13×不幸であり続ける幸せ

 浮き足立っているのは自覚している。痛い目に合ったばかりで何故そんなにうきうきになるかっていえば、相手が他ならぬアリサだったからに違いない。気分が明るいせいか、天気まで明るい気がする。天が俺のことを祝福しているような気がする。

 ここから先はいいことづくめ気がする。

 だって、最近、悪いことが起きたのだ。俺はもう最悪の最底辺まで経験した。人生の奈落まで落ちたのだ。

 だったらどうだ?

 次に来るのは上昇しかない。上がり調子だ。悪いことが起きた後は必然的にいいことしか起きないのだ。ああ、そう考えると本当に天にも昇る思いだ。このまま昇天しそうだ。もうここで終わってもいいぐらい。時間が止まってしまえばいい。相対性理論ってなんだったけ? もうそんなことを忘却してしまぐらいには浮かれている。

 ただ呼ばれただけだ。

 だけど、そのお呼ばされたのが重要なのだ。自発的ではなく受動態。受け身。こっちが何もせずとも、何のアクションをとらずともあちらから俺を誘ってくれたのだ。他でもない俺をだ。

 ああ、最近嫌な奴から呼び出されることばかりだった。気分が悪くなりっぱなしだった。だけど、今回は違う。今回ばかりは楽しい気分だ。アリサはあの連中とは違う。しっかりとした理由で俺のことを呼び出してくれたに違いない。

 女子。

 女子から呼び出されたのだ。

 遊びに誘われるなんて、俺からすれば青天の霹靂。嫌な想いでしかない。サンドバックにされたことしかない。だから、俺にとって遊びは楽しくないこと――なのに、楽しい。ああ、この一瞬が永遠に続けばいいのに。

 しかも、しかもだ。呼び出された場所と言えば、ゆっくりと話ができる場所ということで、なんと、アリサの部屋なのだ。

 いや、それはいいと言ったのだが。俺はどうやら信用されているらしい。それでも大丈夫だと言ってくれたのだ。これって逆に男として見られていないんじゃないかって勘ぐってしまうが、逆か? これは逆なのか? もしかしてそういことなのか? 今日はそういう日なのか? 男が男になる日なのか? それとも、男が狼になる日なのか? だがだが、あくまでも俺は紳士。そんな風に牙を剥き出しになんてしない。能ある鷹は爪を隠すように、俺だって牙を隠す。能ある俺は煩悩も本能も隠す。

 邪な想いが完全にないとは言い切れない。だって、そうだろう。いくら彼氏彼女ではないとはいえ、家にお呼ばれしたのだ。しかも二人きりで。これで何もないと思いこめるほど俺は純粋ではない。あちらだってもしかしたら期待しているのかもしれない。こっちが何もやらなかったらそれこそ失礼に当たるかもしれない。

 うぐっ。

 ここまで考えるとまたもやあいつのトラウマが蘇ってきた。また俺は騙されているんじゃないかって思ってきた。

 だが、違う。違うはずだ。

 アリサは本当に最近の子とは思えないほどに純粋だった。純朴だった。だからこそ、信じたい。俺の見る目がなくとも、運が悪くとも、それでもアリサがいい奴だってことは分かる。

 あんなことがあったからこそ人間不信になっているこの俺が、それでも認めている相手なのだ。接していて辛いと思わない人間なのだ。だとしたら、だとしたら本当にいい奴なのでは? 裏切らないのでは?

 でも、だからといって、どうする?

