石清水記
橘 泉弥
石清水記
朝起きると、家の外でメダカが御遊戯をしていた。透明な流れに逆らいながら、互いに追ったり追われたりする。輝く水面とその柔らかな模様を映す砂利の狭間で、彼等の小さな背も黄金色に光っていた。
軽く屈伸し、メダカの群を散らして外に出る。
かつて巣穴で長い時を物思いに耽り、出られなくなった者もいたらしいが、私はその類ではない。
今日もいい天気になりそうだ。揺れるスクリーンと木々の向こうに、青い空が見えている。
食事の為に平生の狩場へ向かう途中、知人の魚痣に遭遇した。
「おや、お早う」
「おや、お休み」
挨拶を交わす。
「緑大岩の御嬢さん、婚約が決まったらしい」
「そうか。少し早い気もするが、あの方は見目麗しいからな」
少々世間話をし、魚痣は去って行った。もうこの時間だ、寝床に帰るのだろう。
其れが普通と言えば普通なのだ。私の様に、昼間に活動する大山椒魚は珍しい。体質上どうしようもないのだが、私に知人が少ないのは、多くこの為だと思われる。
狩場へ着いた。岩陰に隠れ、獲物を待つ。自分から動かずとも、食べ物は勝手にやってくる。
すっと水が動いたので、四肢を張り身構える。
視界に入ったのは蛙だった。此れは、私の好みではない。妙な弾力があり舌触りもあまりよろしくないし、何より見た目が気に入らぬ。陸でりいるると鳴いている方が、風流というものだ。
次に動く物がやって来たのは、日が高く昇ってからだった。さっそく口を開けてその小魚に跳びつき、捕食する。
摂取した食べ物の量と体格の大きさは比例すると言うが本当だろうか。
例えそうでも、私は必要以上に殺生をしたくない。本日の食事は終りだ。
一あもな(六日)に一食。其れが健康の秘訣である。
食後の散歩は大切な日課だ。あちこちを散策し、変化や新しい狩場を探す。もし程よい岩陰を見つけたら、引っ越してみるのも悪くないだろう。
いつも通り苔道を抜け、田螺小路に顔を出す。白広場を通り、黒大岩に上がった。
其処は私のお気に入りの場所であった。
川底に鎮座する此の岩は、水面の上にほんの少しだけ顔を出している。其の部分が程よく傾斜しており、寝そべると腰から後ろが水に浸かるのだ。全く、私は此れ以上の寝台を見た事が無い。
背に当たる斑の温もりに思考を任せ、のんびりとせせらぎを聞く。こうして自由に過ごす時間が、私の精神生活を豊かにしているのだろう。
うつらうつらしていると、突然背中に寒気を感じた。
此れはいけない。
慌てて水に入り岩の下へ潜った途端、大きな影が川の上を渡って行った。大鷹か犬鷲だろう。
奴らは我々の天敵だ。あの鋭い爪に攫われ、帰ってきた者はいない。先月も、子供が一人連れていかれた。
二十五まぬ(約七十五センチメートル)になれば安全という説が有力だが、私はまだ二十まぬ半(約六十二センチメートル)しかない。奴らの獲物となりえる大きさだった。
急な動きは身体への負担が大きいので、少し疲れた。そのまま岩の下で源五郎や山女魚を眺めていると、やがて日が暮れた。
そろそろ家に帰るとしよう。一日が終わるのは、何故こうも早いのか。
家へ帰る途中、水草模様の婆に会った。我が家の近所に住んでいる、六十代の女性だ。
「お早うございます」
「ああ、
「ええ、まあ」
彼女はぐるりと尾を返し、私の方を見る。彼女は私の倍近くあるので、少々威圧感を覚えた。
「アンタ、いい相手は居るのかい?」
「と、言いますと?」
私がとぼけていると思ったのか、彼女は脇腹の皮を揺らして笑った。
「何言ってんだい、相手と言やあ恋人しか居ないだろう」
「はあ……」
そういう物だろうか。
「私はまだ若輩者故、恋なぞ考えた事もありませぬ」
「緑大岩の御嬢さんは、確かアンタと同い年だろう」
さすが町会一の情報通、御存知であったか。
「正直を申しますと、恋愛という物に興味がないのです」
「へえ、珍しい男も居るもんだね。アンタ顔も名前も良いのに、勿体ないよ」
「そうですか……」
私は苦笑し、適当に言い訳をして其の場を去った。
家へ帰って寝床に入り、上弦の月を見上げる。婆の言葉を思い出し、もう一度独りで苦笑いした。
きっと彼女の言った事は正しいのだろう。生物として、子孫を残す事に興味が無いのは珍しい。
実際私の同輩たちは、やれ誰と誰がくっ付いただの離れただのと噂する。中にはお嬢さんのように、もう所帯を持つ者もいた。
ぷくりと小さな泡を吐く。
私は生まれつき昼行性であった。幼稚の頃は無理をして夜行性になろうとしたが、全ては無駄に終わった。
知人が少なく自分の中に籠りがちな私の精神は、他人に気を配るようには出来ておらぬ。自分の事だけで精一杯なのだ。
見知らぬ者と親しくなり、交わり、子を育てるなど、私にとっては絵空事に他ならなかった。
繁殖する事を当たり前と考え、其れを実行しようとするのが普通なら、私は大山椒魚失格どころか、生物失格だろう。
其の夜は雨が降った。家の中に居てもザアアという音が聞こえる程であった。奥の寝床でさえ水の流れが速くなり、落ち着かない気分のまま眠るしかなかった。
しかし、翌朝はすっかり晴れ渡り、流されて来た小枝や水草が彼方此方に転がるのみであった。
私は食事を後へ回し、散歩に出掛ける。大雨の遺物が下流へ流されない内に、平生とは違う景色を見ておこうと思ったのだ。
歩くのは困難そうだったので、泳ぐ事にする。手足の平に触れる水底の砂利や冷たい石肌が好きなのだが、今日は少し危ないだろう。
手足が短く陸では鈍間な我々であるが、実際泳ぎはその辺の魚より速い。身体の半分を占める尾は水を掻くのに適している。
さて、私が一寸した好奇心を満たしながら遊泳していると、何処からかみゃあみゃあと幼い泣声が聞こえてきた。
不思議に思って見回すと、岩陰に小枝程の尾が見えた。如何やら泣いているのは其れらしい。
岩陰を覗き込み、泣声の主に声をかける。
「童子、何を泣いている」
顔を上げた子供を見て驚いた。其れはまだ鰓のある稚児だったのだ。親元を離れ一人で居るなど、どう考えてもおかしい。
「如何したのだ」
私が聞くと、其の子は泣きながら答える。
「雨、ざーってしたの。流しゃえちゃったの」
「そうか」
昨晩の大雨で流され、迷子になったのだろう。
「おとーしゃんろこぉ?」
此のまま放っておけば、多分タガメや猛禽類の餌になってしまう。
仕方がない、親元まで送り届ける事にする。
「童子、名は何と言う?」
「お名前? おーらんなのしゅえむしゅめ」
うむ、分かりにくい。何と言ったか考える。
「もう一度言ってくれ」
「おーらんなのしゅえむしゅめ」
「……大旦那の末娘!」
そうか、渓流の大旦那様の御息女であったか。此れは、大変な子供を見つけてしまった。無事に送り届けなければ、彼女の父親に喰われてしまうやもしれぬ。
「御息女、私の背に乗りなさい。家まで送ろう」
「ほんとー? やったぁ」
この季節なら、問答無用で追い払われる事もないだろう。
私は御息女を背中に乗せ、上流へ泳ぐ。
「おいちゃん、お名前なんて言うのー?」
「おじちゃんではなく、お兄さんと呼びなさい。黒斑だ」
「くよまらら? 変なのー」
そんな会話をしつつ、砂利の上を泳いで行くと、大きな岩が連なる渓流に着いた。
「もうすぐ家だ」
「ほんと? おとーしゃんに会えゆ?」
「勿論」
気を引き締め、ひときわ大きな岩の前に立つ。ここで怖気づいてはいけないと、大きく息を吸った。
「渓流の大旦那様、黒斑でございます」
岩穴の中で影が動いた。水が揺れ、目の前が真っ暗になる。大旦那様が私の目の前に出てこられた。
「久しぶりだな」
「はい。ご無沙汰しております」
渓流の大旦那様は、この辺りで最年長の大山椒魚だ。体長は三十まぬ(約一メートル)以上あり、私では顔も見られない。
「あ、おとーしゃん!」
御息女がぴょんと私の背から飛び降り、大旦那様の元へ駆け寄る。
「おお、何処へ行っていたのだ。父は寂しさに身が千切れそうで、全く眠れなかったのだぞ」
平生は夜中まで起きぬという彼が今こうしているという事は、其の通りなのだろう。
大旦那様は愛娘の頬を撫でる。昔から子煩悩なのだ。
親子の再会を邪魔するのも野暮という物だ。用事を終えた所で、散歩へ戻る事にする。
「では、私は此れで」
「うむ。感謝する」
「おいちゃん、ありらとー」
丁寧に頭を下げ、渓流を後にする。見慣れた大通りに来た途端、背中に寒気が走った。
本能的な恐怖には従うに限る。早く此処から逃げなければ。
慌てて尾を振り脇道に入ろうとしたが、遅かった。
突然水が大きく揺れ、地響きのような音が轟く。身動きを取れずに居る内に、其れは襲ってきた。
全身に衝撃が来て、息が詰まる。必死にもがくが、身体の自由は全く効かない。そして岩へ叩きつけられ、何も分からなくなった。
私は悲しんだ。鉄砲水に流され気を失ったのであるが、目が覚めたら見知らぬ場所に居たのである。
今もはや、棲んでいた所の岩や目印は、ほんの欠片も見当たらなかった。そして、流れが棲家の物より余程緩かった。
足元を見ると、見た事も無い平らな地面が続いており、不自然な程一律な灰色で、それは好奇心を擽られる光景だったが、私を狼狽させ且つ悲しませるには十分であったのだ。
こんな時の決まり文句を口にしてみる。
「なんたる失策である事か!」
例の如く出来るだけ広く泳ぎ回ってみたが、別段何の解決もない。只、数匹の小魚が視界の向こうを横切って行っただけである。
辺りを見回すと、遠くに川の端があった。此処が何処か知りたかったので、岸へ上がる事にする。
登り難い岩だった。傾斜も曲線も全く無く、手を付いて身体を持ち上げるしか無かったのだ。
やっとの事で岸へ上がり、私は驚愕した。
其処には岩や木々が無く、背の低い緑色の草が何処までも広がっていたのだ。生物の声らしき音は全く聞こえず、遠くで気味の悪い低音が鳴っている。
何か別の世界へ来てしまったのだろうか。
其の考えは突拍子も無い物だったが、私の胸を高鳴らせる事しかなかった。
偶然にも小雨が降っていたので、窒息の心配は無いだろうと思い、緑野原を歩き始める。
細い草はチクチクと私の腹を刺したが、少々違和感を覚える程度であった。
背の高い木が全く無いので空が広い。実際、視界全てに雨雲が映るのは初めての事であった。
妙な解放感に四肢を伸ばし、目一杯尾を振る。一寸叫んでみたくなったので、大きく口を開けた。
「まああああああぁぁぁぁぁぁ!」
ふむ。偶には大声を出してみるのも悪くない。
先刻から遠くで鳴っている低音が耳障りだったので、その正体を確かめたくなった。
如何やらその音は横長い丘の向こうから聞こえてくる。急な丘だが、まあ、登れなくはないだろう。
一むい(約三十分)程掛かって頂上に着いた。
其処から丘の先を見、私はまた驚愕した。
何だ、あの生物は!
見た事もない巨大な生物が、丘の麓を目にも止まらぬ速さで走っていた。群なのか行き交う一列ずつを少しも崩さず、一心不乱に右へ左へと駆けて行く。
目を瞬いて呼吸を整え、落ち着いてから観察を再開する。不快な低音は、間違いなくこの生物の鳴声だった。
其の生物は色も形も様々であった。白や黒、緑の固体や赤の固体まである。形も角ばった物から丸い物まで、統一性がない。共通点と言えば、全てが円形の黒い足をしている事だけである。
さて、交流を図るべきか否か。あの不可思議な生物と言葉を交わしてみたいとは思うが、大移動の最中に声を掛けるのは失礼かもしれぬ。しかし相手も生物、何か反応は返って来るだろう。
どうした物かと考えていると、直ぐ傍から甲高い音がした。
私は音のした方を向き、また別の生物を発見する。
流石にもう驚かぬ。此の世界は見た事も無い生物で溢れているらしいと判断した。
其れはまた妙な生物だった。身体は時たま見かける猿のように縦へ伸びており、後ろ足で立っている。奇妙な事に顔と前足には毛が生えておらず。頭部に長毛を纏っていた。二匹の内一匹は緑色の体毛を持ち、もう一匹は白い体毛をしている。
そいつ等は私に四角い板を見せたが、別段渡してくる様子も無い。其の黒い板をつつきながら、鳴声を交わしていた。
「すごぉい、野生の大山椒魚って初めて見たー」
「こういう時どうするんだっけ? 一一〇番?」
意味は全く分からないが、流れるような数多の音は悪くない。蛙よりも音調豊かに、リズムの下で揺れる。
「何と言っているのだ」
渓流の大旦那様より大きな其の生物に話しかけても返事は無い。言葉が通じておらぬようだ。
私を喰う算段をしている様子でも無く、敵意も感じぬから、取り敢えずは安心して良いだろう。
しかしよく鳴く生物だ。繰り返しが少なくも定まった音調の声は聞いて居て飽きぬが、其の意思の疎通に加われぬのは残念で仕方が無い。
興味深く其れを聴いていると、何処からやって来たのか私の周りに其の生物が増えて行った。
最初は二匹だったのだが、三匹、四匹と増え、今は六匹程居る。
紫色の体毛をした或る一匹が突然前足を伸ばして来たので、口を開け威嚇を返す。すると、其れは驚いたように足をひっこめた。他の固体も数歩下がる。
でかい図体の割には、臆病な性質のようだ。
私の姿を見て其々鳴声を交わしているが、もうどの固体も私に手を出そうとはしなかった。
お陰で私はゆっくり彼等を観察していたのだが、数むい後に青い体毛の固体が一匹やって来ると状況が変わった。
「あそこです」
「さっき見つけて」
最初から居た者が、青い固体に何か言う。他の固体達の様子を見ると、青色の奴は此の辺りの棟梁かもしれぬ。
殺意は感じられなかったが、警戒して四肢を張った。
「此方で保護しますね」
そんな事を言いながら、青色の固体は私の前に妙な物体を置いた。水色の太い筒で、奥が行き止まりになっている道具だ。
「入ってくれないかなあ」
溜息交じりの鳴声が何を言っているかは分からないが、何だか此れは怪しくなってきたぞと思った。
青色が筒を私の鼻先に持ってくる。其れはひんやりと冷たく、得体の知れない不気味さが有ったので、私は数歩下がる。
そして改めて、二本足で奇妙な生物に囲まれている事を認識した。
何と恐ろしい事だろう! 彼らは私の八方を塞ぎ、此の大筒の中へ追いやろうとしているのである。捕える気なのだ!
敵意の無いのに安心した私が浅はかであった。此の奇妙な生物は、今までもこうして獲物を油断させ、捕食してきたに違いない。
今はっきりと解った。此処は、私の居るべき場所では無い。
帰らねば。仲間が居るあの清流へ、無心になれるあの棲家へ、如何しても帰らねばならぬ。
私は身体の向きを変え、来た道を戻り始めた。私が動くと、二本足の生物達は道を開け、追っては来なかった。
丘を下るのは簡単だ。重さで手足が前へ出るのに任せれば良い。そうしたら、岸はもう直ぐ其処だ。
するりと水へ入り、一先ず胸を撫で下ろす。流されて来たのだから、此処を遡れば帰れる筈だ。
其の場で少々休憩し、水が流れて来る方へ泳ぎ始める。
さあ、故郷へ帰ろう。
余程の距離を流されたらしく、二十日以上泳ぎ続け得ても見慣れた所には出なかった。
周りの風景は初日と変わらず、平らな灰色の地面が続くだけである。
小魚の姿は増えてきたので食事には困らなかったが、問題は寝床だった。岩が無ければ岩陰も無く、横穴さえ見当たらぬ。野宿は如何にも落ち着かず、浅い眠りの日々を過ごしていた。
朝起きて食事をし、疲れるまで泳ぎ、そして寝る。変わらぬ景色は私の好奇心を喜ばせる事も無く、只々疲労が重なっていく。私はそろそろ此の帰途に屈託していた。
そんな心境だったので、遠目に焦げ茶色の尾を見た時には歓喜した。
仲間である。
私が声を掛けると、先方は直ぐに気付いた。彼も私の姿を見て驚いた様だった。
「こんな処に大山椒魚とは珍しい。何かあったのかね」
「実は先日の洪水で流されてしまったらしいのです。今、家へ帰る途中で」
そう言ってから、誰かと言葉を交わすのが実に久方振りだと気付く。内に込み上げてくる来る喜悦は、疲弊した心身に心地良かった。
「そうか。俺も昔、洪水で流されて来たのさ」
「何と、左様でしたか」
彼はまだ幼い頃に流され、此処に棲み付いたらしい。
「小魚も居るし、寝床も何とか見つけられた。棲めば都さね」
「成程」
そう言われても此処へ腰を落ち着けようとは思わぬし、彼も其れを勧めたりしなかった。
只、此の辺りで餌にすべき魚と、
「もう少し遡れば舗装は終わるよ。景色も変わる」
と、そう教えてくれた。
礼と別辞を述べ、その場を後にする。
彼の言っていた通り、暫く行くと平らな地面が終わり、砂利の道になった。
手足に触る懐かしい感覚が、どれだけ私を激励したか。まだ見慣れた景色は見えないが、少しずつ故郷に近付いているのだろう。
此処に来て漸く、私は生来の好奇心を取り戻した。
砂利道になったとは言っても、渓流とはまだ様子が違う。相変わらず上流では見ない魚ばかり泳いでいるし、所々に狭い横道がある。
頭上から聞こえる蛙や鳥の声も、故郷では聞かない物ばかりだ。
一度長い鳥の脚と奇妙な程細い嘴が小魚を捉えるのを見たが、上を見ると白く長い首もあった。あれは一体何だったのだろう。
何度かまた洪水に遭いながら、川を上流へ遡って行く。
やがて分かれ道に来た時、私は困惑と共に立ち竦んだ。果して何方の道が我が懐かしき棲家へ続いているのか、分別出来なかったのである。
両眼を閉じ、細かく鼻を動かして水の匂いを嗅ぐ。そうすると、本当に微かだが懐かしい香りがした。清流に棲む小魚や動物、岩に生えた苔、水草の匂いが私を導く。
何度か分岐にあったが、此の匂いに気付いてからは迷わなかった。
道を選び、懐かしい匂いが強くなるにつれ、帰りたいという思いも強くなる。薄暗い我が家、群で泳ぐメダカ、夜行性の仲間達。お気に入りの大岩やいつもの餌場、砂利の隙間で揺れる細い草……。全てが本当に懐かしく、恋しかった。
どれ程旅を続けただろう。水面の向こうに緑の木々が揺れ始め、河鹿蛙の声も聞こえる様になった。岸辺には大岩が聳え、小魚の群が鱗を煌めかせて泳ぐ。脅威でしかなかった猛禽類の鳴声さえ、安堵を感じる。
そして遂に、私は帰り着いた。
夢にまで見た其の景色が私の前に広がった時、私は狂喜した。水面を通して朱鷺色に染まる陽の中を、思い切り縦横に泳ぎ回る。
帰って来たのだ! 故郷は何一つ変わらず、私を迎え入れてくれる。長旅に耐えた甲斐があったという物だ。
「黒斑かい?」
私を呼ぶ声がしたので振り返る。
「水草模様の婆!」
彼女は驚いた様子で私に駆け寄って来た。相変わらず私よりずっと大きい。
「黒斑! アンタ、二年間も何処に行っていたんだい? 心配したよ」
「下流まで流されていたのです。御元気でしたか」
「まあね。そうかい、帰って来たのかい」
婆は得心したように頷き、懐かしい世話好きな顔を見せる。
「疲れただろう。旅の話は今度でいいから、家へ帰ってゆっくり休みな。皆には私から言っておくよ」
「有難う御座います」
成程、土産話は必須であったか。下流で見た妙な生物達の事で良いだろうか。此処では見ない魚や鳥の話も面白いかもしれぬ。そうだ、道中で出会った彼の事も話してみよう。
何を話すかは後でじっくり考えようと思いつつ、我家へ帰る喜びに胸を高鳴らせ家路を急ぐ。
黒と灰が混在する岩場に、少々歪んだ長方形の横穴を見た時、其の高鳴りは最高潮に達した。息が詰まるほどの喜びと共に、我家へ駆ける。
そして、私は再び悲しんだ。
いや、此れはもう絶望と言った方が正しいだろう。
私は私の棲家である岩屋へ帰ろうとしたのであるが、頭が入口につかえて中に入ることが出来なかったのである。
今はもはや、私にとっては永遠の思い出である岩屋は、出入り口の処がそんなに狭かった。そして、心地よさそうにほの暗かった。
強いて入ろうと試みると、私の頭は出入り口を塞ぐコロップの栓となるにすぎなくて、それは丸二年の間に私の身体が発育した証拠にこそはなったが、私を狼狽させ、且つ悲しませるには十二分すぎたのだ。
私に残された術は、彼の常套句を口にする事だけであった。
「なんたる失策であることか!」
石清水記 橘 泉弥 @bluespring
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます