第7話

「俺は……これまでにも、何度か死のうとしたことがあった。小学校時代には教室の窓から飛び降りようとして担任に止められ、中学の時にはナイフで腹を刺そうとして親に殴られ、高校の時には首をつろうとしたところを友人からの電話に遮られた。もともと感情の起伏が激しい性質たちだったから、そんなに頻繁にやってたわけじゃないけど……それでも数年に一度ぐらいは、そういうことをやろうとしてた。そしてそのたびに、いろんなものに邪魔をされた。多分、まだそれをする時期ではないぞっていう、暗示だったんだろうな」

 新宮先生の生い立ちに絡んだ話を聞いたのは、若菜ちゃんも初めてだったのだろう。驚いたように目を見開いたり、やりきれなさそうに目を伏せたり、うるんだ目で彼の方を見たりしていた。

「俺はあんまり、現実をまっすぐ見ながら生きてはいなかったんだと思う。大学も、この仕事も、全部なんとなくで決めたことだった。お前は人にものを教えるのが得意だ、と周りに言われたから。人よりちょっと、数学の成績が良かったから……そういう理由で、数学の教師になった。同じ教職者を目指していた人間には腹の立つ話かもしれないけれど、それぐらい俺は、人生に対して興味を抱いていなかった。というか、本気でどうでもよかったんだ。自分のことなのにな……全く、呑気なもんだよ」

 彼の人生に対する異常なまでの無関心と、若菜ちゃんの言い知れぬ孤独や虚無感。それらは一見、全く違う悩みのように見えた。

 だけど……わたしはこの時、なんとなく察していた。この二人の、どちらともに共通していることがあるのではないかと。

「こんなに関心を抱けない人生だったら、さっさとやめてしまいたい――いつのころからか、ずっとそう思ってた」

 新宮先生の言葉に、やっぱり、と思う。

 二人に共通していること。それは、自分の存在を消してしまいたいという願望だ。苦しみから解き放たれて楽になりたいという、永遠の夢にも似た想い。

 同じような想いを抱いている。だからこそきっと、二人は互いを自らの理解者だと感じたのだろう。

「教職に就いてからは毎日忙しくて、とても死のうなんて考える余裕がなかった。それがなきゃ……俺はとっくに、この世の人間じゃなくなってるだろうよ。俺にとってはある意味天職だったのかもな」

 自嘲気味に新宮先生は笑った。そんな彼を、若菜ちゃんは静かな瞳で見つめている。新宮先生の話に、一度も口をはさむことなく……ただ一心に、彼の話に耳を傾けているようだった。

 そんな彼女に答えるかのように、新宮先生は再び話し始める。

「お前が入学してきて初めてのホームルームで、初めてまともに目が合った時……見つけたかもしれない、と思った。そして何日もかけてお前のことを見ていくうちに、それは確証に変わった。普段は無邪気に、心から楽しそうな顔して笑ってみせるくせに、その目だけはいつだって寂しそうな、どこかほの暗い光を宿していたから。表情はくるくる変わっても、その希望を失ったような目の色だけは、どんな時も変わらないままで……それが、とても印象的だった。彼女は確実に何かを抱えていると、そう思った。そしてそれが、俺の抱えるものに少なからず共通しているんじゃないかとも」

 若菜ちゃんが新宮先生に対して抱いた仲間意識を、彼もまた、若菜ちゃんに抱いていたということだろう。やはり二人には、どこか似通ったところが――惹かれあうところが、あったのだ。

「お前との個人面談の時、俺のぶつけた言葉をお前が汲み取って、肯定してくれたとき……俺は、どれだけ嬉しかったことか。無色だった俺の人生に、どれほどの鮮やかな色がついたことか。それ以来は一度もそんな話をすることはなかったけれど、少なくともお前がいるときだけは、俺は馬鹿げた考えを封印することができた。人生を、謳歌しているような気持ちになれたんだ。かつて友人にも、愛し合って結婚したはずの妻にも、自分の血を分けた子供にさえも抱いたことのない……それは生まれて初めて俺の中に生まれた、最も人間らしいといってもいいほど色鮮やかな感情だった」

 それは情愛だったのか、単なる『同類相憐れむ』というものだったのか……傍観者であるわたしには、その感情までを判断することはできない。それでも二人が、互いを大切に想いあっているということだけは、ひしひしと伝わってきた。

 若菜ちゃんは今にも泣きそうな顔をしている。時折何か言いたそうに、唇が小刻みに震える。それでもその口からは、何の言葉も発されることはなかった。

 新宮先生が、一瞬だけ身を縮めた。まるであふれ出る感情に耐えているかのように、程よく大きくて頼もしそうな背中が、頼りなさげに小刻みに震えている。

 浅い呼吸を何度か繰り返し、一分ほど経った後、新宮先生はようやく続きを紡いだ。

「お前が卒業して、地元を――俺の手を離れてしまってからは、心に小さな穴が開いたような気がしていた。それでも時々連絡を取り合うことで、心の均衡は保たれていたんだと思う。会えなくても、自分を理解してくれる人間がいる。それだけで俺は、もう少し頑張って生きてみようと思えた」

 若菜ちゃんも同じことを言っていた、とわたしは思い出した。

 それまで無味乾燥としていた彼の人生に色を付けたのは、若菜ちゃんという理解者がいてくれたからで。彼女がいたからこそ、新宮先生は人生に希望を見出すことができたのかもしれない。

 人生は意外に楽しいものなのだと、その年になってようやく気づくことができたのかもしれない。

 ではそれを、一気に覆したものは一体なんだったのか。

 新宮先生は意外とナイーブな人なのだろう。他の人からすれば別段何でもないようなことで、深く傷つき壊れてしまう。

 大小の程度は知らないが、彼の心が壊れてしまうような出来事が、きっとあったのだ。

 新宮先生は、大きなため息にも似た息を一つついた。

「その均衡が崩れたきっかけは、ほんの些細なことだった」

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