 もう既に俺達は自宅。

 女子の、アリサの家にいた。なんかいい香りするのは芳香剤か何かのせいなのか? いや、違う気がする。そういう次元じゃない。こんな匂い嗅いだことがない。そうか、これが女子の匂いか。

 そわそわする。まるで男子中学生のようなテンションだ。高揚を諭されたくない。俺はあくまでも、先輩なのだ。いかにもな態度をとる必要がある。

 俺は百戦錬磨。

 学校の偏差値だけでなく、恋愛偏差値においても上をキープできるってことを後輩に見せてやらなければならない。見せつけてやらなければならない。

「どうしたんだ?」

 優しい声色で、話しやすい空気を作ってやる。あくまで頼りになる先輩を演じてみる。俺の方が年上なのだ。散々女に振り回されたこともあってか、年下であるアリサと一緒にいると少しばかり余裕が出てくる。ボロがでそうだという不安はあるが、それでも何とかなりそうな気がしている。アリサだったら俺のかっこ悪い部分が露呈しても笑って許してくれそうだ。

 でも、その優しさにただ甘えるだけは嫌だ。

 だから。

 ちょっと無理する。

 誰かと歩幅を合わせる。

 そんなの大嫌いなはずなのに。

 それなのに、なんだか楽しく思える。

 どんなマイナスだってアリサといると全てが反転する。

 俺は普段から文句が多い気がする。なにかしら文句を述べて他人との関わりを断とうとする癖がある。それでもいいと思っていた。俺は俺なんだ。俺が正しいと思っていた。でも、どうしてだろう。どうしたことだろう。アリサがいるとそれら全てが言い訳のように思える。誰かと関わりあいたくないのは、自分が傷つきたくないだけなのかもしれないと思える。

 そんな風に俺が素直に思えるのは、アリサと一緒にいる時だけ。

 つまり、やっぱりアリサは特別なのだ。

 本当に俺にとってアリサは特別で、恋愛対象なんだろう。

 好きとか嫌いとか、そんなことを語るのは青臭い。

 そんなことをいちいち言うほどの年齢なんかじゃない。

 でも、そうなのだ。

 俺はもう、取り返しがつかないぐらいにアリサが好きなのだ。

 ああ、そういうことか。

 俺は、本当に誰かに恋できているんだな。

 あんなことがあったのに。

 昨日だってたくさん辛いことがあったのに。

 こんなにも幸せを感じるぐらいには、恋をしているのだ。

「実は……ちょっと相談したいことがあって……」

「ああ。いいよ」

「私、気になる人がいるんです」

「えっ……」

 分かってしまった。

 俺は、アリサが何を言おうとしているのか。もじもじしていて可愛らしいアリサの真意に、俺は気がついてしまったのだ。これが、年の功か。積み重ねてきたものがあるから、すぐに分かってしまうのだ。

 アリサガ誰に何を告白しようとしてるのか分かってしまった。ここで、もう一度聞き直すような鈍感男に俺はなれない。そこまで異性を傷つけるようなことなどできない。

 よく、物語であるのは、ここですっとぼけることだ。

 え? なに、なんのこと? 誰のことを言っているのかなー? と頭を傾げること。それが正しいことだと俺も思っていた。だけど、違うのだ。俺はもう大学生。ほとんど大人になったのだ。そんな子どもだましなんてやってはいけない。相手は年下なのだ。それから先を言わせてはだめだ。ただ聞いているだけなんて野暮ってものだ。察してやらなければならない。

 俺は好きだって。

 ちゃんと気持ちに応えられると。

 失恋で欠損してしまった心をどうやって補完するのか? その一番手っ取り早い方法といえば、新しい恋を始めることだ。

 俺は、そう恋をしている。

 あいつのことなんて忘れてしまえばいい。

 忘れがたいと思っても、いつかは思い出は風化していくものだから。

 だから俺は辛くない。

 苦しくない。

 一歩を踏み出すのだ。

「アリサ、俺は――」

 たとえ、その先が地獄だとしても。

 俺は――


「この前話していた年下の男の子のことなんですけど」


 ビシッ、と視界がガラスのように割れた気がする。ぐわん、と頭がシェイクされたかのように気絶しそうになる。

「だ、大丈夫ですか? 先輩」

「いや、大丈夫。ちょっと昨日徹夜しててな。そのせいかな?」

「あんまり無理しないでください」

 無理しなきゃだめなんだよ、アリサ。

 分かってしまった。

 恋している乙女の瞳をしている。

 アリサは、この前話していた受験生のことが好きなんだろう。

 当たり前か。

 俺なんかがアリサに釣りあう訳がないのだ。

 俺は、俺はなんて勘違いをしていたんだろう。どうして俺はのこのここんなところに来たんだ? アリサが俺に脈がないなんて分かりきっていただろう。俺なんかじゃアリサにふさわしくないって。アリサにはもっといい奴がいるってそう思っていたはずだ。

 なんで都合よくあっちが俺に気があるみたいなことを思ってしまったんだ?

