第2話 空虚な日常
「預けていたもの。確かに返してもらったよ」
彼は彼女に告げた。彼はだいぶ昔、彼女へと預けていたものを返してもらった。
些細な約束事を挟んでのやり取り。
長年預けていたものを返して貰った。それは壊れたものだった。もうどうしようもないくらいに、直せないくらいに壊れてしまったものを、彼女は直して返してくれた。
そして同時に、彼はずっと借り預かっていたものを返した。
借りていたものを返す。預けていたものを返して貰う。ただそれだけの事。
長い時間がかかったやり取り。
彼が彼女と知り合ったのは数年前。
忘れもしないあの頃、などという言葉を冒頭に付けるのは、はたしてありきたりであろうか? 使い古された言葉と言うのも、趣きがあるのではないだろうか。
だが、彼女と出逢ったあの日の出来事を、彼は生涯忘れる事はないだろう。
主要人物となる男は、何の趣味も特技もない男だった。
名を足羽
彼は高校を卒業した後、これから何をやろうかと言うわけでもなく、夢中になれるものも見つからず、何のために生きているのかさえわからずにいた。
彼は生きる気力を失くしていた。目標を見失ったというべきか。
学生時代の頃の彼は、学生であるという明確な身分と本分があった為、何も考えなくてもよかった。
だが、卒業と同時に、自分はいったい何をしたら良いのだろうかとわからなくなってしまった。
それまでの彼は、社会から与えられた義務を果たすために存在していたのだ。ただそれだけで許された。許されていた。だが、彼はその身分を失った。
彼は自分自身の在り方を自分で考えなければいけなくなった。
進学と言う道も就職と言う道もあったが、彼はなにかを選ぶことも出来ず、そのまま高校を卒業した。してしまった。
無目的のまま、ただ存在する無為な日々。存在するために存在する。そんな無意味な生活。自堕落的で退廃的、無気力感に包まれた毎日。
何をやっても続かず、集中できず、惰性でフリーターをやっていた。その頃の彼は中華料理屋で洗い場のバイトをしていた。
ある夏の日の事。
「おい、足羽君。至急この鉄鍋を頼む」
料理長が大きな中華鍋を持ってきた。鉄鍋はシンクの中に置かれる。
足羽は蛇口をひねり、水と熱湯を出す。水と熱湯で程よく熱い温度のお湯を作り上げる。手を入れる場所を間違えると、熱湯で火傷をするので油断ができない。
混合したお湯が鉄鍋に触れると、ジュウという音と共にお湯が蒸発する。
足羽は先ほどの焼けた鉄鍋が冷めるのを待たずに洗い始める。忙しい時間帯だと、悠長に待ってはいられないのだ。
バイト始めの頃の彼はよく手を火傷した。水ぶくれが出来上がり、それが破れて水や洗剤が染みて大変だった。
慣れない頃は大変だったが、料理人たちは洗い場の事をわかってくれているので、一生懸命やっていれば多少遅れても大目に見てもらえたのが、彼にとっては救いだっただろうか。
そんな彼も今はだいぶ慣れたので、火傷をしないように洗う術を身に着けている。
時間帯によっては、飲食店関係の裏方はまさに戦場となる。
客席が満席ともなると、不足がちな皿を効率よく回転させるために、順番を考えて鍋や調理器具を洗わなければいけない。
うかうかしていると、シンクの中は洗い物で埋め尽くされる。
あるときは気合を入れすぎて鉄鍋を洗ってしまったが為に、鍋の表面が剥がれて料理に鉄分の味が出てしまうと、料理長に注意されたものだった。
流石に料理長ともなると、そんな些細な味の変化にも気が付くようだ。
彼は水で鉄鍋の泡を洗い落とす。シンクの上で鉄鍋の水を切る。
ふと彼が厨房内を見ると、料理長が弟子の頭部をおたまで叩いていた。すこんという音が響く。彼は変形したおたまが増えるのか、などと考えながら鉄鍋を運んだ。
