第5話 関心があるもの

 誰かから今一番関心があるものを尋ねられたとして、誰しもがその問いに即答できるものなのだろうか。同じ問いを受けたとき、足羽は即答できなかった。

 普段の自分を省みて、具体的に『何が』『何について』というものが出てこなかった。

 彼は人に問われて気が付いた。自分は何に一番興味を持っている人間なのか、そのことを自分自身が知らなかったという点に。

 本が好きであるとして、本を手に取るとする。

 それは本そのものに興味があるのか、本の内容やジャンルに興味があるのか、著者に興味があるのかでまた違う事と思う。

 足羽が彼女から関心があるものについてを尋ねられた際、今の自分は本に興味があると答えようとして、ふと本と言う媒体を通した何に興味があるのだろうかと疑問を感じたのだった。

 足羽は何を基準として本を選び、手に取っていたのか。

 そこが大きなポイントだった。動機のきっかけは彼女との話のネタにという、とても分かりやすいものだったはずだ。

 そう。本を手に取る前に、もっと先に関心のある対象が存在した。そのことに彼は気が付いて、彼女からの問いに対して返事に窮した。

 彼の心情について、直接の言及は避けよう。

 しかし一度意識し始めると、余計に相手が気にかかるもの。

 ある日の事。足羽は少し意識をずらそうと考えた。

 何もしていないとまずいので、彼は久々にゲーム機に手を付ける。ゲームも積みゲーだらけとなっていた。

 以前の足羽はとにかくゲーム三昧の日々を過ごしていた。徹夜で遊んでいた日も数え切れない。

 彼は少々埃をかぶった据え置きのゲーム機の電源を入れる。戦略シミュレーションゲームを始めた。

 熱心に遊んでいた時は攻略本を入手し、更にはネット上で情報収集をしてまでやり込んでいた。彼はレアなゲームアイテムを取り逃すのが許せない性格なのもあって、他者には遊んでいるというよりも、何か作業をしているような光景に見えるかもしれない。

 事前に仕入れた情報に沿って行動し、ゲームアイテムの入手率数%などの低確率ドロップは、とことん徹底してリセット&ロードの繰り返し。それはもうほとんどルーティンワークである。

 そして足羽の場合は、ゲームに慣れてくるとマイルールの縛りプレイを始める。

 一般的には自キャラをベストな状態に保つのがセオリーであろうが、縛りプレイの場合には敢えて不利な条件を自ら作る。

 これはプレイ中のゲームへ飽きが来ないようにする為の工夫になるかもしれない。

 何もかもがベスト、最強の何でもできるぜ・どこでもいけるぜ状態よりもやりがいを感じてしまうところがある。自らに枷を付ける行い。制約があるからこそ、工夫は生まれるのだろうか。