 俺にとってもうアリサしかいなかった。

 他には誰もいない。

 友達を失ってしまったのだから。

 大学とかプライベートで安らかに話せるのはアリサしかいなかった。

 でも、また失ってしまうのか。

 俺はまだ笑顔でいられるのは、立ち直れたのは、まだ俺には気持ちがあったから。

 誰かを恋するって気持ちがあったからだ。

 だけど、今、急激にしぼんでいく。

 心が折れてしまいそうだ。

 俺にとってオンリーワンでも、アリサにとって俺は有象無象でしかない。どうでもいい存在なんだ。だって、そうだろう? 何を相談するか分からないが、きっと恋愛相談であることには間違いない。

 俺はふられた。

 完膚なきまでに。

 告白する前からふられた。

 なんだろう、これ。

 あいつの時とはまた別ベクトルの痛み。人間は慣れる生き物。同じショックならば、耐えることだってできる。経験しているからこそ、ダメージを軽減できる。だけど、違う痛みには、未体験の傷みには耐えることはできない。

 心が上昇気流になっていたからこそ、この高低差がキツイ。人間が一気に深海へ潜ると潰れてしまうように、俺の心もひしゃげていた。

 今すぐ逃げ出してしまいたい。

 いや、それすらできなくて。

 ここで泣きたい。

 吐きながら、心情を吐露したい。

 好きだったのに、と恨み言をいうように呟けたら、どれだけ楽だろう。

 でも、そんなことできるわけもない。

 無理をしなくちゃだめなんだ。

 心配かけてどうする? 今、悩んでいるのはアリサなんだ。これ以上彼女の顔を曇らせたくないなんてない。どうしてか? だって、好きだから。本当に好きだから。今になって分かる。傷ついて、もう手に届かなくなってしまった存在だからこそ気がついた。

 俺は心の底からアリサのことが好きなんだ。

「無理なんてしないさ。それより、速く話の続きをしてくれ」

 はやく止めを刺して欲しい。

 こうなったらもう受け止めるしかない。

 受け止めたうえで、俺は選択しなければならない。

 本当に相談を聴くのか。それとも相談を聴いている振りをして、もっと別のことを画策するべきか否か。

 どうする?

 こうしてアリサが俺に相談してきたのは僥倖以外のなにものでもない。俺は裁定できる。選択できる。どうやって転がしてやろうか。俺は相手の感情を読み取り、操ることができる自信はある。相手がチンパンジーのように脳みそスカスカ人間の話を聴きとれないような奴ならば話は別だが、相手が人間ならば話は別だ。

 アリサは思慮深いが、人間不信というわけではない。

 俺の意見もしっかりと聴いたうえで、行動するタイプ。

 アリサは俺にこれからどうするべきかを委ねている。

 生殺与奪を与えられているようなもの。

 俺の一言でアリサのこれからを操れる。

 だったら、どうするべきか分かっているはずだ。

 恋はまぼろしでまやかしなんだと伝えるべきだ。

 相手は高校生。

 男女逆転していたら問題になっていただろう。犯罪になっていただろう。だが、逆転していなかったとしても、かなりのハードル。年齢差というのは恋愛漫画だとかでは鉄板。ロミジュリのような『身分差テーマ』並みにありふれたテーマだ。どうして二次元の作品でそれだけ取り上げられるかというと、ありえないからだ。

 大衆はありえないものに恋焦がれるもの。

 ニュースでは犯罪者は二次元のものに傾倒している、主に漫画だとかアニメを趣向としている人間こそが犯罪者予備軍だとしたいらしい。そういったものは偏向報道だとは思うが、思考が柔軟な奴は未だに少ないように感じる。特に上の世代と話す機会があると感じることだ。

