ペルソナ・(ノン)・グラータ

文月遼、

ずっとこの時を待っていた

 久しぶりに会った友人は、目許をすっぽりと覆い尽くす仮面を被っていた。



「……睦月君? あー、やっぱり。ムツ君だ!」

 人もまばらな駅の改札口。ぱらぱらと振っている雨を見て、折りたたみ傘を探して鞄を探っていたおれの後ろから、きゃっきゃとはしゃぐ声が聞こえた。


 忘れることの無い声だった。小学校の頃の、親友の声。


 振り返ると、目元に光沢のある青い仮面を被っていた。


 長らく会っていない彼女にあったことも驚いているが、それ以上に強烈なインパクトを持つものを見せつけられて、おれは一瞬言葉に詰まった。


 まるでアニメのキャラクターがしているような、派手なデザインだ。

 

 この異常なファッションに気付くものはいないのかと周囲を見渡してみたが、彼らはその仮面に関して何の反応も示さない。声がするなあ、程度にちらりと彼女を見ても、それ以上は隅に置かれた観光ツアーのチラシに向けるほどの関心さえ払わない。


 仮面女子なる流行でも出来たのか。おれの困惑と若干の躊躇いを他所に、彼女は面白いものを見つけた子犬のように駆け寄って来る。もっと気の利いた事を言えただろうに、おれが言ったのは平凡で、退屈な言葉だった。時折、おれは自分の語彙の貧弱さに悲しくなる。


「お前……由佳ちゃ……天目(あまめ)か?」

「他に誰がいるの。もー、いつぶりだっけ。ええと」

「七年くらい前だったか」

「七年! そっかー。あたし達も、もう高校生だもんね」


 天目由佳は大袈裟に驚きながら、七年というおれたちの人生のほぼ三分の一という、極めて大きな時間の隔たりを欠片さえ感じさせない、人懐っこい笑い方だった。


 後ろに結った艶のある髪が小刻みに揺れた。彼女はとりたてて美人というわけではないが、道行く十人に一人くらいは振り返るかもしれない愛嬌がある。


 その笑顔というやつは人を落ち着かせる何かがある。細かいことがどうでもよくなるような包容力とでも形容しようか。

 もっとも、その人を揺さぶる何か、どうでもよくない仮面を見せつけられたせいで、その魅力は差し引きゼロといったところなのだが。


「そういや、どうしてまたここに?」

「今まではお父さんの引っ越しに付き合ってたけど、これからはここのお婆ちゃんの家に住むことになったの。お父さんはこれからきままな一人暮らし」


「なるほど、単身赴任ってやつか。天目んところも大変だな」


「そうでもないかな? これで都会に遊びに行く理由も出来たわけだし」


 屈託がない彼女の笑みに、おれは苦笑を返すことしかできなかった。


 雨は弱まっていた。それでも春先とは言え、夜になれば柔らかな日の暖かさが残る場所は無かった。冷たい風に天目がぶるりと身を震わせた。


「寒いなあ、もう……そうだ。ムツ君、アドレス教えてよ」


 おれは頷いて携帯電話を取り出す。アドレスやトークアプリの交換をしている間、おれはずっと彼女の仮面を見ていた。正確にはその奥を見ようとした。


「お、来た。あれ、どうかしたの?」

「ああ、いや……そうだ、送っていこうか?」


 おれの視線に気が付いた彼女が見上げてくる。六年前を思い出した。あの時の目線は同じくらいだったけれど。今はずいぶんと背丈が変わった。


 天目は結構なちびすけだ。


「平気だよ。結構近いし」

「もうじき八時だぜ。最近不審者も多いし……」

「傘があるし、大丈夫だって」


 彼女は、少し乱暴に扱っただけで骨の折れそうな、頼りないビニール傘を剣のように構えて見せる。


「バカたれ。ガキのちゃんばらじゃ……」


 肩を竦め、子供じみた仕草をする彼女にそう言いかけたところで、仮面の奥が見えた気がした。

 仮面の奥、彼女の目元に、みみず腫れのように膨れた傷の跡が見えた気がした。


 薄い桃色をした血色の良い顔の、その部分だけが毒々しい紫色になっているような。


 その傷の生々しさと、混じりっ気のない笑顔のギャップがあまりにも痛々しくて、おれは視線を天目から話した。


「そっか。気を付けろよ」

「へ? ああ、うん……じゃあね」

 おれが視線を戻すと、天目はひどくゆっくりとしたペースで歩き始めていた。時折、こちらを振り返る。彼女の顔は、距離もあったせいでどんな表情をしているのか分からなかった。その時にはもう、仮面の奥は見えなくなっていた。