足羽は布で水をふき取り、棚の上に置く。鉄鍋は意外と重量があるので、持ち運びだけでも体力を使う。
彼がシンクの前に戻るころには、足りない皿の催促が来ていた。
食事どきの裏方は大体こんな感じだった。
繁忙時を過ぎれば、後は消化試合のようなもの。やっつけ仕事を片付けるだけなので、そんなにプレッシャーはない。
作業の手が空いた調理師が手伝ってくれたりもする。
よく手伝って貰っているのは、いつも料理長におたまで頭を叩かれていた人だった。
足羽より少し年上で、店の中では一番年が近かった。
「今日はまかない担当じゃあないので、半分手伝うよ」
調理師の男は、そんな事を言いながら複数あるシンクの一つの前に立ち、洗い場担当用の防水前掛けを付けた。
「いつもありがとうございます」
「いやぁ、本当なら厨房の一番下っ端の僕がやらなきゃいけない仕事だから、なんだかんだ言って助かっているよ。おかげで仕事の指導をしてもらえているし」
その指導の結果、調理師の男はおたまで頭をぱこぱこと叩かれているのだろうか。
彼の場合は頻度が高いので、目を付けられているのか、それとも目をかけられているのかは判断が難しいところだ。料理長の人柄を考えれば後者であろうか。
「調理場のお仕事って、どこもこんなに厳しいんですか?」
足羽は大皿を洗いながら、調理師の彼に話しかけた。
「他所は知らないけれど、師事してもらえるだけ有難いと思うよ」
足羽は調理師の男を、随分と謙虚な人なものだと思った。
「自分なら耐えかねて逃げ出してしまいそうです」
「僕だってそういう気分になる時もあるよ。だけど、自分で望んでこの仕事を始めたんだし、いつか自分の店を持ちたいから、今は頑張っていられるかな」
足羽は熱心になれるものを持った人が羨ましかった。格好よくも思えたし、同時に妬ましかった。足羽にはそこまで本気になれるものがないので嫉妬した。
「いつ頃ぐらいにはそういうビジョンを持ったんです?」
「高校ぐらいの時には大体決めていたね」
足羽とは大違いだった。彼は何も考えていなかった。
と、足羽はシンクの中に包丁を入れる。刃物は危険なので、ひとまとめに置かれたものを、最後に着手するのが常套となっていた。
「みんな、やりたいこと、やることを持っているんですね」
「そうでもないんじゃない? 遊びたいから大学へ行くっていう奴もいたし」
足羽も自分の周りに、そういう者が居た気がした。
「人それぞれってことですか」
「そりゃあ個人差はあるだろうね」
調理師の男は、洗い終わった蒸籠を重ねていく。水を切り、自然乾燥をさせるために置き場へと運んで行った。
足羽も最後に取り掛かった包丁を洗い終え、いつもの置き場に置いていく。
包丁は調理師ごとに手入れをするので、持ち主別で分けて置いておいた。
しばらくして、手伝いをしてくれた調理師の男が戻ってくる。
「まかないもできたってよ。僕たちも行こうか」
「はい」
料理屋のバイトなら、店によってはまかないという食事の恩恵を受けられる。
足羽は自分で料理をする性質ではなかったし、バイトのまかないが一番豪華な食事だった。栄養バランスもまかないでカバーしている。
その日のまかないはカレーだった。中華料理屋でカレーか? と思う人もいるだろうが、足羽のいる店ではまかないにカレーが良く出てくる。
修行中の調理師でも手軽に作れるからか、まかないの為に毎日献立を考える負担を減らす為か、カレーが出てくる理由は定かではなかった。
調理補助用のテーブルには料理が並べられている。
カレーを盛り付けるには適さない形の皿に、雑に盛られたカレーライス。
カレーに添えられたウーロン茶。コップに氷は入っていない。