 下の世代になってくるとまだ緩和されている。

 やはり、昔に比べてテレビは絶対的なものではない。

 動画投稿サイトが猛威を振るっているので、娯楽作品に浸かっているのが今の世代なのかもしれない。

 もっとも、アニメが流行っていた時期は既に終わっている気がする。今は、テレビで放映できないようなちょっとしたこと。普通の人間がやりたくてもやれないことを投稿している人が人気が出ている気がする。それとも、バーチャルな投稿の方か?

ともかく、二次元がそのまま三次元に影響されるなんてことはありえない。そんなものは夢幻だっていうのは、大学生である俺だって知っている。今の子ども達世代までとはいわないにしても、そこまで二次元と三次元をごっちゃになんてしていない。

むしろ、『二次元に傾倒している人間が三次元にも影響を及ぼし犯罪に手を染める』なんて考えを持っている人間の方が『二次元に影響されるという考え』を持っている時点で、二次元に振る舞わされそうで怖い。そういう奴ほど犯罪を軽い気持ちでやりそうで俺は恐怖を覚える。

 ライトノベルのハーレム展開を熟読している奴が、影響されて現実的にハーレムを形成できるだけモテるのだろうか? そんなことはありえない。ありえたとしても、可能性は低いだろうし、努力を積み貸さなければそうはならないだろう。

 その逆も然りだ。

 こんな論理を振りかざしても、きっと、ハーレムと犯罪は違う。犯罪行為の方がよりやりやすい。オタクは危険な人間なんだ。だから容易くその手を汚してしまうだとか、そういうことを言ってくる奴だっているだろう。

 でも、本当にそうなのだろうか?

 犯罪は、やろうと思ってできることではない。

 頭のネジが外れていなければできない。

 自暴自棄にならなければできない。

 偶発的に人は幸せになることはあっても、自ら不幸になるなんてことは中々できないものだ。今の社会的地位を捨てるなんてことできるのか? そんなことできるはずもない。人を殺して何か現代社会でメリットなんてあるのか? 普通、ありえない。

何も持っていない人間にしかそんなことできない。

 失っても惜しくないような人間しか、そんなことできないのだ。

 そういえば。

 あいつが――今はあいつのことなんて思い出しくもないが、思い出してしまったのだからしかたないが――バイトをしていた。その時のエピソードをフト、思い出してしまった。あいつのバイト先はスーパーだった。

 そこは予算が少ない小さなスーパーで監視カメラがほとんどなかった。ダミーのものはあったが、本物は数台だけで死角が多くあった。だからだろうか、万引きがかなり多かったのだ。対策として、盗難防止のPOPなどを貼ったが、ほとんど効果がなかったらしい。どうしても商品が盗まれてしまうということで、私服警備員や監視カメラを購入した。それなりに費用はかかったが、万引きを撲滅できるならやってやると店長は息巻いたようだ。

 俺はその話を聴きながら、どうせ犯人なんて決まっている。

 何も考えていない、良心すら育つ前の子どもが犯人なんだと。

 それか、中高生が多いんじゃいかと。

 思春期で悩みも多いし、それか、いじめとか度胸試しで物を盗んだのかと。

 そんな風に勝手に想像していた。

 でも、それは違っていた。

 お年寄りが9割だったのだ。

 どうして盗んだんですかと質問しても、ちゃんと答えないらしい。子どもとか若者だった場合、泣いて謝ることが多いらしい。出来心だとか、そういうことを軽々しく言うが、ちゃんと反省してくれるらしい。学校とか親には言わないで下さいとか自分勝手なことをいうがそれでも反省だけはすると。軽いやつで初犯なら警察にも連れて行かないけど、連絡先だけはメモするみたいな対応になるらしい。

