第4話 興味の広がり
足羽が彼女と再会した日から数日が経過した。
彼は彼女の『性相近し、習い相遠し』と言う言葉が、記憶の中に残り続けていた。生活習慣の中に何の蓄積もなければ、その差は時間と共に大きなものとなっていく。そのような話であった。
その差は目に見えないので体感できず、そして自覚することも不可能な損失だ。そう思えば、何とも恐るべき問題なのではないだろうか。
足羽は彼女と出逢わなければ、その事を全く考えもしなかったことだろう。そう思えば彼女との遭遇は、足羽にかなり大きな影響をもたらしたのかもしれない。
とにかく、日々の過ごし方に変化が起きたと感じる。
足羽は好きなジャンル以外の本を手に取るようになる。何かの勉強のためになどではない。何となく興味を引いた。ただのそんな単純な動機で手にした本もある。
それと彼はことわざ辞典などの類も読むようになった。
理由の一つは読んでいる本の中に、意味を知らないことわざをたまに見かけたからだ。足羽はそれをわからないままにしておかないことに決めた。これまでの彼は前後の話の流れから、おおよその意味合いを脳内で保管して読んでいた。知らない部分を読み飛ばすことは無意識にやっていたが、これでは何も身に付かないだろう。
なにより『彼女』がことわざを引用することを知った以上、ある程度はことわざも把握しておきたかったようだ。毎度毎度わからないでは何だか格好悪いかなと、そんな風に思ったのが行動のきっかけたろう。おそらくはこちらが本命の理由だ。格好を付けるためなら、いかなる労力も惜しまない。そんな彼はちょっとダサいだろうか?
結果として無為な日々からは遠ざかった。
新しく何かを始めることは、次なる何かへの興味関心へとつながる。足羽は四字熟語や外来語の辞書、そして普通の国語辞書も買った。
足羽は辞書を複数見比べたとき、辞書の編纂者によって面白い辞書とそうでない辞書があることに気が付く。何の違いで感じ方が変わるのかはわからないようだ。
彼が学生時代に辞書を買った時は考えなしに選んだ為、もう少し辞書を選べば成績も違ったかもしれない。今と昔では動機と行動原理が全く違うので、結果に反映されたかは定かでないが。
足羽は辞書に手を伸ばしながら、同時期に三国志演義を読んでいた。
もともと彼が三国志を知ったきっかけはゲームだった。キャラクター同士のやり取りが面白かったので、気になる武将のウィキペディア情報を調べた事が発端となる。
まず初めに魏の武将、夏候惇を気に入って、関連書籍から蒼天航路という漫画を知った。一般には悪役として描かれる曹操であるが、蒼天航路という漫画では主役として描かれており、足羽はその乱世の梟雄をとても気に入った。一般的なイメージとは異なる人物像だった為、そこで原典の方も読んでみようと考えて手にした次第だ。
何に付けてもこの梟雄はどこか人間離れした思考をもって、周りを扇動していく。
話が逸れるが、『扇を動かす』で『行動を起こすように煽り立てる』という意味となるようだが、語源はどのようなものなのだろうか。
『扇情』では『感情、情欲を煽り立てる』という意味となり、何かを促す用途で使われている気がする。
『扇』の一字も奥が深いものだと、辞書を引いて感じた。字の使い方、受け取り方によって見え方も変わってくるのだろう。だが『扇状』では何も反応はしないだろう。
とかく、何か一点興味を持つ対象を持ったところ、このように転がるように彼の関心の対象が広がった。
彼がそのような日々の過ごし方をしていた頃、あっさり彼女と再会した。
日曜日の早朝。足羽はしばらく自室に引き籠って本ばかりを読んでいたので、気分転換に無目的で外へ出た日の事。
橋の上で突如背後から、
「もーにん」
と、声をかけられた。
彼が後を振り返ると、私服姿の彼女が居た。黒地のワンピースを着ていた。いつもの鈴の音が聞こえないものだと思ったら、彼女は音が鳴らないように手のひらで鈴を握っていた。後ろから忍び寄るつもりだからそうしていたのだろう。