そして余った材料で作られたおかずも並ぶ。内容はお客に出すメニューと同じだ。こちらは調理師の弟子が作ったもので、これを料理長が口にして良し悪しを判断して評価している。これで良しとなれば、調理場に立って料理をし、お客に出す許可が得られるようだ。そうなるまでは野菜の皮むき等を皆担当している。
だから調理師の弟子たちにとっては、まかない作りも手を抜けない修行の一環となっている。
結果的に自分たちの夕飯が手の込んだものとなる為、うまくできているシステムとなっていた。
足羽は洗い物を手伝ってくれた調理師と共に、最後にテーブルに着いた。
それを見計らって、皆が食事を始める。
料理長は食事中も、明日の仕込みの為の指示を回りに出していた。
足羽はそんな光景を見ながらカレーを口に運ぶ。
中華料理屋の素材で作るカレーの為、具材は少々一般的なモノとは異なるかもしれない。茄子や青梗菜は頻繁に入る。
だが、味は悪くなかった。むしろ足羽には好きな味だった。
足羽はそれ程辛くはないカレーを頬張る。ルーに野菜の味が出ている。野菜の甘みが出ているので、辛さが抑えられているのだろう。適度にひき肉も入れられているため、肉と野菜が程よく口の中に入る。
足羽はウーロン茶を飲みながら、卓上のおかずを見る。
と、彼はどうもお店に出ているメニューとは違うおかずを発見する。ころもが付いた何かの揚げ物。表面にはソースが乗っていた。
足羽は揚げ物を箸で取り、かじりついてみた。
かりっとしたころもの下にあるのはタケノコだった。
「ああ、それ。たけのこの土佐揚げだとさ」
隣席の調理師が教えてくれた。足羽には知らないものだった。
「たけのこを半分に切って、水で溶いた小麦粉、あるいはパン粉と粉かつおをまぶして油で揚げる料理か。これ、中華料理と言うよりは和食だな」
隣席の調理師は一人で料理の解説を始めてくれる。味を見ながら色々と分析をしているようだった。弟子たちにとっては皆ライバルだから、普通に夕飯を食べるという感じでもないらしい。
お店に出すか出さないかは別として、弟子たちは野心的に色々なメニューに挑戦することが許されていた。料理長の方針で、料理に奥行を持たせるために許可されていた。
足羽はその恩恵にあずかっているわけだ。
まかない料理は弟子たちの腕試しの場。結構頻繁に色々な物を食べることが出来るので、足羽としてはありがたい限りだった。
「僕たちにとっては、作ることも食べることも修行なのさ」
と、隣席の調理師がそんなことを言っている。
やることがはっきりとしていれば、色々なことが勉強につながるんだなと、足羽はふとそんなことを考えた。
そうこうしているうちに、皆が食事を終える。
水を溜めたシンクに洗い物を入れていく。これは足羽が今日洗う必要はなく、明日出てきた調理師たちが初めに片付ける。
足羽が行うべきその日の作業は終わった。
「お先に失礼いたします」
そう言って、足羽は一足先に帰る。他の人と違って残作業などはない。
明日の仕込みを始めている調理師たちが「お疲れー」や「また明日」などと、作業をしたまま返事を返してくる。
足羽は調理場の裏口から店を出た。外はすでに真っ暗だった。
足羽の住まいはバイト先からそう遠くはないので、彼は毎日徒歩で通っていた。
夜の通りを、足羽は一人歩く。
足羽は空を見上げるが、星の姿は見えない。曇り空の様だった。
足羽は薄暗い夜道を歩きながら、明日は雨が降りそうかと考えた。彼は明日のバイトはないから、どこかへ出かけようかどうか迷っていた。
それほど時間が経たないうちに、足羽のアパートが見えてくる。
ボロアパート。家賃が少ないところを選んだようだ。
足羽は狭い階段を上り、自室の前に辿り着く。ドアを開け、暗い部屋へと入る。電気を付けても当然誰もいない。
彼のこの後の予定は何をするまでもなく、風呂に入って寝るだけだった。
一日の終わり。特に何もない日。バイトの日はこのようにして一日が終わる。
何をするでもない。何かを無為に消費しながら、それとは自覚せずに生活していた日々。
彼のバイト先のまかない料理は中々であるが、それとは正反対に、彼は無味無臭の生活を送っていた。
『存在していると生きているは全く別』と言えるのではないだろうか。
この時の足羽は、果たして生きていると言えたであろうか。
翌日。足羽はすることもなく、部屋でゴロゴロと寝て過ごしていた。
昔の彼はゲームが趣味であったが、最近は腰を据えてやるような気力もなかった。中学生の頃の彼は、徹夜でRPGをやるなどして、よく親から怒られていたものだった。
彼が強い無気力感を抱えてからは、ゲームをやっていても落ち着かず、積みゲーが増え始めて、そのうちあまりやらなくなった。
関心が変わったというよりは、あらゆる物事に無関心になっていっていたのかもしれない。何もしない時間が増えた。
さりとて、何もせずとも腹は空く。
足羽は懐中時計をポケットから取り出す。時間はちょうど正午だった。
彼は時間を知るために懐中時計を持っているわけではない。数年前に、何だかかっこ良さそうと思って購入した。
時間を知るだけならスマホで事足りるが、彼は自己演出の一環で懐中時計を使っている。どこのなんの誰に対しての自己演出なのかはわからないが、気分の問題で使い続けているようだ。彼はそんな懐中時計をポケットへ戻した。
足羽は冷蔵庫を開ける。だが、中身は何もなかった。もとより彼は料理をしない為、冷蔵庫の中は空っぽがデフォルトだった。
足羽は棚を見るが何もない。カップラーメンの買い置きでも用意しておけばよかったかなと、彼は今更ながらに後悔した。
足羽は基本的に出不精の為、余程のことがなければ出かける事はなかった。
だが空腹には勝てないようだ。
彼は一度財布を開いてみてから、その日何を食べるか考えた。そして駅前のラーメン屋まで行ってみようと思い立つ。ついでに帰り道で本屋に立ち寄り、時間つぶしが出来るものを探そうと算段する。
行く予定の本屋は、足羽の住む辺では唯一の、古びた本屋であった。
足羽は思い立ったら即行動する方である。彼はささっと靴を履き、玄関を開けた。彼は空を眺める。空模様を見れば、重苦しい色合いの曇り空だった。
足羽は玄関口で傘を探すが、少し前に傘を失くした事を思い出した。
空は今にも雨が降り出しそうであるが、足羽が駅まで出かけて戻ってくる分には、果たして間に合うだろうか。
彼は後先を考えない性分であった為、そのまま出かけることにしたようだ。チャレンジャーな発想の持ち主である。
足羽は玄関に鍵をかけた。流石にこれを忘れるほどの粗忽者ではないようだ。
彼は曇り空の下、駅前方面へと向かって歩き出す。
道行く人は皆傘を所持している。
足羽はそのような人の姿を見て、必要とあれば傘を買った方がよいかなどと考える。
最寄りの駅は、アパートから歩いて二十五分ほどの距離にあった。駅前とは言っても、それほど色々店があるわけではない。だが買い物するとなると、駅前近辺が妥当だった。
足羽にとっては買い物も目的ではあったが、現時点では空腹感がとても強かった為、まずはよく行くラーメン屋へ入る事としたようだ。
多少古びた雰囲気の店内。
足羽は食券の券売機にて、唐辛子入りの味噌ラーメンを選ぶ。ついでにと味付き卵とメンマのトッピングも選んだ。
昼食の時間帯ではあるが、店内に空席はあった。足羽はすぐに空席について、食券をカウンター上へと出す。
飲料水はセルフサービスとなっていた。足羽は水と少々古い少年週刊誌を手に取り、待ち時間をつぶす。
しばらくしてから、注文していたラーメンがカウンター上に出てくる。
足羽は別皿のメンマと味付き卵をラーメンへと入れた。
彼は最初に胡椒やラー油を入れることはない。まずは純粋な状態を楽しむ。これは店への礼儀だと彼は誰かから教わった。本当かどうかは知らないが、トッピングだけなら問題はないだろう。
足羽は蓮華を手に取りスープを掬う。表面に適度に脂が浮いた赤い色のスープ。彼は一口すする。ピリッとした辛さ。これが食欲を誘う。
続いて細麺をすする。メンマをかじる。卵を喰らう。
足羽はぱりぱりの海苔をスープに漬け込むのを忘れていた。彼は海苔を食べる時は、萎びた感じにしてから食べるのが好みだった。海苔をスープに浸し込んでから食べる。
足羽の空腹が満たされていく。
彼は半分以上食べてから、胡椒やラー油で自分好みの味にしていく。
最後に彼は空となったどんぶりを置き、そして箸と蓮華をどんぶりの中へ入れた。
「ごちそうさまでした」
彼は少年週刊誌を本棚へ戻し、ラーメン屋を出る。
足羽は店を出て空を見る。まだ雨が降ってきているわけではなかった。
これなら本屋に立ち寄って帰る余裕もありそうだった。
本屋は足羽が今いる場所からそれほど遠くはない。他に立ち寄る予定の場所もないため、彼は真っ直ぐに本屋を目指した。
彼が向かう先は自分の活動範囲内では唯一の本屋だった。店舗はそれほど大きくはない。従って品ぞろえが良いかと聞かれれば、それはとても微妙なところだ。
足羽が歩く事数分。彼は本屋に辿り着く。
店の表側に出ているのは週刊誌の類。彼の目的は漫画の単行本であった為、そのまま店内へと入る。
店内にはあまり客はいなかった。
足羽は漫画の単行本売り場を目指す。彼にとっては毎度向かう先である為、足取りに何の迷いも見られない。
足羽が本屋を訪れたのは、何か気になる新刊でもあればと、そのくらいの軽い気持ちだった。彼は一気にまとめ買いをするタイプではなかった為、新刊を見つけたらその都度買っていた。
足羽は本を色々と見繕って手にする。彼は気になる本はとりあえず手に取った。そしてこれくらいでよいかと考えレジへ向かう。と、そこでふと彼は歩みを止める。
平積みの棚。普段の彼なら目を留めないようなハードカバーの本。
なぜ気になったのかは定かではない。タイトルが目についたのか。装丁が気になったのか。彼は立ち止まり一冊の本を手に取った。
タイトルは『見えざる手紙』と書かれていた。
見えない手紙とは何なんだよと、ただ彼は感覚的にそう思った。
彼が普段読むような本ではない。彼は裏表紙を確認して値段を見る。……漫画の単行本が、数冊買えるような値段だった。
足羽は買うか買わないかで迷ったが、最終的には買う事にした。普段は読まないような本であるならば、退屈しのぎにもなるかと考えたのだ。普段とは違った選択をやってみれば、気分の切り替えや転換にもなるだろう。
その後、足羽はそのままレジへ行こうとしたが、途中にある趣味系の雑誌棚でつい立ち読みにふけってしまう。
彼はゲームをあまりやらなくなったが、新作ゲームの確認をするし、アニメやホビー関係の雑誌もたまに見る。
足羽はあれこれと読み散らし、しばし時間を忘れる。
足羽が何冊目の雑誌を手にした頃だろうか。彼が本屋の出入り口を見たところ、ぱらぱらと雨が降り始めてきていた。
そこで彼はようやく雨が降り出す前に帰ろうとしていたことを思い出す。
今ならばそれほど雨足は強くない。走って帰ればなんとかなるか、などと考えながらレジに並んだ。
足羽は会計を済ませて出入り口に立つ。まばらに雨が降っていた。
彼は通りを眺める。傘を差した通行人が行き交う。時折、鞄を掲げて雨よけにして走り抜ける者がいる。
足羽はあの姿に倣おうかと考えた。今の彼には買ったばかりの本がある。ビニールの袋に入れられている為、雨よけになる。
本が濡れてしまう危険性もあるが、黒い袋はぴっちりと封をされているので、何とかなるだろうと計算した上での判断だ。