だけど、お年寄りは反省なんて絶対しないらしい。

 さっきまで普通に流量に話していたくせにボケた振りをする。

 なんで、お前みたいな若者に説教されないといけないんだ! こっちは苦労しているんだ! お前みたいな餓鬼に何が分かる! 私は社会に貢献していたんだ! だからこれぐらいもらってもおかしくない! 何だその態度は! 私は年上だぞ! 敬え! 私の方が偉いんだ! と開き直って逆ギレするような人が多いらしい。

 あまりにも意外だった。

 そんな風にはなりたくない。

 テレビなんかを見ていると、年寄りが若者に説教する番組が多い。それは当たり前のことだ。上の人間が実権を握っている。お金を持っている。スポンサーに足を向けて寝られるわけがない。正義だとか真実だとかの前に、お金、お金なんだ。誰だって自分の生活の方が大切なんだ。他人なんてどうでもいいと本当は思っている。思っていなかったとしても、思わなければならない。見知らぬ他人に財布を差しだすような人間なんてこの世にはいないように、いたとしても異常者として扱われるように、他人なんてどうでもいいはずなんだ。

 従うしかないから、上の人間が凄いという報道をしないといけないんだ。

 年上は偉いのだと。

 でも、分からなくはない。

 大学生なんてただの子ども、まだ社会を経験していない餓鬼。

 そんな風に上からは押さえつけられるだろうが、それでもこれだけは分かる。

 恐いんだ。

 老いが。

 全盛期は過ぎるもの。

 どうしても昔のようにはいかない。頭は働かない。身体は動かない。

 だから、妬ましいのだ。

 若者を押さえつけて、自分の立場を向上させることでしか安心できないのだ。

 だから罵る。

 自分は悪くないと思いこみたくなる。

 たとえ自分達が悪いことをしていたとしても、それを認めないのだ。

 俺だってそうだ。

 俺は今から悪いことをしようとしている。

 でも、それが悪いことだと思いたくない。

 自分こそが正しいと思いたい。

 それこそが邪悪で巨悪だったとしても。

 自らの過ちを認めることは難しい。

 だって、どれだけ口うるさく言っても、若いってだけで価値があるのだから。年を取るってそういうことだ。命が削れているってことだ。死に近づいているってことだ。

 それとは逆で惹かれることだってある。子どもが愛おしいと思うのは、可愛いと思うのは、純粋無垢でいられた自分を思い出せるから。あの時は自らの死なんて考えずにすんでいたし、汚いものに眼を触れることなく生きられたから。自分自身が汚いものにならずに済んでいた時だから。

 そういうのもあるのかもしれない。

 俺が、アリサに惹かれたのは。

「待ち合わせしているんです。その子と。もしかしたら、その、そういう雰囲気になるかもしれなくて、だから、先輩にどうしても相談したくて、どうすればいいのかなって」

「どうすればいいのかなって……」

 それを俺に訊くのか。

 無邪気だな。

 悪気のない言葉が一番傷つく。いや、俺が悪いのだ。最初から話していればよかった。俺が実はフラれたことをカミングアウトしていれば、傷は浅くて済んだ。俺がアリサのことを悪人認定しなくてよかった。そんな汚いことを思わずに済んだのに。それなのに、俺が一歩進んでしまった。騙してしまった。

 だったら、このまま騙し切るのも悪くないのかもしれない。いや、悪いかもしれないが、だったら、悪は悪でも極悪になればいい。今更何かしたところで黒は黒のまま。服のシミみたいに汚れがとれないのなら、もっと汚したところで変わらない。俺はもっと悪い奴になればいいのかもしれない。

 俺は悪党になろう。

「どうすればいいかって決まっているだろ?」

 この言葉は誰に向かって言っているのだろう。

 まるで自問自答だった。

 俺は、悪になってもいいかもしれない。

 幸せになってもいいのかもしれない。

 だって、それだけ辛い想いをしてきたのだから。

 幸せになれる権利は俺にだってあるだろうから。

 だから、俺はアリサを不幸にしよう。

 不幸にして幸せにしてやろう。

 自分が幸せになるための最低条件は、他人を不幸にすることだ。

 そのことを、俺は元友人から教えてもらったのだ。

 嘘をつこう。

 だめだと。

 アリサの想いを踏みにじろう。

 俺のことを信頼して相談してきてくれたにもかからず、俺はそれを裏切ろうとしよう。それは恋心なんかじゃない。悩みでもない。恋煩いではなく、ただの勘違いだ。保護欲と恋愛は違う。