「あれっ、おはよう」
足羽にとって予定外だったので、彼は少し動揺してしまった。彼はコンビニに行くようなラフ過ぎるサンダル姿をしていた為、なんだか少し恥ずかしかったようだ。
「びっくりしたなぁ。いつもの鈴の音がしないんだもの」
足羽は彼女のささやかな努力を汲み取って、あえて鈴を話題に出した。
「ええ、友達に同じ事をしようとしたら、鈴の音でバレちゃったから。今回はちゃんと鈴の音を隠しました。それより珍しいですね。こんな時間帯に見かけるなんて」
確かに足羽は夜行型であり、早朝から外を出歩くことはまずなかった。
「朝は苦手なものでさ。それに生活スタイルは夜寄りなんだよ」
「ですよね。土日だけではなく、平日の通学途中も見かけることはなかったですから」
今までは足羽と彼女の行動の時間帯が合わなかったようだ。それでは足羽がいくら探していても見つからなかったわけだ。
「そういえば今日は日曜日か。忘れていたよ。だから今日の君は私服なんだな」
足羽は彼女の制服姿を見慣れていた為、意外さと新鮮味を感じた。
「そうなのですよ」
彼女はワンピースの裾をつまんでふりふりさせた。
「今日はどこかへお出かけなのか?」
「いいえ、違いますよ」
「もし良かったら、橋の上で立ち話もなんだし、河原の方へでも降りてみない?」
彼女は同意して、二人で河川沿いの土手の上を歩く。
河原まで下りきる途中に、大きな石が並んである場所があったので、その場で座ることになった。
緩やかな傾斜の土手の上。石に座り空を見上げる。西から風吹き雲は東へ。風が吹き抜け、地面の草が波打つ。
暖かな日差しが照り付ける中、しばし風の流れを感じ続ける。
彼女は風で乱れそうになった髪型を、軽く手で抑えていた。
「あれからどうお過ごしだったのですか?」
初めに彼女から話を切り出してきた。
足羽はことわざ辞典等を買って、色々と勉強の真似事をしていた事は言わなかった。
勉強をしていますアピールはせずに、さりげなく学んだことを披露する方が、スマートであろうと考えた結果だ。
足羽はわりと自分の考え方はしょうもないなぁと、そんなことを思わなくもなかったようだ。
「三国志演義を読んでいたよ」
「ほほう、時代小説、あるいは通俗小説の方ですか」
「ん? あれって、時代小説だったの?」
足羽が原典として読んでいたのは、あくまで歴史的事実を知る為であった。小説では脚色などが施されたものである。その場合、原典と言う意味では正しくない。
「そうですよ。正史に基づいて黄巾の乱から呉の滅亡までを収めたものでして、面白おかしく誇張するような在り方は控えられた小説です。正義の劉備玄徳と悪の曹操。一般的によく知られた対立構造を持って書かれています」
足羽は三国志の歴史背景を知るための原典として、三国志演義を読んでいた事は黙っていようとした。恥ずかしいことこの上ないからだろう。
「へぇ、そうなんだ。漫画とかゲームで興味を持ってね。まだ読み始めたばかりなんだ。しかし意外だね。海外の歴史ものにも興味があるんだ」
足羽はだいぶ読み進めていたが、知らないふりをしておこうと判断した。
「歴史を知るのに、国境線など関係ありません」
世界史なら確かにそうであろう。
「些細な問題か」
「現在の国境が引かれたのは近代に過ぎないです。歴史を紐解けば、国境線などいくらでも変わってきましたし、国の興亡など数え切れずです。国境線は物理的にひかれたものではなく、人の意識に引かれるものですので、無いと思えば無いのですよ」
「無くてもよいものを生み出すのが人間って結論でOK?」
「何だか話が飛躍している気がしますが、そんなところでしょうか」
だいぶ話がずれたのは違いないだろう。だが、日常会話なんてそんなものじゃないだろうか。目的をもって会話をしているのでなければ、話題はころころと変わっていく。それこそ真面目な議論をしているわけではないのだから。
