第3話 何もない日々
高架下での彼女との出会い。あれから数週間が過ぎた。
足羽は一人、部屋で寝転がり本を読む。
彼が以前に買ったハードカバーの本は、既に読み終えていた。同じ著者の一作目、二作目にも手を伸ばしていた。
いずれ彼女と再会した時に、話のネタになるだろうという下心もあったが、初めに手にした著者の本が面白かったのもあって、興味を持った事もまた確かである。
そして同一著者のデビュー作の一作目、二作目ともに面白かったようだ。
彼が小説を読むのは小学生の時以来であるが、それほど苦にもならなかった。子供の頃の活字慣れと言うのは、意外と大きいのかもしれない。
彼は同一の著者の出版物を、あらかた読み終えてしまった。数週間もあれば、全て読了することが出来た。
しかし、その間に彼女と再会する機会はなかった。
彼女は高校生であった為、制服から学校を特定することはできたかもしれない。だが、今は成行きに任せてみようと彼は考えていた。
再会の可能性に賭けたつもりだ。その結果が今現在である。
一向に会えない相手の事を考えながら、彼女の『また』と言う一言に期待してしまい、次ぎ会えるのはいつなのだろうかと想像してしまう。
相手が誰なのか、どこに住んでいるのか、いつ会えるのかもわからないのに、たった一言の言葉が余韻として残る。足羽は何も起こらないのがもどかしかった。
休日、彼は何もすることがなかったので、部屋に置いておいた本に手を伸ばした。部屋の中には未読の本がいつも積んであった。
特にすぐに読むというわけではなかったが、気になる本はとりあえず買っておき、部屋の片隅に積んでおいた。
500mlのコーラと、うすしお味のポテトチップスを脇に置いて、徐々に習慣化した読書に耽る。
このような読書スタイルは、紙面にポテトチップスの油などが付いてしまうので、根っからの本好きからすればNGと言える行為かもしれない。
もっとも、あまり育ちのよくない彼はそのような点など気にもしなかった。
その日手にしていたのは推理小説。
推理小説については小学生の頃にも読んでいた。
色々と名作にも触れていたのではあるが、小学生の頃の足羽に推理小説の妙を感じ取れていたかと言うと、おそらくそんなことはないだろう。
記憶を振り返っても、話の内容を明確には覚えていない。
なぜ次々とそれらの本を読んでいたかというと、理由すらも思い出せない。手当たり次第に読んでいた。
当時は活字の世界へとのめり込み、祖父の持つ時代劇のような小説や、純文学などにも触れていた。彼は記憶を振り返ったところで、内容はどれもうろ覚えであったが、本好きと言う自覚は無しに色々な本に触れていた。
当時の足羽にとって、活字の世界こそが全てだった事だけは覚えているようだ。
あまりにもどっぷりと浸かりすぎて、彼の口調は本の影響を受けており、学校では少し浮いていたものだ。
周りからの彼の評価は、ちょっと変わり者という辺りが妥当であっただろうか。
そんな彼ではあるが、読む本の文体の些細な感触、著者の性質と言うか性格と言うか、そのような点には少々好き嫌いがある。余計な言葉で飾らない文体が好きだった。そして婉曲表現が苦手だった。
彼は言文一致に近い地の文の小説などは割と好きだった。考えずともスラスラ読めるので、ストレスを感じない文章を特に好む。
その場合は著者ごと好きになる。
お気に入りの著者の本をいろいろ手に取っていくと、色々な側面が見える時がある。
とあるノベルは、出だしからかなりのハイテンションで、普段の著者のイメージとは違った女の子の様な雰囲気で驚いた事もある。
同じ著者の本の中で、最終巻が上・中・下巻に別れた本にも、それぞれに感情の違いが見受けられた。
上・中巻では激しく荒れていたのだが、下巻では波一つ立たない湖面のような静けさであった。あれは何があったのかと思ったものだ。