 結局、仮面の理由を聞くことは出来なかった。出来るわけが無かった。



        ※



 二年生の五月という、ある程度つるんだりするグループが定まって来る時期というものは、転校というイベントはそれほど大きなイベントにはならない。それが、人の出入りの多い高校ともなれば尚更。


 転校生という肩書が力を持たなくなる最初の場所とも言える高校で、天目はすでにクラスの一部に溶け込んでいた。ひとえに彼女の実力……というのも変だが、そういう魅力とか、立ち回りの上手さだった。


 学校にいる間も天目は駅で会った時と同じ仮面を被っていた。そして、仮面については誰も気にかけない。友人に話を聞いたりしようとも思ったが、怪訝な顔をされることは分かり切っていたので、止めた。

 6限前の小休憩。特にやることも無く、手早く授業の準備だけを済ませて頬杖をついてぼんやりと天目の様子を眺める。


「ムツ君、どうしたの?」


 午後の眠気に閉じそうなまぶたをどうにか開く。仮面の白い眼がおれを見据える。実際のところはどこを向いているか分かったものではないけれど。頬杖を止めて、大きく伸びをする。すり減った精神の疲労は、なかなか取れない。


「ああ……お前のこと考えてた」

「……へ?」


 ぽかんと口を開ける彼女を見て、俺はようやくとんでもなくクサい、ガラにもない事を言ってのけたのだと気が付いた。おれの顔が熱くなる。向こうも同じだろう。天目の頬に、うっすらと赤が差した。

 ああくそ。なんで仮面なんかしてるんだろう。

 

「ああ、いや。そうじゃなくてな」

「なにがそうなの?」


 慌てる様子に、彼女は口許に意地の笑みを作った。


「いや、もと住んでたとこってもさ、環境も結構変わってるし……その、大丈夫かなって」


 おれの苦し紛れの返事を聞いて、口許をさらに歪ませる。溢れてくる笑い声をせき止めている。


「そんなおかしいことを言ったか?」


 今度は喉までも絞っているのだろうか。小さな笑い声では無く悪い魔女のような、しゃくり上げるような笑い方になった。


「だって、ムツ君はほとんど変わってないから、安心しちゃって。なんか、あたしのこと避けてるみたいでさ。ちょっと不安だったんだ。でも違った。よく見てくれてるんだよね」


 よく見ているのはお前の方だ。おれは心の中で呟いた。半分くらい正解だよ。けれど、そういう訳にも行かないから、すっとぼけることしかできない。


「そうか?」

「変なとこで気遣ってきたり、ぶきっちょなとことか。全然」


 ぶきっちょ。思わずむっと来て言い返す。


「不器用……? そんなことないだろう」

「ぶきっちょ」

「違う」

「ぶきっちょ」

「だー、もう! 俺は……」


 思いのほか大きな声が出て教室が静まり返った。クラスの半分くらいの視線がおれに集まる。

 気まずさで死にたくなる。

 天目はついに限界を迎えたのか、ゲラゲラと笑いだした。涙が滲んでいるらしい目じりを拭う。その指は仮面など無いかのように青い光沢を放つそれをすり抜けた。


「ほーら、ぶきっちょだ」

「ぶきっちょは関係ないだろう。今の」


 うひーだの、ひえーだの。およそ年頃の少女の出すべきでない笑い声を上げた後、こう言った。


「勝手に怒ったそっちの落ち度じゃん。分かったでしょ。少なくとも、ムツ君をおちょくれるくらいには大丈夫」


 。それを聞いた瞬間、吐き出しかけていた息が止まった。

 心臓を、肺を、身体の中のあらゆるものを冷たい手に愛撫されたような感覚。逃げたくても逃げられない、悶えるような苦しさ。

 それを厚い面の皮で覆い隠す。

「ああ、良く分かったよ……」


 そう言うと同時に始業のベルが鳴ったのは幸運なことだった。周囲の視線が弱くなる。

 加えて、教師の目を逃れる時、女子と言う生き物は恐るべき俊敏さを見せる。天目も同じだった。


 やる気の無い号令の為に立ち上がる。礼をした姿勢のまま椅子に座り、同時に教科書を開いて突っ伏した。


         ※


 俺はスクリーンを見るようにして、ある光景を眺めていた。果てを見通せないくすんだ十月の空。小学生ほどの子供が二人いた。年に三回も使われれば良い方だろう、寂れた公民館。


 同じく人気の無い公園。まばらに生えている草だけが、お情け程度には草むしりがされていることが分かる。


 ここは彼らの――いや、おれと天目だけの遊び場だった。何が危ないだとか、そうじゃないだとかいう分別がろくにつかない、向こう見ずな子供だったときの遊び場だった。


 苔の生したベンチよりはましだとばかりに地面に投げ捨てられた、赤と黒のランドセル。


 間抜けな姿勢でぽかんと立っている男は、おれだった。小学校三年生の、山地睦月だ。


 おれから顔を背けてうずくまり、手で顔を押さえているのが、


「……由佳ちゃん」


 声変わりをする前のおれの声が、天目の名を呼ぶ。その手に握られていたのは、見ていると目がちかちかしてきそうな黄色の蛍光色の傘。天目の足元には、白地にカラフルな水玉の傘。


  時に子供だけに許された特権と言うものがある運賃が半額になったり、ちょっとしたサービスがもらえたり。その手のものではない。


 退屈な世界をファンタジーに変える。


 子供にしかできないことだ。


 誰も来ない公園は、選ばれた者しか立ち入ることの許されない神聖な場所だった。


 二本の傘は正義と悪を司るつがいの剣だった。


 天目は正義の剣を持つ勇者で、俺は悪の力に溺れたかつての勇者。


 


 バカバカしいと言えばその通りだが、そのバカバカしさを本当のことだとして受け止めるだけの純粋さと想像力は十を超えるか超えないかまでしか残らない。


 そして、バカバカしさを本当のことと受け取るあまりに加減とかを忘れるのも、その年頃だった。


 ほんの、はずみのはずだった。


「痛い……痛いよお……」


 天目の口から細い声が漏れる。おい、どうした。山地睦月。はやく答えろよ。すなおにごめんなさいと言え。簡単な言葉だろう。スクリーン越しに急かそうとしてみるが、当然ながら画面越しにいる睦月おれには届かない。


「……由佳ちゃん」


 子供のおれが、やっとのことでひねり出した言葉は、二メートル先にいる彼女に届いているかどうかすら分からない、吐息のように掠れた声だった。


「ムツ君……」


 すすり泣きの中で返す彼女の声のほうが、まだはっきりとしている。天目が振り返った。その顔を、おれははっきりと見ていた。


「大丈夫……だよ」


 おれは、睦月は彼女からじりじりと後ずさり、逃げ出していた。ランドセルを掴み、天目のことを振り返ることさえ無く走っていた。


 自分の部屋で座り込む、子供のおれがいた。よく覚えている。激しい後悔と、誰かに罰してもらいたい。それでも、自分からは言い出せないという躊躇い。都合の良いことだと分かっていても、自分の口からではなく、誰かの手によって暴かれ、責められたいと。


 翌日の金曜の朝。次は休日だと、疲れを滲ませながらも楽しみに思いを馳せる生徒の波。子供のおれの視線の先に天目がいた。目にパッチを当てている。彼女がおれに、睦月に気付いた様子は無かった。


「由佳ちゃん、その眼、どうしたの?」

「うん、ちょっとぶつけちゃって」


 その言葉が聞こえたのか、おれは背を向けた。その日は金曜日で、おれは学校を休んだ。図書館でぶらぶらとしていて、それを大学生の兄貴に見つかって、こっぴどく叱られた。


 謝ろうと決意した週明けに、彼女が転校したのだと知った。




         ※


 背中に何か小さな固いものがぶつかった気がした。身を起こして振り返ると、マスクが……天目が見えた。

 口許がにぃと笑っている。足元には消しゴムが小さく跳ねていた。肝心の教師はと言うと、黒板に小難しい英文の活用だとか何だとかをしきりに書き込んでいる。


 おれはポケットにもぐらせていた携帯電話を取り出した。よくないことだと分かってはいたが、それでも、今しかないと思っていた。トークアプリを開いて、手早く文字を打ち込む。


《ちょっといいか》


 天目が俯いた。遅れて小さな音でぽいーんと着信音がして、慌てて音量を消す。一瞬教室がざわついたが、肝心の教師は気付いていない。



《授業中、今》

《分かってる。終わったら付き合ってくれ》

《いいけど、どこに》


 少しは躊躇えよと思わなくもない。打ってからしまったと思ったおれがばかみたいじゃないか。


《その時に伝える》

《了解》


 音を立てないようにして携帯電話を閉じる。

 授業中というイレギュラー、手短に話をしなければならないとは言え、喋る時とは随分違うメールの文面に少し驚いた。軍人かよ。


 そして今日はじめて、天目に直接話すのではない連絡手段を使っていることに気が付いた。


 終業のベルが鳴る。適当な文庫本を読んでホームルームを聞き流す。最後のやる気の無い礼を終えて、荷物をまとめていると、天目がおれの机に腰掛けた。机に視線を落としていたから、天目の背中とお尻が見えた。


「ムツ君も、結構ワルだね」

「机に座りこむ天目ほどでは。部活とか大丈夫か?」

「大会はまだ先だからね、ムツ君は?」

「大会は近いが補欠の補欠だからな」

「昔から、運動苦手だもんね」

「うるさいよ。ところで天目、傘は持ってるか?」

「ふえ? まあ、置き傘ならあるけど……」

「持っていこう。夕方から荒れるみたいだから」


 天気予報、そんな事言っていたっけ、などと呟きながらも、しっかりと傘を持って着いて来てくれる辺り、天目は優しい奴だ。




      ※



「ねえ、ムツ君。ここって……」


 おれが天目を連れ込んだ先……というのも語弊がある。案内した先は、寂れた公民館の裏だった。ついに遊具もベンチも取り払われ、公園だと分かるようなものは、申し訳程度のコンクリート製の車止めだけだった。


 辺りを見渡す天目をよそに、おれは鞄を適当な場所に放り棄てる。傘は持ったままだ。それから顎をしゃくって、そうするように促す。天目も、誘った時から変わらない、頭の上に疑問符を浮かべたまま鞄を放った。


「久しぶりだな。ここに来るのも」

「え? ……確かに、そうだけどさ」

「昔はここで色々をやったよな。おれが魔王でお前が勇者で、みたいなごっこ遊びとかさ……今から考えればバカみたいなことだけど」


 おれの言葉に、天目は傘の柄を握ったまま小さく頷いた。


「折角会って、久々に来たんだ。もう一度バカをやってみないか」


 ぽかんと天目が口を開けたまま立ち尽くす。おれが最初に彼女の仮面を見た時と同じか、それ以上に間抜けな顔だった。


「久々に来たと言うか、ムツ君が連れて来たと言うか……え?」

「傘を使って、ちゃんばらとかさ……ほら、偶然にも」

「偶然にも……って! それはムツ君が持って来いって」


 こうなれば、やけだった。童心を呼び起こして、俺は力の限り叫ぶ。どうせ、この辺に人気は無いんだ。


 どうせなら、思いっきりやってやる。その方が、天目もやりやすいだろう。


「問答無用! 勇者天目よ、覚悟せい!」


 天目が何かを言い出す前に、俺は傘を大きく振りかぶった。狙うのは天目の肩辺り。とはいえ、思い切り当てるつもりもない。天目はおろおろとしながら傘を構え――おれの傘を受け止めたと思った瞬間におれの脇腹に軽い衝撃が来た。


 ぱしんっと軽い音と共に、天目が数歩後ろへと下がっている。


「ちょっとムツ君! いきなり何を……」


 こっちの台詞だった。明らかに動きがおかしい。でも、これはこれで好都合かもしれない。


「ええい、やるではないか! ならばっ!」


 今度は手首を使って天目の傘を弾こうとする。思い切り力を入れたにも関わらず、天目の傘は動いたと思ったらばねのように跳ね返り、おれの右ひじを打った。痺れがくる。


「もーっ! 分かったよ。付き合ってあげるから!」

「ふははっ! それでこそ我がライバル!」


 口ではそう言っているが、天目の動きは間違いなく素人のそれじゃない。運動不足気味のおれが追い付ける動きでは無い。

 けれど、全身に力が漲って来るような気分だった。


 なにくそと振り上げる。上げ切る前にその手の甲を打たれた。


 手元を狙う。それよりも先に手元を打たれ、頭を守ろうとした瞬間に横腹を打たれた。


 おれの振るう傘がことごとく受け流される、どころかカウンターとばかりにばしばしと叩かれる。いつの間にかおれもむきになっていた。


 動く前に手元で潰される。受け止められて、返す勢いに乗った傘がおれのあちこちを叩く。すれ違いざまにやられる。


 おれが大きく傘を振り上げ、一歩を踏み出す。その目の前に傘の先端が突き出されて、反射的に後ろにのけぞる。そのままバランスをくずし、おれは倒れ込んだ。


「これまでよ、魔王ムツ!」

「見事……」


 ふぅと、天目はため息をついて、おれの鼻先に突きつけていた傘を下ろした。


「いきなりでビックリしたけど……大丈夫?」

「……情けなど、不要。我は」

「そうじゃなくて!」


 天目の声に、びりっと空気が震えた。思わず、魔王の演技が剥がれそうになる。演技を続けようと言葉を探したところで、また、ぴしゃりと声に打たれる。


「自分の言葉で喋る!」


 ここまで言われると、なんだか情けなくて、鼻の奥がつんとしてくる。その刺激をこらえて目許を擦る。おれは白状するしかない。


「……ごめん」

「ごめんって、何が?」


「天目が、引っ越す前の時、ちゃんばら……」


 息切れする俺とは裏腹に、天目は汗を軽く滲ませるだけだ。何かを思い出すように見上げ、ぽんと手を叩く。


「ああ。そういえばそんなこともあったかも……最初の動き、なんか変だなあと思ったけど。まさか」

「そんなことって……、確かにそうだけど。変わりにおれを思いっきりぼこぼこにしてくれたらと思って」

 パシッといい音がして、目の前に光が走った。傘で思い切り頭を叩かれたのだ。怒気を含んだ声が耳を突く。


「変なとこで気を遣う! 大丈夫って言ってたでしょ!」

「でも、眼が……」

「眼? 何のこと?」


 天目が目の前にしゃがみ、顔を寄せる。目の前に大きな仮面が近づいて、その奥にある傷跡の痛々しさを思って目を閉じる。


「閉じない!」


 瞼を親指で押され、そのままぐいと持ち上げられる。無理やり開かれた眼の前に、栗色の大きなアーモンド状の目があった。 

 青い仮面はどこにも無い。よく見れば、うっすらと線が走っているようにも見えるけれど、紫色の毒々しい色を放つ傷跡なんかどこにもなかった。


「それで? 眼が?」

「何でも……本当。ごめん、ごめんなさい……由佳ちゃん」

「……今のムツ君、すごいカッコ悪い」

「うん。おれもそう思う、本当」

「そもそも、謝るんならもうちょっとムードとか、気の利いたこととか、出来ないの?」


 おっしゃる通りで。美味しい物を食べさせるなり。どこか遊びに連れて行くなり、罪滅ぼしの方法なんていくらでもある。

 けれど、それをやってもお前は怒るだろう。そう思ったが、言わないことにした。余計怒るだろうし。変わりにおれはちょっとした疑問をぶつけることにした。


「……でも、お前。強いな」

「当たり前でしょ? 剣道部なんだから」


 剣道。そう言われてようやく納得が行った。道理で、動きがバカみたいに強いわけだ。なら、ちょっと悪い事したかもしれない。うちの剣道部は結構な強豪だったのに。


「でも、防具つけずにチャンバラやると、こんなに動けるもんだねー」

「あれ、結構重たそうだもんな」

「うん。それに、臭いもキツイし……ちょっと、嗅がないでよ」

「バカ言え、嗅いでないよ」


 天目はおれをキッと睨みつけた。その視線に、一瞬たじろぐ。蛇に睨まれたなんとやらだ。けれども、すぐに天目は……いいや、由佳は笑みを浮かべた。


「でもね、待ってたんだ。その言葉を。こうやってまた、バカみたいに遊べる時、ずっと」


 もう一度、おれも頷いた。今度は、確かに。


「さて、もう一戦やる?」

「……止めておくよ。今度は俺が怪我をしそうだし」


 ひっどーい。由佳はそう言って、けらけらと笑った。


 マスクはもうどこにも無かった。


 七年ぶりに見た少女の本当の笑顔は、ひどく眩しかった。

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ペルソナ・(ノン)・グラータ 文月遼、 @ryo_humiduki

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