 騙して奪い取れ。

 いつだってそうだったじゃないか。

 俺は搾取されてきた。

 思いを、気持ちを。

 そういうものなんだ。

 人生は椅子取りゲームだ。

 誰かを不幸にしなければ、自分は幸せになれない。

 誰かを傷つけることでしか、幸せになれない。

 それを、あいつらが教えてくれたんだ。

 あいつらは笑っていた。

 だから、いいんだよ。

 俺は十分苦しんだ。だから、もう笑ってもいいんだ。

 あいつらみたいに。

 俺は幸せになっていいんだよ。

 正しいことだけをして、どうなる?

 誰かのために生きてどうなる?

 極端な話、人は見てみぬふりをしている。

 普段は理性的なことを言っているけど、化けの皮がはがれてしまえばどいつもこいつも結局自分本位なことしか言えないし、できない。

 自分の身体がキンピカだったとして、それを他人に分け与えるなんてことができるのは物語の中でしかありえない。誰かのために何かをしていたら、自分は生きられないのだ。遠い国の恵まれない子供たちが可愛そうだからと言って、自分の今日の飯を我慢できるのか? できたとして、それは意味のあることなのか?

 同情や憐憫で何かが変われるのか?

 必要なのは、絶対的な悪。

 誰かを踏みにじることさえできれば、誰だって幸せになれるのだ。

 だから、俺も倣おう。

 あの悪魔たちみたいに。

 呼吸をするよりも簡単に、アリサに嘘をついて騙してやろう。

 押し倒せばいけるかもしれない。

 そもそも、アリサは押しに弱い。そうでなければ、わざわざ相談だってしてこないだろう。だから、今すべきなんだ。俺はずっと苦労してきた。あいつらに貶められ続けてきた。だから、少しぐらいいじゃないか。美味しい想いをしたって。誰だって少なからずやっていることなんだから。潔癖症でいてもいいことなんてない。だから、だから俺は――


「告白しろ、お前はそいつのことが好きなんだ」


 こうして幸せをドブに捨てるようなことをするのは、どうしてだか全然わからなかった。考えるよりも先に口が動いてしまったような感じだった。

 でも、これが俺なんだ。

 俺は、あいつらとは違う。

 不幸を背負っていける男だ。

 不幸になれる男だ。

「ほえ? そ、そうなんですかね?」

「ああ、絶対にそうだ。だから、とことん自分から行った方がいい。男って言うのは、それだけでも嬉しいもんだ。異性の好意に気がついて、そこからお前のことを好きになることだってあるかもしれない。だから、とにかく会えばいい。会いまくればいい」

「そ、そうなんですかね……」

 俺は、何をしているんだろう。こんなことをして何の意味があるっていうんだ。誰だって同じことをしたはずなのに。少なくとも俺が生きてきて、周りにいた連中だったら鼻糞をほじりながらだってできたはずだ。アリサのことを騙して自分の女にする。そんな当たり前のことをやってのけたはずだった。幸せになるために、平気で自分の手を汚すような連中ばかりとずっと一緒にいた。むしろ、自分が手を汚したことにすら気がついていないようだった。まるで蟻を踏みつぶすように、他人の幸せを台なしにしてきた。ただのサイコパスのような連中がいつだって周りにいたのだ。それが当たり前で、日常だった。殺伐としていても、それが真実だった。事実だった。俺の中でそれが全てだった。

 それなのに、俺は未だに偽善者ぶっている。

 悪には慣れない。手を染められない。どんなにきれいごとを言っても、俺は汚れるのが怖いだけだ。幸せをつかみとるのが怖いだけなのかもしれない。一歩を踏み出す勇気がないだけなのかもしれない。周りからどれだけ揶揄されようとも、それでも、俺は、思うんだ。

