをしているだけでは、人は忘れてしまうのだ。

 だから、記憶するには違うことをしなければならない。

 俺は音楽が好きだ。

 音楽を聴いていると、情景が心の中に浮かぶ。あの時はまっていた曲だった。あの時流行っていた曲だった。そんな風に思い出すことができる。音楽は物語のようなものでもある。調べれば調べるほど奥が深い。作曲者が当時耳が悪かったからその絶望を表現するような局長にしたとか、作詞家が当時女にふられたからその時の心情を描いたとか。そういうバックグラウンドがあったりする。

 それを知ると親近感が湧くのだ。

 どんなに天才的な人でも俺なんかが共感できる隙間があるんだなって思える。そういうエピソードをブログなんかに書いているってことは、やっぱり共感して欲しいって願望がその人にもあるのかなって思える。

 もしかしたら、それは全部嘘、フィクション、作り話。声優やアイドルが私は彼氏いませんよといいながら、裏ではしっかり交際して騙しているのはファンのため、お金のためとかそういう感じで、頑張ってフィクションを作っているのかもしれない。ゴーストライターみたいに、ブログも自分で書いているのではないかもしれない。

 だけど。

 もしも、そうじゃなかったとしたら?

 もしも、誰かに知って欲しいがためにそういうエピソードを書いているのだとしたら、俺と同じだ。音楽は自己表現ができる。だから楽しいんだ。歌を歌うだけで、自分の中の何かが出るような気がする。楽器を演奏するだけで自分が今、どんな気持ちなのかを再確認できることができる。

 そんなの、音楽以外にあるか?

 俺は、狩野のことが苦手だ。

 だけど、こいつだって音楽に携わっている。

 だったらきっと、俺と同じ気持ちが少しはあるのかもしれない。

「なあ、これってどういうことなんだ……」

 俺は狩野に質問する。

 バンドを組むことになって、それからどんな音楽をやるかを知って。俺は最初に疑問におもったことがあった。それは、俺達が演奏することになった音楽の、そのタイトル。おかしかったのだ。

「ああ、童話のあれを意識したやつだよ。少し子どもっぽいかな?」

「いや、別に……」

 タイトルに童話の名前と思しきものがあった。別にプロの歌手だってこういうタイトルの音楽を歌うことだってある。珍しくもあるが、そんなに気に留めるほどでもない。だけど、気になったのは、嘘つきな羊飼いってところか。

 羊飼いは狼がいるぞって周りの人に嘘をついてしまったせいで、本物の狼が襲い掛かった時に喰われてしまうという話だ。教訓的に、嘘をついてはいけません。もしも嘘をついてしまったら、誰にも信用されなくなりますよ。そういった意味合いがあるのだと思う。

 だけど、だけど。

 嘘をつかなければならないような状況だったらどうなんだろうか。

 確かに、嘘をつくことは悪いことなのかもしれない。

 不幸にしてしまうのかもしれない。

 だけど、俺は最初から不幸だったよ。

 周りに嘘をついて、自分に嘘をついて、演技をしなければその輪に入ることはできなかった。いいや、最初から入っていなかったのかもしれないけれど、俺は幸せじゃなかった。幸福感を知らずに育った。

 幸せを知らずに悪事をはたらくものと、幸せを知って悪事をはたらくもの。

 それらは平等に罰せられるけど、それは本当に正しいのかな?

 俺は間違っていると思う。

 だって、お金に困ったことがない奴が、万引きなんてするか?

 常にモテ続けている人間がストーカーなんてするか?

 人は生まれながらにしてある程度の人生を決定づけられている。

 それは、明白なはずだ。

 人間は知っているものからしか、選択ができない。

 だからこそ、嘘をつくそのものが罪となるのは、罰せられることは、そんなにも正しいことなのかと問いたい。

 何の疑問もなく人が死んで当たり前だと、そんなことを平気で口にする人間はきっと幸せなのだろう。生まれてこの方、嘘をつかずにすむような、幸福な人生しか送れていないのだろう。きっと、満たされた人生だったんだろう。

 分かる、分かるよ。

 でも、そういう奴は消え失せて欲しい。

 不幸な人間の気持ちが分からないのなら、幸せな人間ならば一生俺の視界から消えて欲しい。

 降伏な奴は――世間一般は、まるで羊飼いだけが悪いという考えのようだけど、だけど、もしも、もしも、周りの連中がどうして羊飼いが嘘をつくのか考えなかったのかとか。どうして最後まで信じきることができなかったとか、色々な考えがあるのだと思うのだ。

 だって、他の連中が最後の最後まで羊飼いを信じることさえできていれば、何の犠牲もなかったのだ。最後の最後に嘘を本当にしてしまった羊飼いを誰も救わなかった。それだけは厳然たる事実。誰にも覆せない。

 どうして嘘をついた人間だけが悪で。

 何も行動しなかった周りの連中が善なのか。

 俺には分からなかった。

 もしも。

 そこに悪党がいるならば、正義という盲目的な義務感に支配されない悪党がその場にいたのならば、きっと、助けただろう。助けることができただろう。羊飼いを救うことができたのだ。命を救うことができたはずなんだ。

 そんなことをいっても、きっとえっ、何言ってんのと、条件反射的に拒絶されるだろう。疑問を挟み込む余地などないと。自分こそが正しく正義だと。そう思うことはしかたない。生まれや環境が俺とは違うのだから。幸せなのだから。きっと、一生分かりあうことはできないのだ。分かりあうことができないって言うことを、分かりあえない。あちらさんは、自分の意見が正しいと俺が認めるまでいくらでも反論してくる。俺を支配しようとしてくる。それは俺も経験済みだ。

