第6話 足羽青空

次に足羽が彼女と再会した時は、前回会った時よりもだいぶ日が経過していた。

 日曜日の昼下がり。やや曇り空の下、何もない路上での遭遇。

 足羽はいつもの如く駅の方面へと歩いていた。その途中に彼女が居た。


「おや、こんなところで会うとは。奇遇ですね。こんにちは」


 彼女が挨拶をしてきた。


「こんにちは。お久しぶり」


 足羽は普段挨拶をするような習慣はなかったが、条件反射的に挨拶を返した。


「前回お会いしてからだいぶ経ちましたね。あれからどうお過ごしですか?」

「いつも通りに、何もない生活かな。特に変わったことはないよ」


 何のとりとめもない、他愛ない日常会話の始まり。


「何もなくて退屈なのならば、それはきっと平穏な生活という事ですね」

「今は平穏でも、先の事に不安はあるかな」

「誰だって先の事に不安は抱いていますよ」

「そんなものかな」

「そうですよ。だから何かをやろうと思うのでは?」


 その行動が解決を図る為なのか、はたまた不安感を忘れる為なのか、それは足羽には定かではなかった。


「そう、かもしれない」


 足羽は自分のこれまでの行動を振り返って、その上で相手の言動を肯定した。


「一瞬言い澱んでいましたが、何かあったのですか?」

「何かと言えば色々あったし、何もなかったと言えばそれはそれで差支えないというか」

「玉虫色の回答ですね」


 彼女は少々不満そうな表情を浮かべる。


「人生もそんなもんだろ?」

「何かそれっぽい事を言おうとしていますね。気の利いたセリフでも言おうとでもしたのですか?」

「それはちょっと違うかなぁ」


 足羽はこれまでの生活が色々あったようでいて、現在の自分に残るようなものは無いと思ったので、単純にどっちつかずの言葉となって出ただけだった。


「何だかよくわかりませんね。今日はお時間ありますか?」

「時間なら大丈夫だが」


 彼女は路肩のブロックに座った。その動きを見て、足羽も対面のガードレールに背をもたれかける。


「あなたは何かを書いてみるとか、そういう事はやってみないのですか? 本当はもう少し早くに聞いてみたかったのですが」

「俺が小説を書く?」


 それは足羽には思いもしなかった話。


「ええ、少々興味がありまして」

「書いたことはないよ。小説とかすぐに書けるものなの?」

「原稿用紙とシャープペンシル。またはパソコンとワープロソフトがあればかけますね。手書きだと修正が大変ですから、パソコンがあればそちらがおすすめですかね」


 手書きの原稿で修正するとなると、文字数や行数が変わった際に色々と修正が面倒なことになる。消した分の行を新たに加える等の手を打つ必要が出る。


「パソコンなら持っているけれど、すぐに何か物語が書けてしまうものなのか?」

「そこは……人それぞれだから何とも言えないですけれど、物語の書き方の本はたくさんありますし、色々と試して馴染むやり方が一番そうです」

「君はどんなやり方をしているのさ?」

「私ですか? 先にキャラクターと世界観の設定を組みますね。大まかな話の流れも考えますが、これはあくまで予定としてそれほど重要ではないです。キャラクターを複数立てたら、キャラクター同士が勝手にやり取りを始めるような会話の一シーンが思いつくので、『あ、このシーンを書かなきゃ!』と思えます。後はそこまでの話の流れを書いていくだけですかね」

「キャラクター同士が勝手にやり取り?」

「書いている本人にも、どうしてこのキャラクターはこんなことを言っているのだろう、やっているのだろうと思う時がありますね」

「それってどういう事なのかさっぱりわからないんだが……」


 彼女は軽く足を組んだ。


「この人、またはこのキャラクターならどう思うだろうか? という、相手の気持ちを考えているスタンスなのでしょうね。だから自分の考えとは少し違う印象を覚える」

「『相手の立場になって考える』というやつか」

「多分それですね。後は視点人物に感情移入しながら書くこともあります。文体に感情が乗りますので」

「感情が乗るとは?」

「言文一致の文体の場合、視点となるキャラクターの感情も反映させたいじゃないですか。落ち着いている時と激昂している時では、言葉遣いも台詞のリズムも違うでしょうし。出来ればそういう雰囲気も作れたらいいかなと」