最終巻に見たこの流れは、彼の記憶にとても鮮烈に記憶に残っている。何を表現しようとしたものなのかと、彼は考え続けていた。
光天 舞。『文は人なり』とも言うが、足羽にとってはなんとも気になる女流作家であった。
以上の事からストーリーライン、世界観、キャラクター性、物語にはそれら以外の面白さがあるものだと、そう感じた次第である。
この要素は特定の読者層を抑えるために必要なものではないかと分析した。感覚的な部分で読者を捉えれば、物語の枠がどのような形になろうとも、同一の読者に受け入れられるのではないかと予測する。
と、足羽は真面目に考察をしてみたが、別に論文を書くわけでもない。この考察が一体何の役に立つというのだろうかと我に返った。
彼は考察を中断し、手元の本に意識を向ける。
今現在彼が手にしている推理小説は、著者の状態を感じる事は出来なそうだ。物語そのものは辺り触りなく、普通に面白いものだった。だが、それ以上のものは感じない。
彼はぱたりと本を閉じた。高く積まれた本の山の一番上に置く。そしてそのままペットボトルを手に取る。彼は少々気の抜けたコーラを飲んだ。
彼はポケットから懐中時計を取り出す。時刻はまだ十七時ぐらい。そろそろ新しい日課の時間かと考え始めたようだ。
新たな日課。それは散歩。目的は健康の為ではない。
彼は空のペットボトルなどのごみを片付けて、iPodを手に取る。
そして外靴を履いて外へ出て、玄関に施錠した。
その段階になって、彼はようやくポケットに財布と携帯電話があるかを確認した。忘れ物がないことを確認して通りへ出る。
歩くのはアパートから駅前までの道のり。
何の用事もない日であっても、とりあえず駅前まで歩くようにしていた。
彼は心のどこかで彼女にまた会えないかと期待して、毎日散歩を続ける。はじめの頃はそれほど意識をしていなかった。だが、日を追うごとに期待は強まって行く。
風を感じて歩く通り道。
彼はiPodで少し古いJ-POPを聴く。
住宅街の並木道。緩やかな下り坂を歩く。足羽の住むアパートは、丘の上の一角にある。自転車での移動の場合、少々疲れるのが玉に瑕だ。
待ち人のいないバス停の前を通り過ぎる。早朝であれば通勤や通学途中の人が並ぶが、夕方間近の時刻であれば誰もいない。
さらに足羽がしばらく歩くと、彼がよく買い物をするスーパーが見えてくる。彼は普段の食事はここの弁当や総菜で済ませていた。
彼は中でも葱と塩で味付けされた鶏肉を気に入っている。今の彼には特に用はないので、駐輪場に並ぶ自転車を横目にそのまま通り過ぎたようだ。
前方から犬の散歩途中の主婦が近づいてきた。よくこの時間帯に見かける人だった。
彼が散歩をするようになってから、毎日同じ時刻ぴったりの規則正しい生活をしている人を見かけるようになった。普段の行動から、若干性格がうかがえるようでいて面白く感じていた。
と、そこへリンリンと鈴の音が聞こえてくる。どこかで聞いたかも知れない鈴の音に足羽は期待した。
振り返って鈴の音の出所を探す。辺りにはそこそこに人通りがあった。談笑中の女性二人組み・・・は違った。髪形が少し似ていたからもしかして、と思ったが違っていたのでがっかりした。
・・・鞄に鈴をつけた女子高校生の後姿を見つけた。制服は一緒だった。後姿もあの時と同じようだ。足羽は駆け出して女性に話しかけようとした。と、振り返った女子高校生は別人だった。駆け出して話しかけようとした足羽は立ち止まる。人違いで話しかけようとしていたことが恥ずかしくなり、元々進もうとしていた方向へ向きなおす。
足羽は苦笑いした。鈴の音一つで人を探している自分を自覚した。
確かに探している女性の姿を想像して、その姿を探してしまった。
足羽はさらに下り坂を歩き続けた。
丘を下りきったところで大きめの橋を渡る。橋の上より河川敷の野球場を見る。天気の良い日は草野球をしているところを見かける。今は誰も居なかった。