 きっと、怖いのだろう。

 幸せだったから。

 何の不自由なく生きてこれたのだから。

 異分子が怖いのだ。

 不幸になることが怖いのだ。

 俺は不幸だったから他人が違う意見を持っていても、ただ怖いだけですむ。自分の考えに染めてやろうとまでは思わない。

 理解されないことしか俺は経験していないのだから。

 たとえば。

 漫画やラノベの実写化をすると、ファンの人は激昂することが多い。有名な俳優で固めておけば一般層へのアピールになるとか、どれだけ売れても作者に渡すのは契約金だけで映画の製作者が興行収入を払わなくていいからぼろもうけだとか。原作を考える手間暇がなくなるとか。企画を出す時に通しやすいとか、そういう大人の思惑が見え隠れするから怒るっていうのもあるだろうが、それ以上に、原作と乖離してしまうからだろう。

 自分のイメージと全く違う俳優を見せられたりとか、もう少しどうにかできなかったのかと思うようなコスプレを見せられて、怒ってしまう。尺の都合上、短縮したり、物語の順番を変えたりしないといけなかったり、キャラを変えたりとか、そういう改変があるたびに、イライラしてしまう。

 それは分かる。

 辛い。

 でも、ただそれだけだ。

 漫画やラノベのアニメ化はどうだろう?

 みんな、嬉しがっている。

 どうして、だろう。

 俺は嬉しくない。

 むしろ、なんでアニメ化してしまったんだろうって悲嘆しかない。だって、そうだろう? アニメ化なんて、実写化と同じで原作を改変することしか考えられないのだから。俺の大好きなものが凌辱されるが目に見えている。変わってしまう。変えられてしまう。外国の小説が日本語訳を誰がするかによって全然意味が違うというか、全く逆の意味になっつぃまうのは分かるかもしれないけれど、それでもアニメ化なんて俺からすれば地雷でしかないのだ。

 アニメ化することによって俺の物じゃなくなった。俺の手から離れてしまった。まるで地下アイドルから応援していたアイドルが地上波に出てしまうことによって、独占欲をこじらせて憎しみに変わってしまったとか、そういうことじゃない。

 全く同じことなのだ。

 俺にとって実写化とアニメ化は同義。

 アニメ化したら尺の都合によって原作がばっさばっさと削られてしまう。それはいい。それはしかたない。媒体が違うのだからしかたない。同じような声優を使われてしまうのは、大人の事情なのかな? どう考えても原作と声合っていないけど、そこはお金をもらっているのかな? とか、アニメオリジナルキャラが登場するけど、なにがしたいのかな? とかそういうことはある。

 別に、オリジナル要素をいれるなとは思わない。

 アニメがオリジナル過ぎて原作とはかけはなれてしまったけれど、人気がでまくってしまって、原作のことを知らない。アニメがオリジナルだと信じてしまっているなんてあることだ。ドラマや映画でも同じような現象を見たことがある。どいつもこいつも原作を知らないで作品を語ることが多い。

 だけど、よくなればそれでいいのだ。

 たとえ、多少悪くても、アニメ化したことによってみんなから認知される。

 独りぼっちで作品を堪能するのだっていいことだが、やっぱりみんなから認められることは嬉しい。

 だけど、原作と真逆の解釈をする人がいる。

 最低の改変を平然とする監督がいる。

 ラノベで何度か経験したことがあるが、原作を全く読んでいないように感じるアニメがあった。コミカライズされた作品でしかない描写やキャラをそのままアニメに出している作品を何度か見たことがある? 血の気が引いた覚えがある。こいつ、本当に原作読んだことがあるのか? と。当然原作信者はブチ切れし、監督も逆ギレし、ああ、はいはい、原作読んだことなんてありませんよ、と言った人だっている。

 原作と同じものをアニメ化して意味があるのか? と平然と公言して改悪する監督だっている。

 そういうことを、みんな知らない。

 知らずに、この『アニメ』つまらないじゃなく、この『作品』つまらないと言ってしまう。

 原作とは全く違うものとなっているのに、無責任に言いふらす。きっと、アニメは地上波で無料で視聴できるから、軽口が出てしまうのだろう。お金を出していれば、少しは口が重くなるはずだ。匿名じゃなければ、発言する前にもっと気を付けるはずだ。

 だけど、そうはならない。

 いつだって、実写化は悪で、アニメ化は正義。

 その考えは覆ることはない。

 俺はそこで真理にたどり着いた。

 本当に辛いことは、辛さを理解されないこと。共感されないことだ。

 どれだけ辛いことだって、他人から賛同されればそれだけで軽減される。味方さえいれば、苦しみは消え去る。明日に向かって歩いて行ける。光を探すことができる。

 でも、味方のいない世界に希望なんてない。

 理解者のいないこの世界に意味なんてない。

 だから。

 孤独であることは、この世の不幸そのものなんだ。

 そして、俺は独りになった。

 誰にも相手をされなかった。

 誰にも愛されることはなかった。

 だが、不幸であることを誇りに思おう。

 それが、ただの負け惜しみだったとしても。

 それでも、そうしないと生きていけないのだから。

 だから、俺は不幸でよかったと思いこもう。

 誰かを貶めてまで得た幸せは幸せなんかじゃないって決めつけよう。

 俺にとって不幸であることこそが、幸せなのだ。

 そして、今日、俺はライヴ会場へと行く。

 途中でにわとりのとさかみたいな髪型をしたやべーやつとすれ違う。かなりパンクな客もいるようで緊張したが、ここにくるまでに練習をしたのだ。

 ボーカルがマイクをとって、今日一番最初に歌う曲名を告げる。


「『恋する狼と夢みる羊飼い』」


 それが、俺にとって始まりの曲だった。

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人間関係の不協和音は脳内に鳴り響く 魔桜 @maou

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