第4話

「私の生い立ちは、取り立てて説明するまでもないわ。ごく普通の一般的な家庭に生まれて、普通に育ってきた。成長するにつれて増えてきた周りの人たちとも、いつもそれなりにうまくやってたし」

 彼女の口からそういう話を聞いたのは、これが初めてだった。

 従姉妹同士だといっても、わたしたちは頻繁に会うわけじゃない。学校すら一度も被ったことがないのだ。だからわたしは、彼女の辿ってきた遍歴を詳しくは知らなかった。

 黙っているわたしに構わず、若菜ちゃんはさらに続ける。

「だけど……いつの頃からか、慢性的に感じていたことがあった」

 そこで、ふ、と若菜ちゃんが座っていたわたしの方に顔を向けた。わたしを見つめる目はガラス玉のように澄んでいて、その表情はとても静かだった。

「自分だけ、どこか浮いているような感覚。私にとってこの世界は場違いなんじゃないかっていう、なんていうか、孤独っていうか……淋しさっていうか。私はこの世界から、置いてきぼりにされているって。友達と遊んでいても、両親と笑いあっていても……毎日どれだけ楽しいことがあっても、私は常に、そんな言いようのない気持ちを感じていた。周りに置き去られたまま、深い孤独を抱えて生きていくくらいなら……こんな世界からは、早く立ち去りたい。そんなことさえ思っていた」

 それは、初めて耳にする事実――そして、わたしが一度も経験したことのない感覚だった。こうして生きていることに対する、疑問、寂しさ、空しさ……それらの気持ちを若菜ちゃんがずっと感じていただなんて少しも知らなかったし、わたし自身そんな感情はただの一度も抱いたことがなかったから。

「自分でも説明するのが難しいこの例えようもない感情を、きっと誰もわかってはくれないだろうって思ってたから。だから、こんなこと誰にも相談できなかった。どうしたらいいのかわからないまま、この気持ちをもて余したまま、人生を放棄することもできずにずっと生きてきたの」

 正体不明の感情を、誰にも打ち明けられないまま、一人きりで抱えながら生きていくこと……それは、どれほど辛いことなのだろう。浅はかなわたしには、到底計り知れない。

 若菜ちゃんの目を、じっと見つめ返す。空っぽの瞳からは、何の感情も読み取ることができなかった。

「そんな時に出会ったのが、高校での担任……新宮先生だった。この人のことは、凛にも一度話したことがあったよね」

 それは、母が入院する少し前のことだっただろうか。

 当時高校生だった若菜ちゃんが、軽いケガをしていたことがあった。不思議に思ったわたしが『どうしたの、それ』と尋ねると、照れたように『体育の授業で、ちょっと失敗したんよ』と答えた。

 しかしその直後、彼女は何かを思い出したような顔をすると、突然拗ねたように唇を尖らせた。

 突然表情を変えた彼女の心理がわからなくて、わたしはおろおろとしながらこう尋ねた。

『若菜ちゃん、どうしたの? 何で拗ねてるの?』

『いや、ちょっと思い出してなぁ……』

 若菜ちゃんは苦々しげに、けれどちょっとだけ笑いながら答えてくれた。

『ケガした時、他のみんなは心配してくれたんにさぁ、新宮先生……うちの担任だけは「瀬戸ちゃんは本当にドジだねぇ」言うて爆笑しよったんよ。ホンマ、ありえへんわ』

 彼女の唇はやっぱり不満そうに尖っていたけれど、その瞳はどこか優しげな……愛おしげな光が宿っていた。

 あの時、わたしには何故彼女がそんな表情をしたのかわからなかった。けれどその出来事は、何故かずっと忘れられないまま、今でもわたしの記憶の片隅にはっきりと残っている。

 ――そんなずっと昔の記憶を一つ一つ思い返しながら、わたしはゆっくりとうなずいた。すると若菜ちゃんも、わたしを見ながら同じようにうなずき返してくれる。

「彼は朗らかな性格で、誰にも分け隔てなく優しくて……ちょっと忘れっぽいところとか時折意地悪なところはあったけど、素敵な先生だったわ」

 わたしの脳裏には、一度も見たことがないはずの『新宮先生』の笑顔がありありと浮かんでいた。隣で朗らかに笑う、若菜ちゃんの姿も……。

 今、病室のベッドに身体を預けている若菜ちゃんは、聖女のように穏やかに、ひどく優しい微笑みを浮かべていた。まるで、ずっと昔にあった楽しかった出来事を、映像として眺めているかのように。