足羽は河川を見る。直近では雨が降っていないので、水位に変わりはなかった。珍しく川岸で釣りをしている人が居た。普段はあまり見かけない。
この河川はたまに
足羽は緊急時には鼈ハンターにでもなろうかと考えたこともあった。だが、モンスターハンターのゲームのように狩りに行くような感覚で、考えなしに始めるような事ではなかったという点だけを学んで終わる。
足羽は遠くまで続く河川を眺めながら橋を渡りきった。
通行人のいない歩道を歩き続ける。
やがて彼はいつかの高架下を通りかかる。これまでも何度も通った場所。
誰もいない。時折、車が通り抜ける以外には何の音もない。沈みかけた太陽が影を大きく作り出していた。
足羽は期待をする程に、落胆もまた大きくなった。
彼はそのまま高架下を通り過ぎる。
あれから幾度、彼はこの場所を訪れただろうか。わざわざ用事を作ってこの場を通る。それが彼の望む結果にはつながらなかった。
足羽は出かけ始めよりも幾分気落ちしながら、駅前へと辿り着いた。
今日も何か用事があったわけではない。とりあえず本屋などを廻るだけ。特に買いたい物は見つからなかったようだ。
足羽は歩き疲れたのでカフェに入った模様。
彼はアイスコーヒーを注文し、ガムシロップとコーヒーフレッシュを入れる。
コーヒーフレッシュは植物油を添加物で白く着色し、香料でミルクの様な味にしたものらしい。
人によっては普通の冷たい牛乳等を入れる方を好むが、足羽はそれほど細かい点は気にしていなかったので、迷わずコーヒーフレッシュを入れた。
足羽はグラスに口を付ける。
彼は一息つきながら、店内にあった週刊誌を開く。ゴシップ記事などを眺めながら、ゆっくりと時間をつぶす。
彼にとって気になるような記事はない。新聞は取っておらず、自室にはテレビが無かった為、おおよそ彼が世の中の出来事を知る為には、週刊誌かWEB上のニュースサイトが頼みだった。
足羽は週刊誌をテーブルの上に置き、店内を見渡す。店内はそれほど混雑しているわけではなかった。
足羽はもうしばらく店内に滞在しようか否かと迷ったが、最終的には帰ることにしたようだ。
彼がカフェを出た頃には完全に陽も落ちて、外は真っ暗となっていた。彼は空を見上げるが、街明かりが邪魔となり、星はよく視えなかった。
街灯が路地を点々と照らす。帰宅途中のリーマンの姿も減ったのだろう。通りを歩く者は少ない。足羽が懐中時計を確認したところ、時刻は二〇時を過ぎようとしていた。
彼は少々長居しすぎたかと考えながら帰路につく。
足羽は再び高架下を通り過ぎる。またしても誰もいない。以前出会った女の子はきっと居ないだろうと思いはしても、心のどこかでは期待をしてしまった。
足羽は河川に架かる橋を渡る。橋の上は照明が少なく薄暗い。彼は時折通り過ぎる通行人を避けながら、橋を渡りきった。
住宅街の上り坂。時間帯が時間帯なので、近場の家から
足羽は空腹感を感じ、途中でスーパーへと立ち寄る。
ちょうどよく総菜や弁当のタイムセールをやっていた。彼は三割引きの酢豚弁当と緑茶の500mlのペットボトルを買った。
足羽はビニール袋を引っ提げて、自分の部屋の前へと辿り着く。彼は玄関の鍵を開けて自室へ入る。中は当然真っ暗。誰もいない。
足羽は部屋の中央にビニール袋を下ろす。緑茶のペットボトルを冷蔵庫に入れる。風呂上がりに飲む予定だろう。
彼は弁当をビニール袋から取り出し、電子レンジにかけた。弁当が温まるのを待つ間に、一〇袋入りのインスタント味噌汁を冷蔵庫から取り出した。
足羽はお椀に調理みそを入れ、湯沸かし器の熱湯を注ぐ。彼は割り箸で調理みそを溶かす。味噌汁の準備ができた頃には弁当も温まったようだ。
足羽は今日も何もない一日であったと振り返りながら、酢豚弁当とインスタントの味噌汁で夕飯を済ませる。