彼は意を決し、通りへと走り出す。買った本を雨よけに使う。
その彼の決断は、数分後に後悔へと変わる。
あっという間に雨足が強まり、土砂降りの雨となった。
足羽の体に強く打ち付けられる雨。その雨粒が大きくなったのを、彼自身が体ではっきりと感じ取る。
そんな豪雨の中、足羽は環状線の高架そばの坂道を走っていた。
彼は通り雨かと思ったが、豪雨は中々収まらない。しばらく雨足が弱まる気配は無かった為、彼は雨宿りの為に高架下へと駆け込む。
それ程広いスペースではなかった。もとより雨宿りなんかの為に用意された場所ではない。だが、足羽にとっては一時しのぎが出来ればそれでよかった。
と、チリィン、と鳴る鈴の音。雨の中でも良く響く音だった。
先客が居たようだ。女子高生だった。特に何の特徴もない。何もなければ記憶にも残らないくらいに、どこにでもいそうな普通の子。
お互いに反対側の通りを見つめたまま、無言の状態が続く。
足羽は全身からぽたぽたと、雨水を滴らせていた。
当然ながら、タオルケットなどというものは持っていなかった。
今の足羽の姿、雨が滴るほどにいい男などとは言えない。彼の姿も凡庸で、特徴がないのが特徴だった。
足羽がぼんやりと考え事を始めていたら、
「雨足、強いですね」
と、先客の女子高生が急に足羽へと話しかけてきた。
彼女も雨で濡れていた。スクールブラウスが濡れていて、色々と目のやり場に困る状態だった。
足羽はここで動揺したらまずいかと思い、視線がぶれそうになるのを鋼の精神で我慢した。そして彼女の顔を見る。
「思いのほか強いね。今日の天気予報では、それほど降水確率は高くなかったはず」
しばしの静寂。足羽は視線を通りへと戻した。
ざぁざぁと降りしきる雨。傘を差した通行人が通り過ぎていく。
路面に小川が出来ている。勢いよく用水路へと流れ込む雨水。
雨粒は尚大きく、地面を激しく打ちつけ続ける。
当面は晴れるような雰囲気ではない。
足羽としては安いビニール傘を買って、今日一日を凌いでしまいたいところだったのだろうか。彼は通りを見渡すが、コンビニらしきものは視えなかった。
「ねぇ」
彼女がまた足羽へと話しかけてくる。退屈しているのだろう。
「今、私の透けたブラウスを見ていました?」
足羽は思いがけず彼女の方へと視線を移した。そして、
「いやっ、見てない!」
と、反射的に返事を返した。
足羽は軽く嘘をついたが、この際それは問題ないだろうとすぐに思い直した。
「どちらでもいいんですけどね」
なら聞くなよ、と足羽は思わずにはいられない。
彼が黙っていたら、また彼女が口を開いた。
「本屋さんの袋、口が開いていますよ」
そんな彼女の言葉に、足羽は手にしていた黒い袋を見る。口を止めたテープが剥がれていたことに気が付く。
彼は中の本を取り出して確認する。幸い、本自体は濡れていなかった。
買ったばかりの本が濡れてしまうのを、避けられてよかった事に彼は安堵した。濡れた本を乾かしたところで、よれよれに波打つ残念な姿に変り果てるからだ。
と、彼女が足羽の手にしていた本に目を止める。
「あなたもその著者の本を読むのですか?」
その著者という事は、彼女は作者のファンなのだろうか。あなたも、と言う辺りに察するところがある。『見えざる手紙』と言う本は今日偶然手にした本であり、足羽は書き手の事をまるで知らなかった。
著者名は
「いや、今日初めて手に取ったかな」
相手が熱心なファンであればこそ、ここは素直に言っておくのが無難であろうと足羽は判断する。
「あ、そうなんですか。ちょっと残念です」
やはり彼女は作者のファンなのだろう。
「へぇ。これ書いた人、他にも本を出しているんだ?」
人間、気に入っているものならいくらでも語りたいぐらいだろう。そう思い、足羽は試しに聞いてみた。