「何だか色々とやることがあるんだな」

「そうですねぇ。色々あります。だから面白いとも言えますよ」


 彼女はただ、あっけらかんとそう言った。困難さを楽しんでいるようだった。


「そう言えば、君はどういう話を書いているのさ?」

「ジャンルですか? 今は柔軟に物事を捉える為の訓練も兼ねて、色々と書いていますよ。自分自身の殻を作らないように気を付けて」

「柔軟にって何なんだ? 具体的にどういう事?」

「例えばの話。何かに対して賛成や反対の意見が必要になるとする。その場合は賛成理由と反対理由の両方を複数積み重ねて、最終的に傾いた方を自分の意見としています。私の場合はこのようにすることによって、自分とは異なる相手の意見も受け入れられるようになります」

「片方の意見に固持しないという事か」

「その代償として、自分の考えがブレやすくなるというデメリットみたいなのもありますけどね。まるで自分がない人のように思われていますよ」

「自分の考え方にしがみつかなければそうなるんじゃないかな。絶対的に自分が正しいと信じているわけではないんだな」

「絶対的に正しいものにしがみつきたい心情は理解できますよ。ただ、私は正義とか悪とかそういうものは苦手です。絶対的に正しいものや悪いものは、この世には存在しないのではないでしょうか」

「それは暗に主義や思想の事を言っているのかな」

「全般的に、です。表が出来れば裏が出来る。裏があれば表も存在する。表裏一体というものですよ。だから人の一面性というものは、全くもって信じていないですね」


 足羽は彼女が以前話していた人の多面性について思い出していた。


「主観的にも客観的にもデメリットにしか映らない性質だな」

「ディベートの際に自分の立てた対立意見から、相手陣営がどのような反論を試みてくるのかを予測することも出来るので、事前に理論武装をしておくこともできますよ」

「君の学校は弁論大会でもやっているの?」

「ありますけれど、年に一度の地味な行事です」

「まるで弁論大会の原稿を書く訓練でもしているかのような話だな」

「それはちょっと違います。キャラクター同士の会話のパターンを多く持たせたいがためにやっているのですよ」

「会話にパターンなんてあるの?」

「大まかに分けていく事も出来ますね。今はちょうどキャラクターの会話劇をやろうとしていた所です」

「へぇ、どういう話なのさ?」

「まだ方向性をはっきりとは決めていないですね。そうですねぇ。高架下で雨宿りをするような状況で人と知り合うって展開、小説とか漫画で結構あったりしないです?」


 二人が出会った時のような状態だが、足羽には見かけたかどうか迷うところだった。結構ありそうではあるのだが、自分が知らないだけなのかもしれないと足羽は考える。


「さぁ。俺は読んだことはないかな」


 足羽はどういうジャンルの小説や漫画に当たるのだろうかと思った。彼が関心を持つジャンルとは重ならなそうだった。


「そう? じゃあ案外いけそうかな」


 いけそうとは何がいけそうなのだろうかと、足羽は思わずにはいられなかった。

 それ以上に、自分の感想でなにか判断をされても困ると彼は感じた。読んだことはないと言うのは、あくまで彼が読んだことのある範囲に限る。

 足羽自身は、幅広く小説や漫画を読んできたとは思っていない。


「俺はあまり本を読むわけじゃないから、単純に知らないだけだと思うよ。それよりも、何がどういけそうなのさ?」

「今はまだ構想を練っている最中ですが、あの時みたいな状況から始まる話、いつか書けないかなって思っていまして」


 足羽は彼女の話に興味を惹かれた。


「へぇ、それは読んでみたいかな」

「手に取ってもらえる日が来ると思っています」

「楽しみにしているよ」


 足羽は彼女が作家としてデビューするだろうという前提で答えた。


「あなたは何か目指しているものとかあるのですか?」


 彼女は少々真剣な表情で尋ねる。


「何も、無いかな」


 足羽は少々言い澱んだ。自分自身が今現在抱えている悩みの内の一つそのものに関する問いだったからだ。


「そのままではいつか行き詰るのでは?」

「色々と考えてはいるんだよ?」

「きっと、答えが出ないって状態なのでしょうね」


 彼女はすっと立ち上がる。

 足羽の横に並び、ガードレールに背を預ける。


「よくわかったな。見つからないんだ。大事なもの、あるいは目標となるものを」

「なんだか焦っているみたいなところもありますね」

「自分でもそう思う」


 焦燥。日々が過ぎていく最中、何も見つけられずにただ生きる。そんな中での彼の悩みは、自分は何処へ向かえばよいのかというものだった。

 足羽はそれが全く見えずにいた。


「何か得意なことなどは無いのですか?」

「得意なことって何だろうなぁ。無いような気がするよ」


 足羽は殆ど即答した。何も特徴がない、特技がない事を本人が一番自覚していた。


「既に何か行き詰っているようですね」

「その通りさ。ここのところは何をやっても長く続かなくて」

「もしかして、いきなり大きな目標を掲げたりしていません?」


 足羽はしばし考え込む。


「どうだろうな」

「小さい目標を連続して設定した方が、モチベーションは保てそうですよ」

「目標そのものを設定していなかったかも」

「小さい目標があった方が、達成した時に前進している感覚を持てますね」


 小さな達成感が、次への原動力へと変わる。


「なるほど、そういう工夫の仕方があったか」

「何事もやり方次第ですよね。……何もやりたいことがない、進路を決めていないという人は、私の周囲にもたくさんいます。それまでは義務教育なども含めて、誰かが用意したルートを歩んできただけですから、いきなり自分でルートを選択する状況が訪れても選べないのでしょう」


 学生の頃に何をやろうか目指そうか、はっきりしないまま卒業した人はそれなりにいるのではないだろうか。足羽はその中に該当していた。


「君はやりたいこと以外に、やるべきことはあるの? または決めている?」

「私は進学しますよ。何をするにしても学ぶことは大事ですから」


 学校は経験値を稼ぐ場、レベル上げをする場所なのかもしれない。

 社会と言う場へ冒険に出た時に、初期レベルが高い方が有利なのは言うまでもないのだろう。自分の武器となる得意分野がなければ、他の同様の武器を持った相手と素手で闘うような羽目になる。本当に。