生活に劇的な変化をもたらす出来事など、まずないのだろうと彼は感じた。以前の何も変わり映えのない生活に比べれば、ほんの些細な楽しみがあるだけましなのかもしれない。
……だからこそなのだろうか。この時の足羽は、どこか空虚さと焦燥を感じていた。
数日が経過した頃。
彼女と遭遇した出来事は何だか現実感が薄い為、足羽は自分の白昼夢か妄想ではないかとも考え始めた。彼はわけのわからない迷いに身悶えしていた。
彼がそんな迷いを抱え始めた頃であっただろうか。
駅前を歩いていた時の事。
「あっ、お久しぶり」
と、そんな風に急に声をかけられた。声がした方を向いてみると、例の彼女だった。
手を振って駆け寄ってくる。リンリンリィンと彼女の歩みと同じテンポで鈴がなる。
探していた時は見つからず、相手の方から先に見つけられた。
何かを探している時、諦めたり忘れかけた頃に見つかることがよくあるが、あれは何なのであろうかと思う。
「おっ……確か君は」
足羽は台詞に『確か』などと付けてはいるが、誰なのかは確信していた。ずっと意識していたと思われるのもあれなので、今思い出したように演技をした。
「『また』会いましたね」
そういう彼女の姿は以前と変わりがなかった。
「ああ、『また』会えるとは思わなかったよ」
などと彼は言ってみたが、探していたなどとはかっこ悪い気がして言えない。そんな足羽の考え方もひどいものであるが。
「あれから、あの著者の本は読み終えたのですか?」
「読んだよ。一作目、二作目にも手を伸ばしちゃった」
「じゃあ、気に入ってもらえたみたいですね」
彼女の台詞は、まるで著者側の立場での発言のようだ。余程著者に入れ込んでいるのだろう。
「始めに買った本が面白くて気に入ったんでね」
本を手にした動機は色々あれど、著者の本が面白かった事に間違いはない。
「じゃあ約束ですから、感想を聞かせてください。お時間大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。では、すぐそこの喫茶店で」
足羽はなぜか、つい口調が丁寧気味になってしまった。
「ええ、いいですよ」
彼女は何の躊躇いもなく、足羽の誘いに乗ってくれた。
足羽達は近場の喫茶店に入る。
窓辺の席に座る。足羽は女の子と喫茶店に入るなんて初めてだと気が付いた。
足羽はホットコーヒーを、彼女はローズヒップティーを頼んだ。
注文をした後、足羽は何の話題から切り出そうかと考えていた。
そんなことをしているうちに、
「あれから結構日が経ちましたが、その間に新刊で欲しいのがなかったので残念です」
彼女が唐突にそのように切り出す。
と、彼女の台詞を聞いて足羽がふと気が付いた。彼女が本好きであるのはわかっていたので、本屋で時間をつぶしていれば見つかったのではないだろうか、と。
ネットでも本を買えるが、本屋に姿を現す確率は高そうだった。
対象人物の人間観察の不足。足羽は推理小説の探偵キャラにはなれそうにないなと感じた。
と、足羽が考えたところで、彼はあえて聞いてみることにした。
「新刊を探す時、すぐ近くにある本屋で本を買うの?」
「ええ、直接手に取って質感を感じたいですし、本屋特有の匂いも好きですから」
予想通りの回答だった。
「本屋はこの辺りだとあの店しかないのが残念だよな」
「あの店だけでもいいじゃないですか。品揃えはそれなりにあるし、新刊の入荷もこまめにやっていますから」
新しい本の発売日に店まで探しに行って、無かったというのは結構残念なものだろう。
「そうだな。あの本屋が無ければ困るし」
「そうですよ。欲を言えば、神保町レベルの古書の取り扱いも望みたいところですが、それはさすがに高望みでしょうか」
足羽も以前一度だけ神保町に行ったことがある。
江戸時代後期位の古書くらいであれば、探そうとしなくても簡単に見つかるので、少々和風ファンタジーな世界に紛れ込んだかのように錯覚したものだった。あの時に一、二冊くらい何か買っておけばよかっただろうか。