「そう。それで三作目。あ、シリーズ物じゃないから大丈夫ですよ?」
こちらは気にしていたわけではなかったが、彼女は気を使ってそのように説明してくれた。
「この本を気に入ったら、他の作品も読んでみるよ」
無難な回答をしておいた。彼女は作者のファンなのだから、『面白かったら』他も読んでみるなどとは言えない。
「気に入ってもらえたなら嬉しいです。小説はよく読むのですか?」
彼女は本の話題で話をつなげてくる。おそらくは読書が趣味なのだろうと、すぐに予測が付いた。足羽は漫画を読むけれど、小説については現在それほど読まなかった。小学生の頃はいろいろと読んだ気がしたが、細かい部分などは覚えていなかった。
黙っていては話の流れを切りそうであったが、適当に話を合わせるよりも、正直に答えた方がよいであろうか。足羽は正直に答える方を選択する。
「俺は小説をあまり読まないよ。今回はほんとうに気まぐれで手にしただけで」
「一目惚?」
それは予想外な言葉だ。だが、言われてみればそのようなものだった。
タイトル、あるいは装丁が気になった。
「そうなるかな」
「たまにあるみたいですね。そういうの」
特に何の理由もないのに、ふと手にする本。
「表紙も大事ってことかな」
「目に留まる為の工夫がなければ、手に取ってもらえないですからね。大事なのは中身だ、なんて気安くは言えないですよ。中身は手に取り読まれてからです」
飾りが必要だが、ゴテゴテしすぎるのも問題がありそうで、何とも加減が難しそうな話であった。
それにしても、
「君は本が好きなんだね」
の一言に尽きる。
「本も好きですけど、他にも興味があるのは色々と持っていますよ?」
趣味のうちの一つが読書なのだろうか。彼女は一点特化の趣味の持ち主と言うわけでもないようだった。
と、そこへ車が車道を通り抜ける。
足羽はその車の姿を目で追いながら、高架下の外を見る。
雨足が弱まってきたようだ。これならひどい濡れ方をせずに帰ることが出来そうだ。
「今走れば、それほど濡れなさそうですね」
彼女からの提案。彼女も足羽と同じ意見だったようだ。
「今のうちに駆け抜けてしまう?」
「私はそうします。……もしまた会う事があったなら、その本の感想を聞かせてもらってもいいですか?」
『また会う事があったなら』と言う前提付きだが、面白そうな提案だと感じた。
「いいよ。連絡先は聞かずに、また会う機会があればの話ってこと?」
「そう、もしまた会えれば、何かしらの『縁』があったという事なのです」
あえて未来を不確定なものにして、何かしらの期待を先に持てるようにする試みだろうか。そのような思惑があってと言うよりは、ただ面白そうな方向へと考え方を倒したと予測する方が自然であろうか。
「わかったよ」
足羽も面白そうな提案に乗ることにした。
「それじゃあ、『また』」と彼女は言って軽く手を振った。その際にチリンチリンと鈴の音が鳴り響く。彼女の振る手の首に、紐で巻かれた鈴が付いていた。
そして彼女は小雨となった通りを駆けていく。リンリンリンと鈴の音が遠ざかっていく。
彼女はさよならではなく、『また』と言って去って行った。そこは彼女のセンスであろうか。足羽は多少、次に期待したい気分となった。
彼の味気ない無色の日常の中に、何だか一点だけ色合いが出来たようだ。
足羽は彼女の後姿が見えなくなるまで見送る。
その後、彼もまた意を決し、小雨の中へと駆け出していく。
何もないと言えば何もない日であったが、ほんの些細なすれ違いともいえる邂逅。
この時の足羽は少しだけ、ほんの少しだけ、先の事に期待を持っていた。
第3話へと続く
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