 足羽は進学しなかった。人生ゲームを縛りプレイ中のようなものである。自らEXTRA・HARDな難易度を無自覚に選択している。

 この点は後に影響を及ぼす。


「やることが決まってなくても、大学へ行くんだったかな。ま、ちゃんとしたところに合格できるとも思えなかったが」

「勉強しなおすにしても、今からでも遅くはないのではないですか? 時すでに遅しとでも言いたげなセリフですね」

「ん、どうだろうか」


 足羽は図星を突かれた思いだった。


「勉強するのは面倒だからなぁと言う意識を、言葉の端から何だか感じます」

「まぁ、思っているよ」

「そんな事でどうするのですか?」


 足羽はまるで母親にでも怒られているかのような心境になった。


「善処するよ……」

「そう言って何かをちゃんとやった人を今まで見たことがありません。具体的に何をどうするのか聞いてみてもよいですか?」


 足羽は返答に窮する。彼は具体的なビジョンを持っていなかった。


「ほら、やはり空返事」


 彼女はやれやれといった様子。


「君、意外と厳しいんだな……」

「意外でもないと思いますが」


 足羽はつい頷きかけた。


「次会う時までには考えておくよ」

「是非とも良い答えをお待ちしております」


 彼女はことさら丁寧な言葉で返事を返す。


「勉強に限らず色々な方面から考えてみるよ。現実的な落としどころを」

「はい。では今日のところはそろそろ行きますね。用事があるのを忘れていました。気が付いたらもうこんな時間……」


 彼女は手を振りながら走り去っていった。いつものようにリィンリィンと綺麗な鈴の音がなる。この音との別れが名残惜しく感じた。

 足羽はその場に独り取り残されるような形となった。何もしていなければ、皆に置いて行かれるようなものだ。

 そんな彼に課題が課せられた。彼はどうしたものかと思いながらガードレールに背を預け、腕を組んで考え込んだ。

 駐車している車のフロントガラスが、太陽の反射光を跳ね返す。足羽はそのまぶしい光に当てられて、薄らと晴れ始めた空を見上げた。

 雲の合間に太陽が覗く午後。彼は一人悩んでいた。

最終的に、足羽は手に職を付けようと考える。

 職業訓練校で、IT技術者養成カリキュラムを受けた。

 実施するのは従業員十数名の中小企業。小さなオフィスビルの一角。入り口に受付嬢などは居ない。

 彼はIT技術者養成カリキュラムを終了後、その企業にそのまま就職した。

 早朝の事。足羽はスーツ姿で出勤する。私服でも出勤可能なカジュアルな会社であったが、彼は気持ちの切り替えの為にスーツ姿を好んだ。

 時刻はもうすぐ十時になろうかとしている。

 フレックスタイムを導入した会社の為、出勤時間は多少任意に前後できた。

 足羽は入り口のセキュリティーロックを、キーホルダーに入ったカードキーで解除する。そして彼はそのキーホルダーを首から下げた。

 足羽はタイムカードを押して、そのまま自分のデスク座る。彼はパソコンに電源を入れた。そして机の引き出しより、プロジェクト資料を取り出した。

 朝の定例会議の進捗報告へと備える為である。