土手の上の道を、ジョギング中の女性が駆けていく。足羽は会話の合間に、その姿を眺めていた。
「ここの川岸、結構人が通るんだね」
遥か向こうまで、何もない川岸の道。ジョギングや散歩中の人の姿がちらほら見える。のどかな風景。
「私は普段ここを歩くことはないのでよくわかりませんが、橋はここから近くにある一か所しかないので、必然的にこの近辺に集まるような人の流れになるのでは?」
地理的な動線の問題なのであろう。
「そう言われれば納得だな」
「あなたはこの辺りに住んでいるのではないのですか?」
「そうだよ。この街に引っ越してきてもうじき一年が経つかな」
足羽は高校卒業と同時に、今いる街で一人暮らしを始めた。
「その割に地理には疎そうですね」
足羽はあまり出歩くタイプでもなかった。買い物やバイト先に行く道も、いつも同じ道を通っていた。同じ時間に起きて、同じ道を通り、同じ場所へ行く。ロボットみたいな生活を送っていたようだ。
「いつも決まった場所にしか行かないからな。散策とかはあまりしないよ」
「では、普段は何をしているのです?」
「最近は本を読むようになったから、時間を潰す時はそちらがメインかな」
「それは何よりですが、ではそれ以前は何を?」
彼は何をしていたのだろうか。全く思い出せなかったようだ。どのような時間の使い方をしていたのかわからない。
「あれ、思い出せない。俺は何をしていたんだろう?」
「私に聞かれても困ります」
「そりゃそうだ」
時間の使い方を意識しようが、意識しなかろうが、時間は消費されていく。
「ま、俺の方はそんな感じで。それより君は普段何をしているのさ」
「……何がどんな感じなのでしょうか。まぁ、いいでしょう。その点は軽く流します。私ね、小説を書くのが好きなのですよ」
「読むのじゃなくて、書くのが趣味?」
「読書も面白いけれど、書くのはもっと楽しいから」
趣味の話題で読書と答える人は珍しいわけではない。本当に読んでいるのかどうかは別であるが。
ただ、書くのが趣味と言うのは、足羽にとっては初めて聞く趣味だった。
「作文くらいなら誰でもできるからな」
読書感想文なり、弁論大会の論文なり、何かしらの作文の経験は誰でもあるだろう。
「書けそうと思うのと、書きたい文章を書けるかどうかは全く別ですよ?」
彼女は少し向きになって反論した。彼女の趣味の話だからだろうか。何だか熱心に作文の話をしてくるようだ。
「書きたい文章?」
「そ、書きたい文章。文章と言うよりは文体かな? 著者の個性が文章の表現と一体となって、独自の傾向や雰囲気を持った感じです」
「あー、作者によって何だか雰囲気が違うよね」
雰囲気と言われれば足羽でもわかった。
「その雰囲気を作るのがとても難しくて」
彼女は少し困ったように言った。
「それって才能がないと無理なんじゃないのか?」
「どうかな。私は才能って言うものは信じていないから」
才能を信じない……最後に物を言うのは才能なのではないだろうか。
「信じるとか信じないって類のものじゃないと思うんだけど」
「才能が有るのか無いのかなんて、やってみなければわからないでしょ」
足羽は、確かにそうかもしれないと納得した。
「トライ・アンド・エラーって事か」
英語圏においてはトライアル・アンド・エラーと言われている。
「まずは試みる。才能って生まれ持っているものじゃなくて、見つけ出すものだというのなら賛成かな。見つけ出すにしても、元から持っているものである事に変わりはないんじゃないのか?」
「それに元から持っていたり、経験で開花することも考えられるけれど、それって下手すると本人の意思とは関係ないでしょ。本人が望まない才能を持っているかもしれない。だから、私は才能と言うのは信じていない。無くて当たり前だと思っている」
望まない才能だなんて、それこそ見つけようがないだろう。自分がやりたい事と才能がマッチするなんて、一体それはどんな確率の話になるのだろうか。