 足羽は久しぶりのゲームプレイである為、感覚が鈍っていると予測して縛りプレイは避けた。

 彼はしばらくゲームに没頭する。自意識が薄れ、眼前の問題から解き放たれる。

 程なくして、彼はゲームの操作感を思い出す。ゲーム操作の勘所を取り戻せば、後はなんということはなかった。

 ゲームに集中することによって、『今』の自分から意識を切り離せる。

 それはただの現実逃避であろうか。現実の中にしか生きられないのに、その現実から逃げ出そうとする矛盾。

 学生時代の頃の足羽は、少なくとも純粋にゲームを楽しんでいた。

 アクションやシューティングゲームのステージクリアは、疑似的な目標達成感を与えてくれる。

 目標を達成するために、現実では苦行ともいえるような努力を要することもあるだろう。ましてや、達成感を得られる体験などそうそう機会はない。

 ロールプレイングゲームのレベル上げは、単純数値のパラメータが主であるが、強くなるという疑似的成長体験ができる。

 現実で成長したと実感できるような体験など、果たしてどれ程あろうか。そう簡単には得られない快感を、ゲームは疑似的に与えてくれる。

 オンライン型のネトゲなどの場合は、他の人間と競い合う事によって、現実では行き場のない闘争心や向上心を、ゲームへ注ぎ込む人もいる事だろう。

 人とのつながりが薄れた現在にあっては、バーチャルな人との繋がりも得られる。依存症になる人が多いのは、それなりに理由があるのかもしれない。

 かつての足羽もまた、ゲームの様々な要素を純粋に楽しんでいた。ストーリーやゲーム性、キャラクターの魅力、様々な形で提供された娯楽を消費していた。

 だが、今現在は惰性でやっているような感覚に近い。そのような状況で二時間も経過した頃には、ゲームに集中できなくなって中断していた。

 彼は何もすることなく、畳の上に仰向けに寝た。そしてぼーっとしながら天井を見上げる。天井を見ているようでいて、何も見ていない。

 心の置き所が定まらない時の不安定感。

 外の景色は、彼の心と同じような空模様。今にも雨が降り出しそうな曇り空。

 足羽はしばらく考え込んでから、出かけることを決心した。

 彼は起き上がり、玄関口へと向かう。外靴に履き替え、少し前に購入した透明なビニール傘を手に取った。

 彼は部屋の外へ出て、玄関に施錠をする。曇天。重い雰囲気の空の元、彼は駅の方面へと向かって歩く。

 もっとも、彼には特に何をしようとかの予定はない。気分転換に外へ出かけたようだ。

 時刻は夕方も遅くとなっていた。空の影響もあり、辺りはうす暗い。

 緩やかな下り坂を歩く。時間帯的にそろそろ近場の住宅から、夕飯の準備の匂いがしてくるだろう。

 車道を大勢の学生が乗ったバスが通り過ぎる。足羽はしばらく歩くと、下校途中の学生たちとすれ違った。

 足羽はルーティンワークの生活を送る学生達を見送りながら、やらなければいけないことに追われる毎日と言うのは、自分で何をするのか何をやるべきなのか、何をやらなければいけないのかを考えずとも済む分、だいぶ楽だったものだったと思った。