 彼は入社間もないが、プロジェクトの参考資料作成に携わっていた。早朝はその日一日の作業をリストアップして、着手する順序を決めている。

 これは足羽の教育担当となった女性の先輩から教えてもらったやり方だった。物事を順序立てて進めていく。今は何を解決するのか、次に何をやるのかを明確にする。次を意識に入れておくことによって、今現在の作業をしながら、次の事を考えることが出来るようにする為に。

 『手を動かしながら考える』と言うのが口癖の先輩だった。

 だが、足羽は果たしてそんなことが出来るのだろうかと考えていた。頭の中では別の作業の事を考えながら、手では目の前の作業をやるようなイメージで捉えていた。

 考えるも何も、今の彼には何が分からないのかを人から問われても、何が分からないのかそのこと自体がわからなかった。

 今行っている作業を進める上で何がどう障害となっているのか、何をすれば次にするめるのかが見えていない。その結果、無為に時間を消費していく。

 そのような流れの中で、足羽の作業進捗は少々遅れていた。報告・連絡・相談の中の、相談が著しく欠けている。

 足羽は本日のスケジュールを確認する。作業内容は作成資料の読み合わせ。修正個所を確認する目的で、各自担当の作成資料を持ち寄って数名で行う。

 足羽は憂鬱な気分となる。彼はその修正個所が多い為にスケジュールから遅れていた。

 彼の問題は修正個所が指摘された場合、対象の資料のみに修正を適用し、次以降の作成資料には指摘内容を反映していないところにある。

 読み合わせを数回こなした後であった為、足羽の誤字の傾向などはだいぶ明確になっていたが、彼は最後に見直すという作業も怠っていた。そのような有様であるから、いつまで経っても修正量が減らない。彼には基本的な仕事の進め方と言うものが身に付いておらず、人よりも非効率的であった。

 足羽はカロリーメイトと缶コーヒーを取り出す。彼の朝食だ。

 彼はチーズ味のカロリーメイトに噛り付きながら、パサついた口の中へとコーヒーを流し込む。脳の活動にもエネルギーを使う。朝食は省かないほうが頭の働きもよくなるだろう。彼の朝食は簡略化したものであるが。

 次々と社員が出社してくる。


「おはようございます。菊島先輩」


 足羽は隣席の女性に挨拶をした。彼の教育担当先輩、名は。二五歳。


「おはよう、足羽君」


 菊島はバッグを机の脇に置く。彼女にとっても悩みの一日が始まる。

 菊島は入社数年目。ようやく中堅どころと言ったポジションだった。今回初めて新人教育担当と言う役割を与えられた。

 この新人教育と言う役割が通常業務とは別で存在する大変さ、担当した者であればその負担の増え方というものを知っていることだろう。

 通常業務は通常業務の作業量でスケジュールを割り振られる。その外側に一つ大きな普段を持つわけである。

 そして自分の作業について思考を巡らしていても、新人からの連絡や相談事でその思考を中断される。この頻度も高くなるほど大変だろう。考えていたことを途中から遡り、再び続けるという行為にも大きな負担が伴う。時間的にも労力的にも。