 外道にだけはなりたくない。

 幸せになるのは怖い。恐いけれど、幸せになりたくない訳ではない。俺は他人を傷つけてまで自分が幸せになろうとは思わない。その相手が、まだあいつらとかだったらまだいい。だけど、相手はアリサだった。傷つけようとは思わない。俺は、まだ人間でありたい。幸せじゃなくたっていい、偽善者でいい。だけど、それでも俺は人間でありたい。

 あいつらみたいに、他人の不幸を笑える外道になりたくない。

 もしも、他人の気持ちを踏みにじることでしか、あいつらみたいに幸福感を味わえないのだとしたら、そんなこと一生味わなくていい。

 だって、俺は人間だから。

 そのプライドだけは捨てられないから。

 俺はあいつらのようなクズにだけはなれない。

 畜生にはなれない。

 人間であることを捨てたら、死んだ方がましだから。

 あんな奴らみたいになるのだったら、とっくの昔に自殺しているから。

 だから俺は、不幸のままでいい。

 ゲームをプレイする側よりかは、俺はゲームを観戦する方が好きだ。それは、自分ではどうやっても、うまくいかないから。

 祭りに行っても、俺は楽しめない。だけど、誰かが楽しんでいる姿を見て俺は楽しめることはできる。

 主観的によりかも客観的に幸福感を噛みしめることができる人間だ。

 俺は異質なのかもしれない。

 異形なのかもしれない。

 でも、俺はそうなんだ。

 そういう人間なんだ。

 それはきっと、ずっと外道と一緒にいたから。人の心なんて微塵も残っていないようなクズ人間と一緒にいたからだろう。長年ずっと一緒にいると、心は砕け散ってしまう。だから、俺は停滞を選んだ。

 きっと俺みたいな奴は世間から批判されるだろう。

 どんなことをしたって幸せを得ることこそが美徳とされているのだから。

 幸せになることから逃げないことこそが、人間だと定義づけられているのだから。

 だけど、そのあたり前を俺は否定する。

 俺の人生を振り返ってみてみる。

 その当たり前の中にこそ、他人の悪意しかなかったではないか。

 誰かを傷つけることでしか自分の幸せを確保できない連中ばかりだった。

 当たり前であることを武器に他人を傷つけてばかりいた。

 俺はたとえまわりどれだけ否定されても、変人扱いされたとしても、当たり前じゃなくとも、思考停止なんてしたくない。立ち止りたくなんかない。

 真実は一つなんかじゃなく、人の数ほどあるものなんだ。

 そんな当たり前じゃないことこそこそが、当たり前のことだった。

 心は凍結した。

 楽しいことも苦しいこともなくなった。

 みんな平等になった。

 みんなのことが、全部クズに見えた。

 自分に何の価値もないってことは、評価してくれる人だって価値がないってことで。周りの人だって価値がないってことになるから。だから、この世界に色はなくなった。生きていく意味も意義もなくなった。

 だけど、それでも。

 全てを失ったからこそ、大切なものが何かが浮き彫りになった。

 これが、俺の最後の大切なもの。

 矜持。

 プライド。

 誇り。

 それだけだ。

 人間として、あいつらのようになりたくないという否定。

 それしか俺には残っていない。

「頑張れよ、アリサ」

 好きな人の後押しになることになったとしても。

 これが、不幸になることだったとしても。

 それでも、俺は俺をもう見捨てたくない。

 もう、俺は俺を捨てることなんてできない。

 殺すことなんてできない。

 幸せよりも不幸を享受しよう。

 不幸であることに誇りを持とう。

 不幸になることを怖がって、誰かを傷つけることしかできないようなクズにだけはならないようにしよう。

 誰かを幸せにするために、不幸であり続けよう。

 そして、アリサは自分の想い人へと告白しに行くことになった。結果は聴きたくなくて、どうなるかとか、いつやるとか詳細は訊かなかった。

 もう、俺には、本当に失うものはなくなっていた。

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