第5話
「まず一つ目。若菜ちゃんは、先生のことを好きだった?」
「好きだったわ。もちろん、今も好きよ」
「じゃあ、告白は……?」
「してない」
わたしの言葉が終わる前に、若菜ちゃんはきっぱりと否定の言葉を述べた。
純粋に首をかしげたわたしを見て、彼女は苦笑した。
「そういう短絡的な『好き』じゃないわよ。もっと、表現するのが難しいくらいに深くて、複雑な感情だった……それに、」
そこで彼女は、ふっ、と瞳を翳らせた。愁いを帯びたその表情に、胸が締め付けられるような心地がしてしまう。
「もともと、あの人と私は……結ばれる運命にはなかったから」
「どうして?」
「彼には既に家庭があったからよ。私自身、不倫を侵してまで彼に恋をする気はないし、第一彼自身がきっと受け入れてくれないわ」
そこでようやく、あぁ、と思った。
好き合うというのは、必ずしも男女交際に直結するわけじゃない。好き合う男女が、必ずしもそういう関係になるわけじゃない。『好き』にも、その深さや種類によって違いがある。
きっと、そう若菜ちゃんは言っているのだろう。
男女だからというだけで、わたしはちょっと短絡的すぎたのかもしれない。
「わかった?」
「わかった。……じゃあ、二つ目」
若菜ちゃんの問いかけに深くうなずき、わたしは二つ目の質問――わたしにとって何よりも大きく、何より不可解であること――を投げかけた。
「今までの話と今回のことと、一体何の関係があったの?」
そう。彼女が話していたのは、今からおよそ十年近くも前のこと。高校時代の出来事が、今回のことに直結するとはどうしても思えない。
彼女は今回、いきなり自らの命を棄てようとした。だけどその布石は、いまだにまったくもって見えてこない。
「いったい、どうして……」
「まぁ待って。話はこれからよ」
わたしの言葉を遮るようにやんわりと言葉を発し、若菜ちゃんはクスリと笑った。これまでに見てきた無邪気な笑顔とは違う、大人っぽい、妖艶ささえ感じるような笑み。思わず引き込まれてしまうような……。
もしかしてこれが、彼女の素なのだろうか。昔からの関西弁交じりの独特な口調も、子供っぽい仕草も、快活な性格も……もしかして全部、演技だったのだろうか?
そう疑ってしまうぐらい、今の若菜ちゃんは普段と別人に見えた。
わたしは思わず息を呑んだ。それをきっかけとするように、彼女は再び話を始めた。
「高校を卒業してからも、ちょくちょく私たちは連絡を取り合っていた」
先程兄には『卒業してから一度も会ってないし、連絡すらしていない』と言っていたけれど……彼女の言葉を聞いて、それは嘘だったのだ、とわたしは悟った。
どうして兄に対してそんな嘘をついたのかはわからないし、わたしが本当のことを聞いたという確証もない。それでも、今こうしてわたしに語って聞かせている彼女の話に嘘はない……と、今だけでもそう思いたかった。
「互いの近況報告とか、思い出話とか、仕事に対する愚痴とか……そんな、本当にくだらないような話ばっかりだったけどね。それでも私は、不定期に交わすその連絡が心の支えだった。どれだけ辛くなっても、苦しくても、哀しくても……私の中には、彼がいてくれる。それだけで、私は生きようと思えた。私の抱えてきた孤独や虚しさが、埋まっていく気がした」
かつて母の七回忌の時、彼女が淡々と言った言葉を思い出した。
『それでも……生きていくしかないんだよ』
本来一番『死』というものに近かったであろう彼女から、そんな前向きとも取れるような言葉が出たのは……きっと、彼がいたからだった。
彼女の心の隙間を、新宮先生という存在が、塞いでくれていたから。
だから彼女は……生きようと、思えた。
なのにどうしてそれを今、放棄しようとしたのか。
この先を聞かなくても、わたしにはその理由が何となくわかったような気がした。
それでもわたしからはそれを告げることなく、若菜ちゃんに向けて先を促すようにうなずいてみせる。彼女はわたしにうなずき返すと、すぅ、と小さく息を吸い、再び口を開いた。
「そんなある日……って言っても、ついひと月ほど前のことなんだけどね。仕事で普段以上にストレスが溜まった私は、新宮先生に聞いてもらおうと思って何の気なしに電話をかけた。だけど……電話に出たのは女の人の声だった。不思議に思って尋ねると、その人は新宮の妻だと名乗った。そして、声を詰まらせながら私に言ったの。『あの人は数日前に自殺を図りました。現在も、生死の境目にいるんです』って」
その時の彼女にとって、それほどまでに絶望的な言葉はなかったろう。今まで心の支えにしてきたはずの人が、ようやく見つけた彼女にとって『分かり合える人』が……。
「私はなんとかその場を取り繕って、電話を切ったわ。それからすぐ衝動に任せて、部屋にあった睡眠薬をその場に全部ぶちまけた。それから先のことは……言わなくても、わかるよね」