古書は表紙を見るだけでも面白いので、足羽は少し後悔している。
と、そこへ注文していた飲み物が届く。
卓上からモカの香りとローズヒップの香りがたつ。流石に両方混ざると香りは台無しであろうか。
足羽達は会話を一時中断し、飲み物に口を付けた。
足羽はコーヒーには砂糖を入れる方であったが、少し格好を付けてブラックでコーヒーを飲んだ。格好がつくかつかないかは別として、そのような行動をとった。その些細な自己演出が、一体何になるのかはわからない。
足羽はモカのいい香りを最大限に堪能するが、やはり苦い。
「神保町の本屋は古書をよく取り扱っているよね。流石に他の町であのようなラインナップの店はあまり見かけないから、高望みと言えば高望みかもね」
足羽は中断していた会話を繋いだ。
「やはりそうですよね。だからこそあの町まで行く事もあるわけで」
彼女は随分と本そのものが好きなようだった。
「君は古書を読めるの?」
「完全に読めるわけではないのですよ。最近勉強を始めまして」
足羽は彼女の興味が幅広いものだと感じた。いくら本好きでも、古書を解読して読もうという人は中々いない気がする。
「学校の課題か何かでやらされているのか?」
一応その線も考えられたので、彼は聞いてみることにした。
「そうではないのです。趣味でやっているのですよ」
趣味はと聞かれて、古文書の解読と答える女子は果たしているのだろうか。だが、目の前にいるのだろうから、実在証明は三秒で完了したわけだ。
「そのうち歴史書とかに手を出すのかな」
「もう手にしていますよ」
なるほど、既に彼女は歴女入りしていたようだ。
「君の部屋の本棚が、一体どういう姿をしているのか気になるよ」
足羽は一体どういう本が、どのように並んでいるのか気になった。
「んっ、それは遠回しなアレですか?」
遠回しなアレとは何だろうと、足羽は本気で考えた。
「えっ、何が? 多分、なにか勘違いしていると思うよ」
「んっ、天然か、それともうまくはぐらかしましたか」
彼女がじーっと足羽の顔を見ている。
「まぁ、そういう事にしておきます」
そして、彼女はそう言って一人納得した。
足羽は彼女の動きが気になったが、つつきに行って藪から蛇が出ては困ると判断した。そしてさらりと流しに行くことにした。
「あ、そうだ。本の感想を聞かせてくださいよ。すっかり忘れていました」
その予定で喫茶店に入ったのだった。足羽もまた忘れていた。
「この間の本だったか。確か、高校生の同級生が次々と変死していく話。ジャンルはミステリーだったかな」
「三作目はそうですね。……あの話はどのように感じました?」
「昨今は若者の孤立化も増えているし、社会風刺が利いた作品だなって思ったよ」
陰惨な展開と世界観と、何だか救いがない話であった。それがラノベのように書かれているのだった。
「社会風刺……そうですか。まぁ、そのようにも見えますよね」
彼女は心外そうに答えた。
「そういう君はあの小説をどのように見たのさ」
「……そうですね。あの物語のキャラクター達は、あくまで変死したように書かれていましたが、私の見立てでは自滅させられたように見えました」
作中での出来事はそのようには書かれていなかった。どういう読み方をしたのかわからなかった。
「よくわからないな。そのように受け止められる部分は見られなかったが」
「おそらくは、視点と発想の次元を一つ上げれば見えてくるかもしれないです。それは私がそのように感じただけかもしれませんがね」
彼女と話をしていて、足羽にはどうにも合点がいかなかった。視点と発想の次元を上げるとは、メタな表現か何かなのだろうか。それならば作者は何かしらの体験談をもとに、そのような話でも書いたというのだろうか。
「変わった読み筋で本を読むんだね」