 やらなければいけないことに追われる毎日が良いというのならば、仕事に追われる毎日に身を投じたらよいだろうと思う人もいる事だろう。

 今の彼は、自分自身が何をやりたいのか、何をやらなければいけないのかが見えずにいた。自分の軸がない為、今一つ何をやるにも身が入らない。だから続かない。

 足羽は中途半端にアルバイトをしているが、今の状態でとりあえず仕事に就いたとしても、長く続くことはおそらくないだろう。

 では彼は何か夢でも追っているのかと言うと、そうでもない。やりたいことが見つからない。何かをやってみようと手を付けるが、すぐにやめるを繰り返していた。

 飽きっぽいというわけでもなければ、根気がないというわけでもない。心が定まっていないだけ。

 何かを追うか、何かに追われるか、足羽はそのどちらにもない状態。

 彼は独りゆっくりと歩き続ける。

 しばらくすると、彼がいつも行くスーパーマーケットの姿が見え始める。帰り際に立ち寄ることになりそうだが、今現在は用がない。足羽はそのまま通り過ぎていく。

 いつものように大きな橋を渡る。

 すでに橋の上の街灯は点灯していた。曇り空の為、少々薄暗いからであろう。

 誰もいない橋。足羽はしばらくの間、橋の上から川下を眺めた。

 湿り気のある風が彼の頬を撫でていく。

 ぽつりぽつりと雨が降り始めた。足羽は傘を差す。それほど時間を置かずして、雨脚は強まった。

 足羽は透明なビニール傘の下から空を見上げた。

 重い雰囲気の雲が一面に広がっている。ひっきりなしに降り注ぐ雨。雨粒は彼の持つ傘に弾かれ、或いは傘の表面を伝い地面へ落ちる。

 足羽は再び歩き始めた。

 基本的に出不精の彼にとって、雨の日にわざわざ出かけるというのはそうそうある事ではなかった。

 よって、彼にとって雨の降る景色を無目的のままに歩くというのはあまりない。

 彼がアルバイトに行く途中に雨が降ることはたまにあるが、そのような時に周りの景色を見ながら歩くようなことはしていない。

 無目的だからこそ、今の彼は周りの景色を眺めながら歩いていた。

 いつもと違う雰囲気の景色に、彼はしばらく目を止める。

 たとえ同じ場所だとて、晴れの日・曇りの日・雨の日でその景色は変わる。人もその時々の心の景色で、その姿は変わるものなのではないかと、ふと彼は思った。

 足羽は以前、彼女と会話をしていた時の事を思い出す。人間の多面性。いろいろ変わって当然。人は感情が一定のままではないだろう。

 多面性、多様性はあって当然なのだ。

 足羽は何をするわけでもなく、ただぶらぶらと雨の下を歩き続ける。彼は歩き続けるうちに駅前へとたどり着いた。

 特に買い物をする予定もない。いつも立ち寄るラーメン屋で、夕飯を先に済ませてしまおうかと、彼が迷い始めたその矢先。

 駅より見知った女性が出てくる。学生向けのバッグを持ちながら、傘を片手に歩いてくる女子高生。例の彼女だった。


「お、帰宅途中か」


 足羽は彼女に声をかけた。


「お久しぶりですね。お買い物でしょうか?」


 足羽は目的なしで出かけていたが、買い物という事にしておこうと思った。


「ま、そんなところかな」

「手ぶらのようですが、これからどこかへ?」


 足羽は傘以外何も手にしていない。そこを彼女は目に止め、尋ねてきたようだ。

 足羽もそこを察して、少し慌てた。


「そうそう、本屋にでも行こうかと」

「あなたは雨の日は本屋デーなどの主義でもお持ちなんでしょうか」

「どうしてそんなことを?」

「始めた会った日も、ちょうど今日のような雨の日でしたから」

「いや、たまたまだよ。家に居ても暇だったんで、とりあえず外に出ただけさ」


 ここで足羽はとっさに本音を漏らしてしまっていた。


「おや、先ほどと言っていることが違いますね」

「ん、何もしないで帰るのも何かと思って、とりあえず本屋に立ち寄ろうかと思っていたところだったんだよ」


 足羽はとっさに取り繕った。


「なるほど。意外と無計画な人なのですね」

「ええ、そうなのですよ!」


 足羽は彼女の口まねをしてごまかすことにした。

 何より、彼女の指摘に足羽自身が自覚を持っていた。思いつきで何かを始める。今日出かけたのも思いつきだ。


「で、これから本屋に立ち寄るのですか?」

「なんというか、どうしようかなと」


 足羽は返事が曖昧となってしまった。


「では、私も本屋に寄っていく事にしますか」


 二人でいつもの本屋に立ち寄る。

 足羽がどこの売り場に行こうか迷っていた所、彼女はとある本棚の前に立つ。

