第6話

 わたしが今まで座っていた椅子を譲ると、突然現れた男性――新宮先生は「ありがとう」と笑顔を見せ、ゆっくり腰を下ろした。

 新宮先生と若菜ちゃんは、互いに見つめ合っているらしい。……らしい、というのは、新宮先生がわたしから背を向けて座っているため、ここからではその表情や目線の向きがわからないからだ。つまり『見つめ合っている』というのは、完全なわたしの推測というわけである。

 若菜ちゃんは彼の方をじっと見ながらも、いまだ驚愕と動揺に満ちた表情をしていた。

 二人の邪魔にならないように、わたしは数歩下がってその光景を見つめる。帰った方がいいのかな……とも思ったけれど、二人のどちらにもわたしを邪険にするような様子はなかったので、きっとこちらの方になど見向きもしていないことだろう、と思い直す。

 それにわたしは、ただ純粋に、二人の会話を聞いてみたいと思った。似通った二人を……魂のレベルでつながりあった二人を、直接この目で見ておきたいと思った。

 少しの沈黙の後、若菜ちゃんがようやく、絞り出すように慎重そうな声を出した。

「新宮先生……何で、ここに」

 新宮先生は笑いを含んだような声で答えた。

「何だよ、まるで俺に来てほしくなかったみたいな言いぐさだな」

「そ、そんなんじゃなくてっ。ただ……」

 うろたえたように両手をぶんぶん振ると、若菜ちゃんは頬を薄紅色に染めてうつむいてしまう。ほぼ吐息に近いひどく小さな声に、近寄るように新宮先生が顔を寄せた。

 まるで小さい子供をあやすかのように、耳をくすぐるような穏やかな低音で、彼女に優しくささやきかける。

「ただ……何?」

 ひくり、と若菜ちゃんがわずかに肩を揺らした。おずおずと顔を上げ……怯えたような目で新宮先生を見つめる。頭に浮かんでいることを言っていいものかどうか、迷っているらしい。

「ただ……」

 何度か小さく呟き、目を伏せる。それを複数回続けた後にようやく意を決したようで、若菜ちゃんは強気な目を新宮先生に向けた。

「先生はまだ入院してはるもんや、と思ってたから」

 あぁ、と納得したようにうなずくと、こともなげに新宮先生は答えた。

「ついこの間、退院したんだ。しばらくは通院してくれって医者に言われたけど……今日病院に来たのは、そのため」

「でも、どうしてこの病室が? 私……このことは、誰にも言ってへんはずやのに」

 それは今の若菜ちゃんにとって一番の、純粋な疑問であるようだった。

 誰が、このことを新宮先生に知らせたのか。若菜ちゃんがここに入院していることを、彼はどのようにして知ったのか。

 だけどわたしは多分、その理由を知っている。

 わたしの予想が正しければ、おそらく、新宮先生にこのことを知らせたのは……。

「今日ここに来る前に、電話があったんだ」

 新宮先生はまるで世間話でもしているかのような至極軽い調子で、あっさりと答えた。

「君と同年代ぐらいの若い男性の声で、俺が入院している間にお前がした行動のことと、それが原因でここにいるのだということを教えてくれた」

「その人の……名前は?」

「名前は告げられなかった。ただ……『僕は若菜の兄みたいなものです。彼女のことが、心配なだけですよ』とだけ、言ってた」

 わたしは、やっぱり、と思った。

 若菜ちゃんもその説明で、その人が誰なのか容易に判断できたらしい。ハッと目を見開き、それからゆっくりと哀しそうに目を伏せた。

「アイツは……悟は、やっぱり分かってたんか」

 彼女は唇を動かして、そんな風に呟いた……と思う。わたしがいる位置からでは、正確に聞き取ることができなかった。ただわたしは、断片的に聞こえた単語と唇の動きで、彼女がおそらくそういう類のことを言ったのだろうと受け取った。

「知り合いなのかい」

 新宮先生の問いかけに、若菜ちゃんは小さくうなずく。「多分」と、控えめに付け加えながら。

 それから少しうつむき加減に、淡々と尋ねた。

「それで先生は、私のことを怒るために来たんか。こんなことをした私を、責め立てに来たんか」

「うーん……まぁ、そういう気持ちも少なからずあるけれど。別に、責め立てに来たとかそういうわけじゃない」

 新宮先生はほんの少し眉を下げながら笑うと、申し訳なさそうに頭を掻いた。

「そもそもこんなことをさせるまでお前のことを追いつめてしまったのはむしろ俺の方だと思うし、そんな奴が命の大切さを説いたところで……そんなの、説得力のかけらもないだろ?」

「まぁ、確かにそうやけど」

「即刻肯定すんなよ」

 ハハッ、と新宮先生が笑い声を上げる。彼が浮かべているであろう笑顔――ここからは角度的に見ることができないが――につられたかのように、若菜ちゃんも笑った。

 何となく、穏やかな空気が流れているような気がする。

 本当に心からのつながりをもっている人たちの会話というのは、おおよそこんな雰囲気をまとっているのだろうか。わたしは、これほどまでの圧倒的な空気を感じたのは初めてだった。

 ほんの少しだけ、二人が羨ましくなってしまう。

「――っていうか、そんな話はどうでもええんよ。本題を、聞かせてもらってもいい?」

 若菜ちゃんが話をもどそうと、ひときわ大きな声で言う。それは関西弁と標準語が混ざったような、ちょっと変てこな口調だった。

「ははっ……あ、あぁ。そうだな」

 新宮先生はひとしきり体を揺らした後、不意に改まったようにピシリと背筋を伸ばした。そんな彼を見て、若菜ちゃんも思わずといったように姿勢を正す。

 それだけで、先ほどまで二人の間に流れていた空気は一変した。張りつめたような雰囲気が、二人を包む。

 新宮先生はふと、視線を移したようだった。先ほど包帯を取り去ったせいでむき出しになったままの、ボロボロに傷ついた若菜ちゃんの左腕をおもむろに取る。びくり、と身体をこわばらせた若菜ちゃんに構わず、新宮先生は吐息交じりの声で、懺悔するように呟いた。

「俺のせい、だよな……ごめんな、若菜」

 泣きそうな目で、若菜ちゃんは首を横に振る。

「違う、これは私が勝手にやったこと……だから」

「痛かったろうに」

「そんなこと……ない」

 若菜ちゃんの返答に、彼がどんな表情を浮かべたのかは分からない。でもきっと、自分を責めるようなひどく悲しい顔をしているのだと思う。

 若菜ちゃんの左腕から手を離すと、新宮先生は一度若菜ちゃんの頭を優しく撫でた。そうして、決して明るいとはいえない声色で、意を決したようにもう一度口を開く。

「じゃあ、そろそろ……話すとするか。今の俺の口から、お前に言っておかなければならないことを」

 そのために俺は今日、ここに来たんだから。

 それまでの茶化すような口調とは違う、ひときわ低いトーンで新宮先生は話し出した。

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