第8話
「ある日、浮気を疑われたか何かで、妻と口論になったんだ。普段なら俺も、激昂することなんてないんだけど……その時は多分、仕事で疲れてたんだろうな。妻も妻で、相当ストレスが溜まっていたんだと思う。そんなわけで、久しぶりに大声で怒鳴りあった。手が出なかったことと、子供たちが起きてこなかったことだけが救いだったな。それで、途中で妻が言ったんだ。『あなたなんて、さっさとこの世から消えちゃえばよかったのよ!!』って」
我を忘れると、心にもないことを言ってしまうことがよくある。『お前なんて死んじゃえ!!』とか、子供がよく言っているのを耳にする。
普通なら、ほぼ耳を貸さないようなくだらない一言だ。
けれどそれが、新宮先生にとっての地雷だったのだろう。
「それがきっかけで、俺の均衡は崩れた。これまで何度も死のうとしたじゃないか。それなのにどうして、今まで成功しなかったんだろう。どうしてこの年になるまで、しつこく生き続けてきたんだろう。どうして俺は今、こうやって生きているんだろう。どうして俺は、呼吸しているんだろう。どうして俺のこの心臓は、止まりもせず一定に動いているんだろう……次々とそんなことを思っていたら、もういてもたってもいられなくて。衝動に任せて台所から包丁を持ってきた俺は、それを思いっきり自分に向けて刺した」
若菜ちゃんが、息を呑んだ音が聞こえた。わたしもまた、悲鳴を上げそうになるのをすんでのところで堪える。
新宮先生の声は恐ろしささえ感じさせるほど冷たく、淡々としていた。
「ケチャップをぶちまけたみたいな血の噴射と、胸の辺りに感じた焼けるような熱さ、そしてつんざくような妻の甲高い悲鳴……その中で、最後に一瞬だけ、お前のことを思い出したよ。想像上で笑うお前に、ごめんなって何回も謝って……全身の力が抜けた俺は、ゆっくりと床に伏した。その後どうなったかの記憶はない。その時点で、俺の意識は完全に途絶えたんだと思う」
若菜ちゃんの存在は、心の中にあったはずなのに……それでも止められなかった、新宮先生の四度目の自殺未遂。それが若菜ちゃんの心身までも追い込むきっかけとなったのだと、その時の彼は気付いていたのだろうか。
若菜ちゃんはうつむいていた。掛布団を掴む手に、ぽたぽたと水滴が落ちる。新宮先生の話を聞いているうちに、彼女は感極まってしまったらしい。
それに気づいていないのか、気づかないふりをしているのか、新宮先生はさらに続けた。
「目が覚めたら、涙で顔をぐちゃぐちゃにした妻がいた。『ごめんなさい』って、何度も謝られた。俺はその時に初めて、妻が言ったことは本意じゃなかったと悟って、早まったことをしたとものすごく後悔した。横にいた子供たちは――上の子は辛そうな表情で泣くまいと耐えるように唇を噛んでいて、下の子は純真無垢な様子で『あ、パパ起きた』って言いながら抱き着こうとしてきて、妻に止められてた。上の子は状況を察知していたようだけど、下の子はきっと何も知らずに来たんだろう。だけど二人とも、決定的な瞬間は見ていないらしかった」
もし子どもたちが見ていたら、トラウマになりかねないような光景だっただろう。自分たちにとって絶対的な存在である父親が自分をナイフで刺し、血まみれで倒れているのだから。
幼い子は特に、これからの成長に大きな影を落とすかもしれないことだったのだ。見なくて、何も知らなくて、本当に良かったとわたしも思う。
「それから主治医に、一時は非常に危険だったということを知らされた。ものすごく怒られたよ。『あなたのしたことは、大切なご家族を地獄の底へ突き落とすのと同等のことだったのですよ!!』って。あぁ……なるほどな、って思った。そこでようやく気付いたんだ。俺の生きている意味。妻と子供を守るために、今の俺は生きているんだって。生きなきゃ、いけないんだって」
実際に過ちを犯して初めて、大切なことに気づく。自分の生きる意味を、本格的に生死の境を彷徨ってみて初めて、彼は見出すことができた。
そしてもう一つ、彼が気づいたこと。
身近にあったものが、一番大切なものだったということ……何よりも壊したくない、自分の手で守りたい存在は、すぐ近くにあったということ。
新宮先生は椅子から腰を浮かせ、いまだ涙をこぼしてうつむいている若菜ちゃんの頭を数回撫でた。
「お前には、本当に悪いことをしたと思ってる。俺は家族だけじゃなく、お前のことまで……地獄に突き落としたんだよな。でも俺は、互いに無事でよかったと思ってる」
「……っ、先生の、馬鹿……」
「ごめんって」
笑いながら、新宮先生は彼女の頭を撫で続けた。若菜ちゃんは布団に顔を押し付け、嗚咽を漏らしている。
「だけどお前も、気づけたんだろう? 自分が死ぬことで、どれほどの人に絶望を味わわせることになるのか」
そのままの体制で、若菜ちゃんは小さくうなずく。
「そこの彼女だって、お前が死んだらきっと悲しむよ。ねぇ?」
そこで初めて、新宮先生はわたしの方を振り返った。いきなり話を振られるとは思っていなくて、わたしは困惑してしまう。
「え!? あ、あの……」