「才能がなくても頑張っていると言うような意識はないよ? 自分が心底楽しいって思えることをやっているだけ」
だからこその趣味なのだろう。
「小説家になるのが夢なのか?」
「それとは少し違うと思っているのですよ」
「違うって何が違うんだ?」
「語るだけなら夢かもしれないけれど、行動に移していればそれは現実問題だから。そう、それはいうなれば目標」
目標、到達点だろうか。達成するべきラインがあり、行動を起こしていればそれは解決を図る問題に過ぎないわけだ。夢物語とは違う。
足羽には夢中になれるようなものはなく、当然とでもいうのか夢もない。だから彼女が羨ましく感じたようだ。
子供の将来の夢と言えば、プロ野球選手やら宇宙飛行士やらと並ぶものだろうか。
だが、そのうちの何人が本当にプロ野球選手になったり、宇宙飛行士になれるだろうか。だが、なろうと思ってなれるわけでもない。
なる気が無くてもなるのは流石にいないだろう。
それともいずれは気軽に宇宙旅行や月面着陸をやって、帰ってきましたなんて時代が到来する日はあるのだろうか。
「可能性に賭けていれば、その間は面白いかもしれないな」
何かに夢中になれるのだから、だ。
「可能性なんてものはないのですよ。あるのは現在の能力に応じた、アウトプットと言う現実だけです。未来が云々と言う前に、今出せるものを向上させる方策でも考えた方が建設的というものです」
目の前のこともままならないのに、未来がどうこうなどないという事だろうか。
「何もできずに終わるなら、何もしないほうがいいじゃないか」
「スティーブ・ジョブズ等の天才と呼ばれるような者。あるいは夢や目標を叶えた人たちと言うのは、自分の理想を追い求めるロマンチストでもあり、現実的な問題を提起し解決を図るリアリストでもあります。ロマンチストなだけならただの夢見る人。リアリストが過ぎればただの批評家、評論家気取りに過ぎず。一番ダメなのは、それらのどれでもない何もしないカテゴリーの人達ではないでしょうか」
「結局は実現できず、時間の浪費に終わることの方が多いんじゃないのかな」
彼は自分で言いながら、自分自身を随分と悲観主義者だったものだと感じた。
「何をするにも時間や労力の投資は必要ですよ。それに、寝るにせよ食事するにせよ、仕事にせよ遊びにせよ、人間がやることで時間を消費しない事など存在しないじゃないですか。命はこの世に滞在できる時間の長さとも取れますが、およそ人のすることで命のかかっていない行為は存在しないと私は考えます」
「時間と命の関係は等式みたいなものかな。人に与えられた時間に限りがあるのなら、下手なことに時間を割けないじゃないですか」
「『雲に梯、霞に千鳥』なんてよくある話かもしれませんが、うまくいく保証があるから始められることなど、一体どれだけあるというのです?」
彼は彼女に質問を投げかけられたが、台詞の中に意味を知らない言葉があった。質問に質問で返すのは問題があるだろうが、先に意味を確認しておいた方がよさそうだ。
「『雲に梯、霞に千鳥』ってなんだっけ?」
「望んでも実現できないと言う意味のことわざですよ」
彼はことわざ辞典で見かけたような気がしたが、どうにも思い出せなかった。
「ことわざ辞典を買ってみたんだが、なかなか身に付かないものだな」
「それは『食らえどもその味わいを知らず』というものでしょうか」
「集中していないと身に付かないということわざか。それは覚えていたわ」
食べ物に絡んだことわざだったので、足羽は何となく覚えていただけであるが。
「ともかく何をやるにも、うまくいくかどうかなど誰にもわからないじゃないですか。それは恋愛などでも同じでしょう」
結果がどうなるかは、神のみぞ知るというやつだろうか。恋愛で例えられても、彼には答えを返し辛かった。