「なぜか昔から、他の人とは違った感想を持ってしまうのですよ」
「本の読み方も人によって違うのかもな。目的が違えば、自然と拾うようになる情報が違うのと同じように」
目的意識を持つと、問題解決の為の情報を無意識に拾うようになるらしい。足羽も誰かから聞いたような気がした。
情報の取捨についてはロールシャッハテストなどで見受けられるように、異なる複数の情報が同時かつ大量に展開された場合、受け手は自分に近しい情報を拾い上げていくケースが強いようだ。
「本を読む目的が他の人とどう違うのかは、私にはわからないです。意識したこともないですし」
それはそうだろうと彼は思った。
「そういえば、この著者の他のシリーズは読みました? 最新シリーズなのですよ」
「それも読んだよ。なんだか情報の洪水みたいな本だったな」
「特徴的な設定として、親に作られた子という存在がいたね。お前はこのようにあるべしと教え込まれ、そのようにあり続けようとして苦悩する主人公の話」
足羽はふと、言葉をわざと置き換えた。その設定は主人公以外にも様々な所で散見された。どうも著者が抱えている根本の問題とも思える設定。
「そうです。人造人間のように描かれたその話ですね」
「んー、君の先ほどの話を反映させてみた方がいいのかな」
視点と発想の次元を一つ上げる、という言葉を彼は思い出す。
「そこはご自由に」
折角なのだから、足羽は彼女からの命題として受けてみることにした。
発想、あるいは視点を変えて考えてみる。
一、二分の静寂。提喩と隠喩の関係、そこに一時的な情念等の違う単語が来ると、何だか言葉の用途がすごく変わってしまう気がする、などとあれこれ模索する。
「酷く難しい問題だが、主人公は自分自身の在り方についてを悩んでいたよね。本当の自分とは何なのだろうかと」
「他者から作られたものではない、本来の自分についてを悩み続けていましたね」
「だよな。アンドロイドあるいはロボットのように行動をプログラムされて、そのように動かされているように振る舞うの主人公の悩み」
「はい、続きをお願いします」
「親から教えられた人間像をマニュアルとし、まるで演じるように生きている人の話を、様々な姿かたちで書いていたような気がしたよ」
そのように在ろうとして存在する者。
「なんだか心理分析をしているみたいな読み方ですね」
「確かに変な感想だな。何についての感想なのだろうか」
これを意図して設定したのだろうか。何とも気にかかる部分である。しかし、様々なシリーズを通して見かける設定だけに、彼は気にかかっていた。
と、足羽はそんなことを考えながら、一体自分は何についての感想を述べているのだろうかと思った。
「その感想、実際のところはどうなんでしょうね。まぁ、真実など誰にもわからないでしょうが」
まるで悲しみでも伝えるかのような物語だなと、ふとそう思った。著者がどこかペシミストを思わせるところもあるせいだろうか。
と、そこで疑問が一つ湧きあがる。
「なんだか、ネット上の著者のイメージとは大きく異なるような、普遍的な悩みを抱え続ける人間みたいに思えるんだが」
「ネット上の著者情報、あるいは読者層の感想と、自分が直接著作物を手に取って感じる印象は異なりますね」
「巷だと、何だかすさまじい書かれようだが……」
「ネットの情報を鵜呑みにするのも問題がありますね」
「それなら出所不明の情報等ではなく、自分の感性を信じるかな。たとえ一億二千万人がどうあれ、どう思おうともね」
「人知れずこんなところでそんな男気を見せても、なんともならないですよ?」
「いや、そういうつもりじゃあないけどさ。少なくとも、人を判断するのに他者の意見など鵜呑みにせず、自分自身で考えるよ」
自分自身の感性・価値観を信じなければ、おそらくはこの情報溢れる社会の中にあって、激流に流されるような状態になるのではないだろうか。