「ちょ……先生、どうして……くれるん、よ。凛が、困惑、してる……やない、か」
嗚咽を漏らしながらも、若菜ちゃんがわたしをフォローしてくれる。こういう気遣いを自然にできるところは、やっぱり若菜ちゃんらしいと思う。
新宮先生は構わず、わたしの方を見て笑っていた。反応を面白がっているのだろう。見た目によらず結構サディストだな、この人。
「凛さんっていうの、君」
「あの、はい。若菜ちゃんの従妹で、
新宮先生の視線に落ち着かない気分になりながら、わたしはたどたどしく自己紹介をした。それから蛇足だとは思いつつも、一つ付け加えをした。
「あなたに電話をした相手は……多分、わたしの兄です」
新宮先生は大きく目を見開いた。若菜ちゃんの方を振り向き、「そうなのか?」と尋ねる。若菜ちゃんは無言でうなずいた。
「アイツは、ほんまに……要らんとこで、気を回す、奴や」
「お兄ちゃんなりに、若菜ちゃんのこと心配してたってことでしょ。若菜ちゃんが死んだら、いつも冷静沈着なあのお兄ちゃんだってきっと取り乱しちゃうよ。もちろんわたしも、すごく悲しい」
きっぱりと言い切ると、若菜ちゃんは思わずといったように顔を上げた。その顔は涙に濡れていて、目も真っ赤だった。
「わたしね。来年も、再来年も、またその次も……お兄ちゃんと、お父さんと、おじいちゃんとおばあちゃんと、椋介さんと絢乃さんと、そして若菜ちゃんと。おばあちゃんが作った美味しいビーフンを、みんなで一緒に食べたい。毎年、当たり前にそうしてたみたいに。昔とは違って、お母さんはもういないけど……ねぇ、覚えてる? お母さんの法事の時に、若菜ちゃんは『それでも、生きていくしかない』って、言ったよね。その言葉に、偽りなんてなかったよね。わたし、そう信じてるよ。だから……上手くまとめたりできないけど、ねぇ。若菜ちゃん、お願い。生きててよ。死ぬなんて言わないで。辛くても、生きていこうって言ったのは……お母さんが死んだのを嘆いて、時間が経っても相変わらず消沈してた人たちに対してそう励ましたのは、諭したのは、若菜ちゃんじゃん。それなのに、こんなのずるいよ。死のうとするなんて、酷いよ。ねぇ、若菜ちゃん……お願い」
夢中になってそこまで一気に言い切ると、新宮先生がふんわりと微笑んだ。そのまま若菜ちゃんの方を振り返り、諭すように言う。
「ほら。お前にも、大切な人がたくさんいるじゃないか。お前を必要としてくれる人間が、ちゃんといるじゃないか」
若菜ちゃんは少し目を伏せ……小さな声で、照れくさそうに「左様か」と呟いた。
「わかってくれたならよし」
そのまま新宮先生が、わしゃわしゃと少し乱暴に若菜ちゃんの頭をなでる。「ちょ、ボサボサになるからやめぇや!」と若菜ちゃんが抗議するのにも構わず、笑い声を上げながら撫で続けている。そんな様子を見て、わたしも声を上げて笑った。
「……はぁ、楽しかった」
「何が楽しかったや、この鬼畜め。まったく……」
ひとしきり若菜ちゃんをからかい、満足げな様子の新宮先生。そんな彼をジト目で見ながら、唇を尖らせた若菜ちゃんはボサボサになった髪を手櫛で整える。
「じゃあ、若菜ちゃん。わたしはそろそろ帰るね」
ドアの取っ手に手をかけながら言うと、若菜ちゃんがきょとんとしながらこちらを見た。
「何や、もう帰るんか」
「うん。新宮先生と、積もる話もあるでしょう?」
「あれ、気を利かせてくれるんだ」
「せっかく再会したんですから、いいじゃないですか。ね、若菜ちゃん」
「……しゃあないなぁ」
新宮先生の笑っている姿と、若菜ちゃんが照れくさそうにそっぽを向く姿を、わたしはどこか微笑ましい気持ちで見つめた。
ドアを開けながら、最後にもう一度声をかける。
「じゃあ……新宮先生、今日はありがとうございました」
「いえいえ。お兄さんによろしくね」
「はい。若菜ちゃん、また来るね」
「おー、今日はホンマありがとうな」
二人の声と、窓際で陽の光を受けてきらきらと輝くひまわりの花に見送られながら、わたしは病室を後にした。
◆◆◆
病院を出ると、切っていた携帯電話の電源をつける。それから、まるでそうすることがごく自然のことであるかのように、電話帳から兄の番号を呼び出した。
若菜ちゃんの心を、少しでも楽にしてあげたい――その一心から成されたのであろう彼なりの心遣いが、一体どんな結果を生み出したのか。それを、本人にも知らせてあげなければいけない。
若菜ちゃんと、新宮先生。二人はこれからも、別々の人生を歩んでいくことだろう。互いに心の中で支え合い、時折仲間としてのわずかな関わりを保ちながら。
今回、自らの命を終えることの意味を、身をもって知った二人。
どれだけ辛くても、苦しくても、哀しくても。彼らはもう、このような過ちを犯すことは二度とないと――そう、信じたい。
小さな願いを胸に秘めながら、わたしは携帯を耳に当て、やがて始まったコール音を聞いていた。
ひまわりが姿を変えるとき 凛 @shion1327
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