 だけどその瞳だけは、どこか、痛ましい光を帯びていた。

「それなりに若くてかっこよくて、誰にでも分け隔てなく接してくれる……そんな彼を好きになる女の子は、きっと多かったんじゃないかな」

 そういう大人に対して憧れを抱いてしまう気持ちは、わたしにもよくわかった。もし新宮先生に出会っていたら、わたしだって例外なく彼に惹かれていただろう。

 そんなことを考えていたわたしの頭の中をまるで見透かしたかのように、若菜ちゃんは澄んだ温度のない目でこちらを見つめながら「でもね」と小さく呟いた。

「私が彼に惹かれた理由は、そんなことじゃなかった。私が最初に彼に興味を持ったのは……初めて教壇に立った彼と、偶然目が合った時」

 若菜ちゃんがすっと目を細める。

「彼は朗らかに笑っていた。でも、その黒い瞳は……まるで人生に何の楽しみも見いだしていないかのように、空っぽだった」

 俗に言う『目だけ笑ってない』という状態のことだろう、とわたしは漠然と思った。

「その目を真正面から見たとき、思ったの。あぁ……この人はきっと『私と同じ』だ、って」

「同じ……?」

「そう」

 口から勝手に漏れたわたしの呟きに、若菜ちゃんは深くうなずく。

「きっとこの人も、私と同じ気持ちを抱えながら生きてきたんだ……って。この人も私みたいに、人生に絶望してるんだって。確証はなかったけど、直感的にそう思った。まぁ、簡単に言えば仲間意識ってやつかな」

 自分とどこか似ているような気がする人に惹かれてしまうのは、世の摂理なのかもしれない。同じ気持ちを抱えているからこそ、分かり合える……そんな風に、思ってしまうのだろう。

「だけど最初は、言わなかったの。不必要に距離を詰めようともしなかった」

「どうして……?」

 わたしは思わず聞き返した。

 仲間と思える人間に出会えたなら、すぐにその人に近づこうとするんじゃないの? 自分のことを、わかってもらおうとするんじゃないの? わたしなら、絶対にそうする。

 だけど若菜ちゃんは、ゆるりと首を横に振った。

「そんなこと言って、本当は違ってたりしたら嫌じゃないの。もし、私の勝手な思い込みだったら……余計に傷つくわ」

「……」

 彼女の言うことは、もっともだった。仲間意識なんてあくまで自分の勝手な思い込みであって、その人は何も悪くないのに……もしそれが違っていたら『裏切られた』と思い込んでしまって、その人を恨まずにはいられなくなってしまうだろうから。

「初めて会ってから半年ぐらいの間は、普通だった。担任といっても四六時中クラスにいるわけじゃないから、授業やホームルーム以外ではあんまり会いもしなかったし……会ったら会ったで、ドジだとか落ち着きがないとかからかわれるだけだったし。核心に触れる話は、一度もしたことなかった」

「それで……若菜ちゃんは、満足だった?」

「そうね。あの人と一緒にいるのは楽しかったし、仲間意識とかそういうのを抜きにしても、居心地がいいと思った」

 わたしの唐突な質問に対し、若菜ちゃんは満足げにそう答えた。多分それは本心から言っているのだろう。

 新宮先生の隣にいることを、新宮先生のいる学校生活を、そのころの彼女はきっと、心から楽しんでいた……。

「そんなある日、彼と二人きりで話す機会があったの。多分、個人面談か何かの時だったと思う。その時に……彼が、私に突然言った。『君は、俺と同じなのか?』って」

 『同じ』……。

 新宮先生が言ったというその言葉が何を指しているのかは、容易に理解できた。若菜ちゃんが幼いころから感じていた原因不明の気持ちを、彼もまた同じように感じていたのだ。

「一瞬何の事だかわからなかったけれど、すぐにピンときた。そして、嬉しくなった。仲間意識を感じてくれていたのは、私だけじゃなかったんだって。ようやく、私のことをわかってくれる人が現れたって、そう思った」

 若菜ちゃんの声に、わずかに熱がこもってきた。心なしか、瞳にも光が宿っているように見える。当時の彼女にとって――むろん、今の彼女にとってもだろうが――それは、とても大きな出来事だったということだ。

「私が一言『はい』と答えたら、彼も嬉しそうに微笑んでくれた。私が思ったのと同じように、ようやく分かり合える人が見つかった、と考えたのかもしれない。……それから私たちは、一時間ぐらいかな、ずっと話してた」

「どんな話をしたの?」

「別に、他愛もないことよ。互いの心の闇をさらけ出すような直接的な話じゃなくて、本当に、ありふれた、普段通りのこと。口に出さなくても、分かり合えているっていう事実だけで、不思議と安心してしまうのね。多分彼も、同じ気持ちだったと思う」

 口に出さずとも、分かり合えること……。

「きっと……精神世界とか、そういうレベルで、若菜ちゃんと先生は支え合ってきたんだね」

 わたしの言葉に、若菜ちゃんは瞳を和ませた。

「そうね……そうだったと、信じたいわ」

 囁くように小さく、噛みしめるようにゆっくりと、彼女は呟いた。

「……それ以降は、普段と何ら変わりない生活だった。変わったことといったら、以前よりよく話をするようになったってことぐらい。互いに仲間だと感じてから、気軽に喋りやすくなったんだと思う。そんな彼と、当時一緒だったクラスメイト達と一緒に、私は無事高校三年間を過ごした」

 高校時代の話は、これで終わりのようだった。ひと通り聞いたけれど、別段何も問題は起きていないように思う。

 だけどそこで、わたしの中にはある疑問が生まれた。

「ねぇ、若菜ちゃん」

「何?」

「二つほど、質問があるんだけど。いいかな」

「いいわよ」

 若菜ちゃんは鷹揚にうなずいた。それを合図に、わたしは一つ息をつくと、彼女に向けて『質問』を投げかけた。

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