どこか投げやりに、若菜ちゃんは笑った。わたしはなんだかやりきれない気持ちになって、唇をその感覚がなくなるぐらいまで強く噛んだ。歯が食い込むような感触と共に、鉄の味が流れ込んできたような気がしたけれど、そんなことこの際気にしてなんていられない。
「なんだか身体の半身を、失ったような気分になったのよね。開いてしまった穴から隙間風が吹き込んでくるみたいに冷たくて、余計に寂しさや虚しさが増して……あの人がいなかったら、生きていても仕方ない、なんて直観的に思ったのかもしれない。どうやったら死ねるかなんて、そんな順序さえ考える余裕はなかった。後先なんてどうでもよかった。早く、あの人が向かうであろう場所に行きたかった」
わたしは何も言えなかった。ただうつむいて、唇をぐっと噛んでいただけ。まるで、嗚咽を堪えているような感覚だった。
若菜ちゃんは今、どんな表情をしているんだろう。また、無理に笑っているのかな。哀しげな眼で、こっちを見ているのかな。
怖くて、顔なんて上げられなかった。
わたしの気持ちを知ってか知らずか、若菜ちゃんは淡々と言葉を続けた。
「目が覚めたら、病院だった。あぁ……失敗したんだな、って思った。目の前には両親とお医者さんがいて、意識を取り戻して早々だっていうのに、お母さんにひっぱたかれた。お母さんは泣いていた。お父さんは咎めなかった。ただ、私が生きていたことに対して心底安堵したような顔をしていた。その情景を目の当たりにした瞬間、我に返ったの。そうだ、死ぬってことは……この人たちを、地獄に突き落とすようなものなんだ、って。自分はなんて、馬鹿なことをしたんだろうって」
それはそうだろう、とわたしは思った。
子どもが親より先に死ぬのは最大の親不孝だ、と、かつて誰かが言っていた。わたしの母が亡くなった時、祖父母が――彼女の両親が、どれほど悲しみに暮れていたか。わたしはそれを間近で見ていたのだから、よくわかる。もちろん若菜ちゃんだってその場にいたのだから、同じようによくわかっていたはずだ。
だけどそんなことを気にする余裕もないくらい、彼女は新宮先生の行動にショックを受けたのだろう。
新宮先生の家族も、同じ気持ちだったに違いない。その行動はまさに、彼が築いてきた大切なものたちを、一気にぶち壊していくようなものだ。
彼を大切に思う人間たちの気持ちを、一気に反故にするようなものだ。
新宮先生は、現在どうしているのだろう。ちゃんと、助かったのだろうか。
それとももう……。
そこまで考えて、わたしは勢い良く首を横に振った。
そんな不謹慎なこと……彼や、そのご家族に対して失礼だ。それにこんなことを若菜ちゃんが聞いたら、今度こそ後を追ってしまいかねない。
噛んでいた唇をようやく解くと、わたしは若菜ちゃんの方を見た。わたしの顔――正確には、口元の方――を見た若菜ちゃんが、驚いたように目を見開く。
「何や、あんた……唇から血ぃ出とるやないか!」
早うこれで拭き、と差し出された箱からティッシュを一枚引き抜くと、わたしは唇を拭った。大した傷ではないようだが、確かに血がにじんでいる。わたしは思わず苦笑した。
「道理で、さっきから血の味がすると思った」
「アホか」
若菜ちゃんが笑って、軽く頭を小突いてくる。いつの間にか、彼女はいつもの調子に戻っていた。先ほどまでの様子など、微塵も感じさせない。ひまわりのように無邪気で、朗らかな、笑顔。
これで、彼女は少しでも乗り越えてくれただろうか。
これまでずっと抱き続けてきた孤独や虚しさが、取り除かれたわけではもちろんないだろうけれど。
だけど、それでも……もう二度と。
若菜ちゃんが見せる、ひまわりのように明るく屈託のないいつもの笑顔に、わたしが目を和ませた時。
トントン、と病室のドアがノックされる音がした。誰かがここに来たようだ。ここは個室だから、また誰か若菜ちゃんの知り合いが来たのだろう。
誰だろう。絢乃さんだろうか。
そう思いながらドアの方を見る。若菜ちゃんが「どうぞ」と声をかけると、病室独特の白いドアがゆっくりと開いた。
入ってきたのは、仕立ての良いスーツに身を包んだ、三十代後半ぐらいの男性だった。穏やかそうな顔つきと、程よく引き締まった体躯が、わたしの目を惹きつける。
その人はとても、魅力的に見えた。
だけど誰かは分からない。見覚えがないから、今までに一度も会ったことがない……と思う。わたしの記憶が正しければ、の話だが。
わたしは首をかしげていたけれど、若菜ちゃんはどうやらその人と知り合いだったらしい。
「新宮、先生……」
消え入るような微かな声に振り返れば、驚愕に目を見開きながら唇を震わせている若菜ちゃんがいて。
「久しぶり、瀬戸ちゃん」
入口の方をもう一度振り返ると、その人は――新宮先生は人当たりの良さそうな笑みを浮かべ、若菜ちゃんにそう呼びかけた。
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