 足羽は彼女の隣に歩み寄った。彼女の目線を追って本棚を見ると、足羽が彼女と会話するきっかけになった本の著者の新刊が出ていた。


「お、この人の新刊が出ていたんだ」

「ほんとつい最近ですね」


 足羽は本を手に取った。ちょうどいいから買って帰ろうと考える。


「せっかくですから、いずれその本の感想も聞かせてください」

「いいよ」


 足羽は手にした本の会計を済ませた。

 彼女は店内を一通り見まわしたが、特に何か買うというわけではなかった。二人とも用事は無くなった為、本屋を出た。


「他にどこか立ち寄るようなところなどある?」


 足羽は彼女に尋ねた。


「特にどこかへ行こうというのはないですね」

「じゃあ、そろそろ帰ろうか」

「そうですね。おそらく帰り道は途中まで一緒でしょうし」


 二人で傘を差して並んで歩く。

 行きは一人、帰りは二人。二人同行の帰り道。

 一人の道は退屈でも、二人で歩けばそうではないかもしれない。

 強めの雨が降る中を二人で歩く。途中で足羽が彼女と初めて出会った高架下の場所に差し掛かる。

 帰宅途中の車が側の車道を次々と住宅方面へと走り去っていく。


「そういえば、初めて会ったのはこの場所ですね」


 彼女が高架下で立ち止った。

 足羽も歩みを止める。


「ちょうど今日みたいな雨の日だったな」

「このまま帰るのもなんですので」


 彼女はそう言うと、高架下で傘を畳み、高架下で立ち止まった。その様子を見て、足羽も後に続いた。


「もうじき私は大学進学で遠くへ行くことになります」

「へぇ、きちんと次の事を考えているんだ」


 足羽はろくに進路も考えていなかった。


「そうですね。やりたい事とか色々とありますが、それ以外のやっておいたほうがいい事もあるでしょうし、私は両立を目指す事にしました」


 足羽には考えてもみなかった選択だった。やりたい事もなければ、やっておいた方がいい事をやっておくという発想もなかった。


「随分と大変な道を行くんだな」

「大変とは思っていませんよ。全ては自分で望んだことですから」

「俺なんかとは全然違うんだなって思って」

「それは……無計画なあなたと一緒にされたくねー、ですよ」


 彼女の言葉遣いが少々乱れたようだ。こちらの方が地なのかもしれない。


「無計画な生き方をしているのは認めるが、なんていうかそこは少し改めるよ」

「少しで済めばよいのですが」

「そうではすまなそうなのですよ」


 彼女の皮肉に対して、足羽はまたしても彼女の口調を真似て応戦した。


「真似すんじゃねーですよ?」

「はいはい、すみませんね」


 足羽は少し調子に乗りすぎたことを反省した。


「次に私の口調を真似したら許さねーですよ」

「やらないやらない!」


 足羽は慌てて首を横に振りながら答えた。

 高架の外では雨脚が強まってきた。ざぁざぁと勢いよく雨が降り続ける。


「思った以上に雨が強くなってきたな」

「あの日のように、今日もここで雨脚が弱まるのを待ちますか」


 彼女は高架下の壁を背にし、もたれかかった。


「たまには文学的な話でもしましょうか?」


 彼女が足羽にそう話を持ち掛けてきた。


「どんな話さ?」

「福沢諭吉の学問のすゝめの中で『天は人の上に人を作らず』から始まる言葉がありますよね。あの言葉をどのように認識していますか?」


 それは有名な言葉であった。当然足羽も知っていた。


「人は皆平等という話だろう? それくらい知っているさ」


 足羽は即答した。


「まぁ、それが一般的な認識でしょうか」


 彼女は軽くニンマリと笑った。予想通りと言ったところであろうか。


「一般的も何も、そうじゃないのか?」

「あの言葉の後には、もっと言葉が続いています。全文を見渡せば、人は生まれた時は平等であるが、学ぶものは富み、学ばぬ者は貧ずるという意味合いとなります」


 足羽にはそのような認識はなかった。


「この間の『性相近し、習い相遠し』と言う言葉と、どこか同じような意味合いだな」

「本質は同じでしょうね。この世の真理の一つなのではないでしょうか。富める者はますます富み、貧ずる者はますます貧ずる。勉強を怠り努力をしなければ、どんどん両者の差は広がるばかりになるのでしょうね」

「そりゃあ何もしなければ、周りからどんどん置いていかれるだけだろうな。何もしないのは現状維持ではなく、落伍の別称みたいなものか。どうも認識違いをしていたみたいだな。学問のすゝめを本格的に読んでみようかな」