 菊島は個の負担だけでなく、集団の負担の一部を背負う。そんな作業負荷の変化に慣れられずにいた。

 その菊島にとって、目下のところ足羽が最大の悩みの種だ。

 足羽のスケジュールは少々遅れている。だがその改善の兆しが見えず、足羽の相談に乗ろうにも、足羽自身が自分の問題点を理解していない為、何度となくやり取りをしようにもどうにも要領を得ない。

 足羽は作業の進め方、あるいは業界特有の基礎面について、菊島はプロジェクトのリーダークラスになる為に必要な事でそれぞれ異なる悩みを抱えている。

 そのような状態であるから、二人の間は少々ギクシャクしていた。


「……足羽君、昨日割り振った作業は?」


 菊島は少しきつめの口調で足羽に尋ねた。


「昨日は時間が無かった為、今日やろうかと思ってそのままです」


 足羽がケロリとしたまま答える。菊島は足羽の言葉を聞いて軽くため息を吐く。

 菊島が足羽に割り振った作業は昨日の時点で終えてある想定である。彼女は今日に後続の作業を担当しようとしていた。その予定が早くも崩れ去る。

 意図を伝えていない菊島にも問題があるが、割り振られた作業を後回しにした足羽にも大きな問題がある。

 菊島に足羽の性格を読んで、事前に釘を刺しておけと言うのは少々酷な話であるかもしれない。起きた事故はコミュニケーション或いはヒューマンエラーのようなものだ。


「昔は『明日やろうは馬鹿野郎だ』と言う言葉を聞いたものだけれど……」


 菊島の口調が、先ほどよりきついものに変わる。


「す、すみません!」


 足羽は自分の失敗に気が付いて、慌てて謝った。


「では何時ぐらいに作業が終わりそうなのか、きちんと見通しを立ててから、それだけ教えてちょうだい……」


 菊島は朝から何か疲れたような表情だ。

 何かしらの失敗は誰でもあるだろうが、その失敗をどのようにケアしていくのか。そういった能力も意外と求められているのかもしれない。

 何かしらの仕事にきちんと携われば、その業界の専門的なことだけではなく、汎用スキルも体得できるのではないだろうか。どこへ行っても応用の効く能力といえるようなものを。

 そういう意味では、仕事の進め方が一流の企業や現場を知るのは貴重な体験かもしれない。一流の場に自分を合わせるのは大変なことであろうが。

 朝の定例会議では、まず二人の作業遅れの件が議題へと上がる。足羽は入社して間もない為、まだそれほど追求されることはない。しかし菊島はそうもいかない。教育担当としても作業員としても、きちんとした対処対策対応を求められる。いずれ将来において足羽は自分の立ち位置が変わり、今の菊島が受けている指摘が我が身の事になるとは予想もしていなかった。数年後に彼もまた新入社員の教育担当となり、今の菊島の苦労を知ることになる。

 定例会議が終わり、静かになった午前中のオフィス。

 足羽は昨日の積み残し作業に手を付ける。彼の判断ミスが、菊島の作業に影響を及ぼした。集団で作業をしているのであれば、タスクを明日へ持ち越すか否かについて、菊島に相談していて然るべきであっただろう。

 それを怠ったツケが回ってきた今日。一日が終わるのはまだまだであった。

 忙しい日常という激流に流されて生きる。何も無くはないが、あっという間に時間が過ぎ去る日々を送る。

 それは彼女の事を思い浮かべる暇さえ無い日々の連続だった。

 足羽の悪戦苦闘の日々は彼に変化をもたらした。

 仕事において必要な情報を相手へ伝えることが求められるようになったことで、彼の性格は大きく変っていった。場合によっては意見を求められる。自分の意見を持つと言う事、述べると言う事を通して、重要なことの意思決定と意思表示という繰り返しが日常化し、受動的に生きてきた彼の行動原理を明確にして生きるように変化したのだ。