世の中には振られる事を目的とした恋文を、わざわざ女性へと送る男もいる。それで元の生活へと戻ろうとするのだろう。もっとも、それは相手に対してはとても失礼な行動ではなかろうかと思う。最初から諦め気分なら、はじめから何もしなければいい。すでに腰が引けているのだ。そんなことをするくらいなら、はじめから最善と最良を求めた方がいい。
「誰かに告白したことはないから何とも言えないけれど、そんなもんだろうな」
「そういうものなんですよ」
足羽は空を見上げた。太陽が随分と高くまで昇っている。
そろそろ昼時かと思い、彼は懐中時計を取り出した。
「んっ、珍しいものをお持ちなんですね」
彼女が興味深そうに覗き込んできた。
「これ?」
足羽はそう言って懐中時計を彼女に見せた。
「ええ、そうです。スマホがあれば時間はわかりますし、時計を所持する事自体が珍しい気がしますので」
「懐中時計を使う人もあまり居ないだろうね」
「だから尚の事珍しいですね」
「まぁ、ファッションで使っているかな」
「ファッションでもあまり使う人は居ないと思いますよ?」
「変わったものが好きなのさ。それよりもうじきお昼になるけれど、どうする?」
足羽は手元の懐中時計を確認する。時刻は一二時になろうとしていた。
「ここの近くにイタリアンレストランがあるので、そこはどうですか?」
足羽はイタリア料理に苦手なものの覚えもなかったので、特に反対する理由はなかった、が。
「洒落た感じの店は苦手なんだけど」
とりあえず反対意見を出してみた。ラーメン屋や牛丼チェーン店に馴染んだ男には、なんとも近寄りがたい雰囲気のお店がこの世には存在する。
「うあっ、何の遠慮もなしに却下された。そのお店は洒落ていると言えば洒落ていますが、ではあなたがどこか良いお店へと、私を案内してくれるんですか?」
良いお店の基準が、彼女と足羽とでは確実に違う事だろう。
「さっきのお店でOK!」
彼はあっさりと前言を撤回し、彼女の意見に乗ることにした。
足羽の本来の予定にはなかったが、彼女と一緒にランチを取る運びとなった。
彼女の先導で店を目指す。
川沿いから歩いて一〇分程が経過したであろうか。
彼女の案内でチェーン店などではなく、個人経営のイタリアンレストラン店の前へと辿り着く。
店の構えは緑色の屋根に、でかい看板が付いていた。普段の彼であれば、まず来なさそうなタイプの店であったことは間違いない。
お店の中に入ったところ、お昼時であった為か店内はそれなりに混んでいた。だが、空席待ちをすることはなかった。
二人で最奥の席に座る。
ほどなくして、メニュー表とお冷が運ばれてきた。
「このお店は初めてなんだけど、おすすめは何なんだろう?」
「石焼かまどで焼いたピッツァですね。パスタも悪くないですが、このお店でと言うならばピッツァがおすすめです」
「へぇ、君は何を頼むんだ?」
「私はサーモンとほうれん草のホワイトソースパスタのランチセットを頼みます。パンとスープが付いてくるので丁度いいですよ」
「じゃあ、俺も同じものにするよ」
彼は『同じモノ』でと言う、一番無難な選択肢を選んだ。
卓上のボタンを押し、ウェイトレスを呼ぶ。
二人で手早く注文を済ませた。
「あまり食べない方なんですか?」
彼女が唐突に尋ねてくる。
「ん、自分では人並みだとは思うけど」
普段からあまり量を食べるわけではないので、そのような質問自体が意外だった。
「男の人って、もっと食べると思うのですよ」
彼女の基準なら男子高校生だろう。食べ盛りの年齢ではなかろうか。そこと比較されれば、当然彼女の様な感じ方になるだろう。
「俺の周りにいる人は、平均的に食が細いのかもね」
彼のアルバイト先は中華料理屋であるが、職場の人は皆よく食べるかと言うとそうでもない。基本的には全員食事は手早く済ませる方向だ。
「普段はどのような食事をしているんです?」
「いつもはスーパーの弁当とかカップラーメンやカップ焼きそばかな。後はアルバイト先の中華料理屋のまかない料理だよ」
一人暮らしの男としては、大体こんなものではないだろうか。取り立て珍しいわけでもなかろう。