 他人も努力をしているのだから、努力してようやく人並みという事になる。少なくとも、彼は『彼女』の言葉からそのように学んだ。


「是非御一考を。折角先達が色々なものを世に残していってくださっているのですから、自由意思で触れることのできる後続として、私も歪みない受け取り方をしたいです」


 福沢諭吉を先達と呼び、自分を後続と認識する彼女。一体どのような女子高生なのだろうかと足羽は感じた。


「本に書かれたことをどのように受け止めるかは、人によって十人十色の千差万別。誤解曲解も当たり前に起きる事なんじゃないかな」

「その誤解曲解が起きないように物語を書くのも難しくて、私にとっては今一番の悩みですね」


 彼女の言葉に、足羽は相手が読むだけでなく書くことも趣味にしていた事を思い出す。


「そういえば小説を書いているんだったね」

「そうなのですよ」


 彼女は即答した。


「何かを誰かに伝えたくて小説を書いているのか?」

「そのつもりはなかったですね」

「じゃあ何の為に?」

「何の為と問われると、答えに困りますね。なるほど、今まで考えもしませんでした。これは自分を知る手がかりとなるかもしれません」


 足羽にとって、彼女の返答はなんだか不思議なものに感じられた。

 自分で理由がわからずにやっている。続けている。続けられることがある。それが足羽には不思議だった。

 しばしの沈黙。足羽が高架の外を見ると、雨脚は少々弱まってきていた。


「どうやってモチベーションを維持しているのさ?」

「モチベーションを維持しようという意識は全くないですね」


 自分が望んでやっているのだから、と彼女は最後に付け加えた。


「そういうものって、どうやって見つけるんだろう……」


 足羽は彼女に聞くでもなく、ただ独り言のように呟いた。


「見つけるとかどうとかと言うより、ただ自分自身がやりたいことをやっているだけなのですよ? ただひたすらに突き詰めていきたいと思えることを。あなたにもそういうものがあるのではないのですか?」


 足羽は彼女の質問に答えられずにいた。


「俺には……そういうものはないかな。人のそういうものが羨ましく思えるし、何かを一心に追求している人をカッコいいとも思えるけれど、俺はどうやってそういうものをみつけることができるのか、わからないんだ」


 足羽は無我夢中で熱心になれるものを見つけたくて、色々なことに首を突っ込んではあれこれやってきたが、未だに自分の手に馴染むものは見つけていなかった。


「どうやって……と聞かれても困りますよ。『これだ!』『これしかない!』と自分では思ってやっているわけですし。そのように思い込んでしまうのも一つの手なのでは?」


 彼女の言葉は足羽には思いもがけないものだった。

 自分でそう思い込んでしまうという、そのような発想など彼にはなかった。探せば見つかるものとしか考えていなかったのだ。


「思い込むって、それは何を根拠にそうするのさ」

「根拠なんてないですよ。自分にはこれしかないと、ただそう思っただけですから。後はもう、自分の選択を信じるしかないですね。後はただひたすら継続するだけなのですよ」

「無根拠でただひたすら続ける……」


 足羽は考え込んでしまった。


「『継続は力なり』と言う言葉がありますが、頑張って続ければ力となる、或いは続けること自体に力が必要という捉え方もできる言葉だと、私は思っています。どちらにしても、長く続けられること自体が一つの力の証明となるのではないですか?」