 目的、目標をゴールとした最適な手段、プロセスの選定。ロジカル思考による最善の仕事時間を過ごす為の思考シークェンス。それは、あるいは必然に身に付く些細なものだったのかもしれない。

 そんな些細な変化。ある日のこと。その日、足羽は休日だった。久しぶりの休みだったため、足羽は家でごろごろしながら過ごそうかと考えたが、思い切って出掛けることにした。久しぶりに本屋を訪れる。

 漫画本を探そうかと迷っていた最中、光天 舞の本を見かけた。この著者の本を通じて文学女学生と知り合った為、思い入れもあったので思い切って本を買うことにした。

 早速自宅に戻り本を開く。キャラクター劇が中心のエンターテインメント小説だった。

 足羽は小説を読み進んでいく。・・・と、ある程度読み進んだところで、足羽は思わず首をかしげた。記載内容に気になるものがあった。


 その記載とは物語中での雨の日の高架下でのシーンだった。

 その日、ヒロインは主人公から預かったという懐中時計を主人公へと返した。

『壊してしまって預かっていたもの、確かに返しました』

 主人公はきちんと動作する懐中時計をヒロインから受け取った。


足羽は該当の箇所を見て不思議な点に気がついた。作中では懐中時計は壊したというシーンが書かれていない。シリーズの第1話目で有るので、他の作中で描かれているのか、それとも前日談としてどこかで描かれるのかは知らないが、少なくとも作中では存在しなかった。

 その後、懐中時計をロケットペンダントに見立てて会話が始まる。


「あの時の会話だ!」


 足羽は驚いた。あの子から懐中時計を受け取ろうとして、取り損なって落として壊してしまった日。その日のやり取りがそのまま出ていた。


「まさか、あの子は著者の光天 舞?」


 著者プロフィールには情報が殆ど無かった。ゆえに確かめようが無い。何せ女子高生の名さえ知らない。その彼女ともしばらく会っていない。進学の都合で会えなくなるという話を思い出した。

 足羽は光天 舞との会話の節々を思い出そうとする。

 所々思い出せないが、確かに修理でも弁償でもない方法で、恐らくは直しようの無いくらいに壊れていたであろう懐中時計を返してきた。

 足羽にとっては自己演出の為に持っていたパーソナルアイテム。ささやかな自己の確立の為の小道具。それが物としての懐中時計だった。

 今度は二度と壊れようも無いような懐中時計を手にした。それは概念としての懐中時計。確かめようも無いが、確かにあの日の懐中時計は手元にある。一冊の小説の中に。

 作中のヒロインも彼女と同じ紐付き鈴を手首に巻いている。これもきっと目印だろう。


「・・・・・・・・・」


 足羽は沈黙した。自分がずっと著者と会話をしていたのだと気がついていなかった。

 足羽はたまらず彼女とまた会いたくなった。しかし、もう居場所も行き先もわからない。

 このままではもう二度とあの日の続きは訪れない。足羽にはそのことがたまらなく悔しかった。もっとやり取りしていたかった。後悔した。自分の日常が取り返しの付かない形でこのまま過ぎ去っていってしまうことを恐れた。


 足羽は仕事を続ける傍ら、本を読み、書く趣味を継続する事を決めた。

 一つは光天 舞との再開を望んでの活動。そして、もう一つ。受け取ったものへのお礼、或いは彼女との会話を思い出した上での回答を返す為。

 人によって感想が変わるような物語を書けるだろうか。足羽は悩む。

 あるいは子供の頃に読んだ時と、大人になった時とで感想が変わるような物語も面白そうだ。面白い漫画や小説にはそのような所があると思う。

 子供には視えないが、大人には視える景色なども書けたら最高かもしれない。

 作風と言う気取った話ではない。ちょっとした遊び心。

 それは小手先の技の話であるが、自分にしか書けない物語も探している。辿った経歴から出てくるような雰囲気を持たせた物語を。

 そのうえで、今しか書けない物語を書くという意味でなら、まさしくこの話を書くしかない。夢追い人、何かに追われる人、大事なものを見つけられずに燻る人の話を。それら全てにあてはまる今の自分の立ち位置から。