そしてまた、人は常に状況によって姿かたち、在り方、考え方を変える。本当の意味での正しい人物イメージとは存在しないのではないかと思う。
パーソナリティとは、TPOに応じて使い分ける演技の一つ。
「世の中には悪意や敵意で情報操作しようとする者など、ごまんといますからね」
足羽はなんだか思わぬ方向で、真面目な話になってしまったものだと思った。
「その手の輩とは縁など持たないようにしたいものだな」
「そうはいかないのが現実でしょう」
「それもそうだな」
関わる人間を必ずしも選べるとは限らない。彼は『人の世の煩わしきことよ』などと、斜に構えて考えてしまう。
「本の感想から、思わぬ話に広がったな」
「私にとっての本とは知識を得る媒体だけにあらず。人にとっかかりを作るための媒体でもあると思います」
「そのとっかかりとは何だい?」
「人が情報を拾うためには、その人の精神がツンツルテンではダメなんじゃないかなって思いまして」
「何だかイメージしにくいのだけど」
「表面がつるつるの石に砂をかけても全て流れ落ちるでしょう。凸凹した石に砂をかければ、凹凸に砂は残る。そんな感じです」
わかるようでいてわからないような、足羽はもどかしい感覚を抱く。
「本はその凸凹を作るきっかけにもなるってこと?」
「私はそのように考えています。もっとも、本に限らずどんな
「ん、心がけ次第ってことか」
「『性相近し、習い相遠し』というものではないでしょうか」
「どういう意味?」
足羽には聞いたことがない言葉だった。当然意味を知らなかった。
「人が生まれ持っているものにそれほど差はないが、教育や生活習慣次第で大きく差が出るということわざです」
「へぇ、一つ勉強になったよ。そういう意味では生活習慣次第で、長年経過した暁には圧倒的な差が出そうだな」
壮年、老年の人物の在り方を比較するにつけ、これは体験的に感じるところだった。
先達に学ぶとは、当人の言っていることをそのまま鵜呑みにしろと言う言葉ではないと考えている。
「そうかもしれないですね」
何だが文学的な会話なのか何なのか、足羽には全くわからなくなってきた。
気が付いたらだいぶ長く話し込んでいたようだ。外を見ると暗くなっていた。
「あっ、もうこんな時間だ。そろそろ帰らなきゃ」
「今日は楽しかったよ。なんだか勉強会でもしていたかのような気分でもあるが」
「予想していたより楽しかったです。機会があれば、またお会いしましょう」
「またあえて連絡先とかは交換なしで?」
「そうですね。昨今は携帯電話とかSNSで、人は簡単につがなることが出来るようになりました。あえてその流れに反してみるのも面白いじゃあないですか? 本当に『縁』があれば、いつかまた会えるでしょう」
「じゃあ、その考え方に乗ろうかな。今気が付いたんだけど、お互い未だに名前を知らないままだね」
「登場人物AとBみたいでいいじゃないですか? 名前なんて記号です。偉い人にはそれがわからんのです」
彼女はさりげなくエンタメなパロディネタをほうり込んできた。意外とお堅い本だけを読むわけでもないようだ。
だが、名前が記号とは暴論とも言えよう。
「呼び名が不明では面倒な気がするが、なら俺は『君』と呼ぶことにするよ」
「じゃあ、私は『あなた』と呼びますよ?」
「なんとも不思議なやり取りだな。まぁ、とりあえずそれでいいか」
彼女は席を立つ。彼女が立ち上がろうとテーブルに手をついた際に、コロリンと鈴がテーブルの上を転がる音がした。
「私はよくこの近辺に、特に本屋に居ますので。では、またお会いしましょう」
そう言って彼女は去って行く。足羽はその後姿を見送った。
この時の足羽は、久しぶりに充実した一日に感じられた。
第4話へと続く
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