 言葉の持つ多面性。だが、どちらの意味合いが真であっても、『長く続ける』と言っているようなものだろう。


「それは確かにそうなのかもしれない。……以前の話にも戻るけれど、うまくいくかどうかもわからないことに、ただひたすら邁進できるものなの?」

「それこそは失敗をした際の事を考慮した上で、覚悟を決めて暗闇の中へと踏み込み、突き進もうとするような心構えで臨んでいます」

「そこまでするものなのか?」

「そこまでしなければ、長くは続けられなかったかもしれないですね」


 とその時、雨合羽を着た小学生が数人、足羽達の脇を駆け抜けていく。辺りは少々暗くなっていたが、塾帰りであろうか。

 ばしゃばしゃと、雨をものともせずに駆けていく小学生の後ろ姿。

 しばし、二人はその光景を眺めていた。


「だいぶ暗くなってきましたね」

「今は何時ぐらいだろう」


 足羽はそのように言いながら、ポケットから懐中時計を取り出す。


「いいですね、それ。珍しいアイテムには目が無くて」

「お、ほんと?」

「ちょっと見てみてもいいですか?」

「いいよ」


 足羽は手にしていた懐中時計を彼女に渡した。

 彼女は懐中時計の蓋を開いた。


「この蓋の裏に、家族や恋人の写真を貼らないのですか?」


 それは洋画でよく見られるロケットペンダントと言う名の、登場人物が家族や恋人語りを始めるためのご用達アイテムであろう。

 足羽の所持していた懐中時計は、ロケットペンダントと似たデザインをしていた。


「家族はともかく、恋人についてはわかっていて言っているだろ?」

「これはこれは、失言でしたか」

「まるで知らなかったと言いたげな言い分だなぁ」

「忘れていたのですよ。はい、これはお返しします」


 彼女は足羽に懐中時計を手渡そうとする。と、足羽はそれを受け取り損ねる。

 かつんと乾いた音が鳴り響き、続いてからからという音と共に、懐中時計は車道へと転がり出て行った。

 そこに運悪く車が通りかかる。

 びきっという音が鳴った。

 車が通り過ぎた後には、盤面がひび割れて無残な姿となった懐中時計が残っている。

 彼女が壊れた懐中時計を拾い上げる。


「ごめんなさい……」


 彼女は心底すまなそうな表情で謝った。


「いや、受け取りそこなったのは俺だし」

「すみません。これは修理、或いは弁償します」

「大丈夫だよ。これは単にファッション感覚で持っていた安物だから」


 足羽はそういうと、彼女から壊れた懐中時計を受け取ろうとした。


「いえ、ダメです」


 彼女は頑なにそれを拒んだ。


「んー、それほど気にはしてないから大丈夫だけど?」


 足羽は本当に気にかけていない様子だった。


「大丈夫でも大丈夫じゃないです」


 彼女はよくわからないことを言っている。


「なんだかよくわからないんだけど」

「これは、私が預かっていてもいいですか?」

「ん、まぁ構わないよ。修理にわざわざ出すほどの品でもないし」


 彼女は壊れた懐中時計をバッグへと仕舞った。


「これはいずれきちんとお返しします」

「そこまで言うなら……あまり気にはしなくていいよ」

「ダメです」


 彼女ははっきりとそう言った。


「ん、何か理由でもあるの?」


 足羽は強情な彼女の態度に疑問を感じた。


「あると言えばありますし、無いと言えばないような……」


 彼女ははっきりとしない返事を返してきた。

 足羽としては、これまで見てきた彼女の性格を考えると、何だか不自然極まりない態度に思えた。

 足羽にとって彼女ははっきりとこそ物言えども、白か黒かはっきりしないような台詞を使うようなイメージはなかった。


「とにかく、私がそうしたいからそうするんです!」

「わ、わかったよ! ただ、弁償とか修理とかまではしなくていいから!」


 足羽は彼女の剣幕に押された。


「……ではそれらとは別の方法を取りますね」


 足羽には彼女の言葉の意味が分からなかった。


「それでいいのであれば、それで。何だかよくわからないが」


 足羽としては妥協するポイントがあればそれでよかった。


「わかりました。さて、今日はもうだいぶ暗くなりました。だいぶ雨脚は弱まっていますし、そろそろ帰りましょうか?」

「そうだな、そろそろ帰ろうか」


 二人は傘を開く。

 ぽつぽつと雨が降る最中、二人で再び並んで歩き出す。

 しばらくして橋に差し掛かる。雨の為か、川は増水して濁流となっていた。

 橋を渡りきったところで、


「では、またいつか会いましょう」


 と彼女は告げて、住宅地方面へと消えていった。別れ際に振る手の鈴の音と共に。

 足羽はしばらく彼女の後姿を眺め続け、彼女の姿が見えなくなってから、自分のアパートがある丘の方面へと歩き出した。

 路上で雨水が小川のように流れている。

 足羽は帰り際に夕飯がまだであったことを思い出した。途中にあるスーパーへと立ち寄った。

 彼は現在時刻を知ろうとしてポケットを探る。だが、普段持ち歩いていた懐中時計は手元にない事を思い出す。

 その時になって彼は、自分というものは随分と物に愛着を抱くものだと感じた。

 彼は常日頃より何気なく意識を向けていたものもまた、関心を持っているものだと気が付いた。


第6話へと続く

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