 文章表現として必要となりそうなものは、色々なものを見ては拾い集めてきた。それを試すような形で取り入れながら、同じことをあれやこれやと模索する話を今こそ。

 ……あらゆる結果が確定しない揺らぎの中で、その波と言う人生に身を委ねている方がよかったのかもしれない。

 しかし、その甘えは自らを許さなかった。無くしたくないものがある。彼女との思い出。ならば結果の良し悪しは予想せずに、覚悟を決めて臨むより他はない。

 何もない日常を読者に読んで貰えるように書くには、何をどのようにすれば良いのかというところで苦心をしている。日常から見識を得ていく形にしてみたが、書いた作中の事をあれら全て実際に行動に移せるかと言うと、とんでもない話だ。

 物語はどこまでいっても嘘なのだろう。

 だが今も昔も思うのは、現実こそが嘘っぱちで塗り固められた出来の悪い物語なのではないかという事だ。

 人の建前上っ面、言動と行動の意図の乖離。世に氾濫するのは、発信者の都合で歪められた情報、そしてポジショントーク。

 目に見えるようなものなどに、ほんとうの事など存在しないとさえ考える。何をいまさらそんな事をと思う人も多いだろう。

 だが、現実が嘘や偽物で溢れているというのなら、本当とは本物とは何なのであろう。

 だからこそ足羽は物語の世界に没頭するのだろうか。現実とのつながりのある物語の世界に引きこまれたからこそなのだろう。

 現実の嘘が嫌いだからこそ、虚構で嘘を吐こうとしているのだろうか。

 足羽は例えその信じたものが実際には異なっても、自分自身それはそれでいいと思っている。

 そうでなくてはどこへも向かえないだろう。まるでくらやみの中を歩いているようになってしまう。

 それで間違えたとしても、間違えないようにとおっかなびっくり生きるよりはいいかなと思える。

 間違えたとわかれば修正が利く。わからなければ一生そのままだ。

 失敗は成功の基、或いは失敗は成功の母と言うのは、このような所からきているのだろうか。痛みなくして成長は無しと言うが、痛手を抑える努力位はした方が良いだろう。

 思考がわき道にそれて、足羽は執筆活動が止まってしまっていた。

 今現在書いていた話は一通り終わり、後は見直すだけだ。この話の続きを書くような機会があるだろうか。

 リアル路線に寄せてみようとしたが、どうあっても嘘くささが漂う。伏線を使おうとした方が、現実感が喪失するのだろうか。現実では伏線に沿って綺麗に物事が進むようなことなんてあり得るのだろうかと思う。

 次はミステリー辺りを書いてみよう。伏線をコントロールする技術がなければ、物理トリックであろうが叙述トリックであろうがミステリーにはならないだろう。自分の技量を推し量るのに良さそうだ。

 作家の伏線管理などの能力を推し量る為に、ミステリーを尊重しているところもあるかもしれない。この点は念頭に入れて活動した方が良いか。

 自分の筆力が未だ及ばなく、頭を抱えて床の上を転げ回る日々は多いが、いつか自分の目標とする場所へと辿り着こう。

 ほんとうのところへと。

 タイピングの手を止めた。長時間作業を続けた為、肩こりが酷い。

 何の指針も指標も無しに手探りで執筆活動をする程に、向こう見ずなやり方はしていない。理想形さえ明確ならば、いずれは近づくことが出来るというのが足羽の持論だ。

 いつかはこういう失敗談も何かのネタにできるだろうかと、つまらぬ色気も出てきた。

 作業を中断し、足羽は休憩の為にベランダへ出る。今は禁煙していた為、足羽のようにタバコは吸わない。

 ペンネーム、足羽青空あすわあおぞら

 まだまだ活動は始まったばかり。彼の物語は序章を過ぎた頃。人生とは長い。・・・胸中の彼女にはまだ執筆活動の話は秘密のままだ。

 足羽は息抜きしながら雲一つない空を見上げた。


 天高く、どこまでも青空が続いていた。鈴の音が一つ、空に聴こえた気がした。


第7話へと続く

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