「あまりバランスが良い食生活には思えないですね」
「そういう君はどうなのさ?」
「家ではお母さんが料理を作ってくれるので。それ以外は特に何も」
彼女は高校生だった。親の料理が中心で当たり前か。
いや、共働きの世帯などは子供が自炊、あるいは足羽のような食生活を送る子供もいることだろう。
「君は料理をできるの?」
「いえ、できません。料理は苦手です」
彼女は力強く答えた。この様子だと、本当に苦手なのだろう。
「かなり苦手なのを強調するね」
「いつも目分量でやって失敗するのです」
性格が大雑把な人がよくやる失敗だろうか。
彼女と話をしているうちに、注文していた料理がやってきた。
卓上に料理が並ぶ。
「「いただきます」」
二人そろってのいただきます。
まずは添えられたスープへ手を付けた。
足羽はスープを口へ運ぶ。どうやらブイヨンスープのようだった。
「ここのパンも自家製の焼きたてパンなので美味しいですよ」
そう言って彼女はパンにバターを塗って食べ始めた。
足羽は誰かと話をしながらの食事は久しぶりだった。
『食らえどもその味わいを知らず』とはならないようにと思えども、よく考えれば女性と食事をする事など初めてであった為、どうにもこうにも落ち着かない。
彼も彼女に倣ってパンを食べることにした。
焼きたての温かいパンを手に取る。パンを軽くちぎった。添えられたバターを塗る。そしてそのまま口に放り込んだ。
香ばしいパンの香りと、軽く溶けたバターの味が口の中に広がる。
「そうだ。イタリアレストランでも、リストランテとトラットリーアと呼ばれる2種類がありますが、どちらがどのように違うかご存知ですか?」
自分の生活の場では、どちらも聞き覚え自体がなかった。
「いや、寡聞にしてまったく」
「リストランテはフランス式のスタイルを取り入れた格式張ったお店です。ちょっと気取ったお高いお店と言った方がイメージしやすいでしょうか。それとは別に、トラットリーアとは大衆食堂的なお店を指します」
日本料理屋で言うならば、リストランテが高級料亭、トラットリーアが定食屋のイメージでよいのだろうかと頭をよぎる。
「へぇ。そうすると、このお店はトラットリーアに入るのかな」
「そうなりますかね。カジュアルな感じですし。ただ、その分類も過去のもので、今ではリストランテよりも格の高いトラットリーアも存在するようです」
「時代と共に言葉の在り方も変化していくんだな」
「そうなりますね。それはどこの国も文化でも変わらないかもしれないです」
「特に日本語なんて、現在進行形で変わっていく言語だよなぁ」
古文と現代文に限らず、外来語やら一過性の流行語。あげればきりがない。
「去年はよく聞いた流行語も、今年は全く使われないなんてよくありますものね。廃れた言葉は死語と呼ばれますが、古典全般は死語の塊になってしまいますね。一般的なイメージでは異なるでしょうが」
「死語と言われてもなんだかイメージが違う気がするが、実際にはそう変わりはないのか。まるで言葉にも寿命があるみたいだな」
今は非常に短命な言葉もありそうだ。
彼女との会話の合間に、足羽はパスタへと手を付ける。
サーモンの身をほぐしたものと、ほうれん草をホワイトソースで煮込んだパスタ。味は悪くなかったようだ。
食後のティータイム。
その後、追加オーダーで紅茶を頼んだ。足羽はストレート。彼女はレモンティー。
「あなたは無糖派なんでしょうか?」
彼女がティーカップを持ちながら尋ねてきた。
「ん? そうではないと思うよ」
「前回はブラックコーヒーを飲んでいたような気が」
彼は意味があるのかわからない格好を付ける為に、普段は飲まないブラックでコーヒーを飲んだことを思い出した。
「その時の気分次第かな」
気分と状況次第とも言えた。
「そういうものでしょうか」
などと言いながら、彼女はティーカップに口を付ける。
「疲れている時は甘い方がいいかな」
「確かに疲れている時は甘いものが欲しくなることがありますね。肉体、頭脳労働問わず、糖分は有効でしょうか」
「そうそう、バイトで疲れた後なんかは……ああ、今日は夕方からバイトが入っているんだった。もう少ししたら帰らなきゃいけない」
「少し残念です」
彼女はティーカップをテーブル上に置いた。
「また会えるだろうさ」
「そうですね。そうだ。今度はあなたの関心のあるものを聞かせてくださいよ。私の方ばかりが自分の関心のあるものについての話をしているじゃないですか」
足羽の関心のあるもの……それはつい最近できたばかりだった。それまでは色んなことに無関心だった。
足羽には何か即答しづらい質問だった模様だ。今現在の彼は色々な本を読んでいるが、内容について触れられるほど読み込んだわけでもない。
彼はつい長考に入ってしまう。
「ん、小説は最近また読むようになったけれど、関心があるものと言ったら漫画かな。読むのは少年漫画と青年漫画の一部くらい」
「ふふっ!」
ふと、彼女が笑った。
「ん、どうしたんだ?」
「いえ、あなた個人の事を尋ねられて、随分長い時間考えていたものですから」
「それがどうかした?」
「おそらくはそれほど仲が良い方は居ないんじゃないかと予測してしまいまして。まず間違いなく恋人は居なさそうですね」
失礼な物言いだと思いながらも、彼女の洞察には少々驚かされた。
「実際その通りだから、何とも言えないな」
「普段人と会話慣れしていれば、自分の関心のあるものについては自然と話に上りますから。そこで長考となると、この人は普段あまり人と話はしない人かなって感じますよ」
彼も自分自身を省みても、アルバイト先でそれほど人とは会話をしていなかったことに気が付く。仕事の話が中心で、自分個人の話などはそうそうしなかった。
「世間話レベルの日常会話はほとんどなかったな」
「大事ですよー。人と話をする事って。人と話をしなければ語彙は貧困になりますし、視野も狭くなり、新しい価値観なども得られないですから」
「新たな価値観?」
「自分で何かを考えていても、それでは結局自分の発想は越えられないじゃないですか。自分とは異なる人の話を聞いて、それまでは思いもよらなかった発見を得られるんじゃないかなって思います」
個人の発想の限界。悩みを一人で抱え込み続けてどん詰まりになるのも、自らの発想を超えた解決策が見つからないからであろうか。
デメリットもあるように感じられた。
「人と触れることによって、自分の価値観や人生観が変わってブレてしまうとも考えられないか?」
「それでブレてしまうのは軸がないからでしょうか。悪く言えば自分がないとも言われますし、よく言えば柔軟的ともいえます。どんな物事にも多面性があります。一面性だけでは語れないですので、ブレてしまうと言っても、必ずしも悪い事だとは私は思いません」
足羽は彼女が女子高生だったが、話をしている限りはとてもそうは感じていなかった。人と接する機会の数だけでも、これほどまでに差が出てしまうものなのだろうかと思っていた。
「多面性だと、何だか裏表が激しい人って感じで印象が悪くない?」
「もとより人には裏と表はあると思いますが。二面と言わず多面性があるのが人間なんじゃないんですか? よくわかりませんが」
多面性と言われればそうかもしれない。魅力的な人は大抵色々な側面を持っている。
「おっと、そろそろバイトに行く時間だな」
店内の壁かけの時計を見ると、入店してから予想以上に時間が経過していた。
「なんだかあっという間に時が過ぎてしまいましたね」
何をしようとしなかろうと、時は過ぎていく。有意義な時間、楽しい時間ほど早く過ぎ去る。
足羽は彼女と別れ、いつも通りの生活のリズムへと帰っていく。
なんてことはなく過ぎ去る一日。
第5話へと続く
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます