10「Demonstrative Epilogue」
彼は目を醒ました。
久しぶりに見た夢は心地良いものだったかもしれない。しかしそれは現実に作用する現象ではなく、過去の記憶の断片だということを知っている。
真っ白い天井をボンヤリと眺める。
意味はない。目が開いているから情報が入ってくるだけだ。いつでも自分の思考とは関係なく、器官は活動して情報を取得する。意思ではなく、望んでもいないのに、体は動いているのだ。
人間なんて勝手に動いているだけだ。意思で制御できない存在がある。
誰だってそれに知らん顔をして、都合の良いときだけ自分のおかげにしているのだ。
彼は思考の内側でそんな言葉を考えて、多分そんなことを考えることが人間だけなんだろうと、三秒で決めつけた。
体を動かそうかどうか思案して、彼は左手が柔らかなものに重ねられているのを感じた。
彼は、握っている手、彼女の右手を離そうか悩んで、二秒で諦めた。
単純に気持ち良いからだった。
彼は彼女を見て、焦げ茶色の瞳が開いているの確認する。
美意識が遺伝子で定義されているのなら、と彼は思考に前置きをして、彼女の瞳が綺麗だと思った。理由は分析できないが、分析できないのが美なのだろう。
彼女も彼の手に触れていることがわかっているのだろうが、アクションを起こさず、普段通りリアクションもなかった。
「おはよう」
彼はいつもと同じように挨拶をした。
「ああ」
彼女もいつもと同じように返した。
「夢を、見たんだ。少し前、若菜と出会った時の夢だ」
夢と空想の区別を彼は知らない。
選択制御できないのが夢かもしれない。
彼は空想をいつでも切断することができる。
「私もだ」
彼女は彼を見ない。
握られている手は、どちらともいえず、指を絡ませていた。
「奇遇だね」
「ああ」
夢が現実に影響することはなくても、現実であったことが夢に干渉することはある。現実でゼロなものは、夢にも出てこない。
彼は彼女と同じ日の夢を見ていたことよりも、彼女が夢について何かを言ったことが初めてだったので、それに驚いていた。前に聞いた時、彼女は夢を憶えていたことがないと言っていた。
「若菜、後悔していない?」
「ああ」
彼の質問に、彼女は即答した。
質問の意味は実にファジーだ。そもそも感情に対して、明確に返答ができる方がおかしいのだ。人間はイエスかノーで感情を決めるわけもなく、自分でも際限が掴めない、どこか距離のない直線に似ている。
「どうして?」
「理由がない」
「そう」
彼は素っ気なく言った。
彼女には指標というものが存在しないのだろう。理由がない限り、常にプラスでもマイナスでもない、ゼロなのだ。
「若菜、後悔している?」
「ああ」
正反対の質問に、彼女は肯定する。
「どうして?」
「後悔という言葉の意味を知った」
「そう」
新しいものを憶えることが良いことだと教えられたのは何故だろう。
世の中には知らなくても十分なことが沢山あるのに。
もしかしたら、世の中には『本当に教えてはいけないこと』があって、その裏側を隠すために必死になって適当なものを詰め込めさせられているのかもしれない。脳の容量を使い切って真実に目を向けないようにするために。
彼はずっとそう考えている。
彼女もきっと同じようなことを考えているのだろう。
彼女は彼の好み通りに成長している。
「若菜、今まで一度も言った事はなかったけれど」
彼は、続きを言うべきか考えた。
彼にしては長い時間、五秒ほど時間をかけて、彼女が急かすつもりもないことを理解して、やっぱり言おうと口を開いた。
まだ手は握られている。
「愛してるよ」
彼は天井を見ていた。だから彼女の表情は見て取れない。きっと、何も変わっていないのだろう。
自分の一世一代の台詞に、彼女の顔は変化しないのだ。
「冗談か」
彼女は抑揚もなく彼に聞いた。
「さあ、明確な解答は出来ない。初めて言った言葉だから」
本当に、生まれて初めて、彼はこの言葉の使い方を知った。
正しい使い方、なんてものがあればなのだが。
「そうか。私も初めて聞いた言葉だ」
「嘘だね」
学校でも人気のあった彼女だ、同性異性に関わらず告白された回数も数え切れないだろう。熱烈な言葉の中にはこんなありふれた言葉も含まれていたはずだ。
彼女は彼に助けられてようやく人形ではなくなった。
だから、彼女は今でも、ずっと考えて、学習をしているはずだ。
感情を、表情を。
それが未だに実を結んでいないことは彼女自身、きっとわかっていることなのだろう。そんな当たり前のことが、彼女は当たり前にできない。
周りはクールだなんだと勝手に想像しているが、彼女の中はまだ空白で、鏡のように相手の意図を反射し続けることでしか会話ができていないのだ。
それでも彼の地道な計測の結果だが最近は驚くほど多弁になったし、彼女の細かい仕草の違いでこれは彼の勝手な思い込みによるものが大きいが、感情が変化していると思えるようにもなった。
ここまで来るのに、四年も費やしてしまった。
人間らしい、という響きに何の定義もないのだろう。
感情を外に表すくらいなら動物にでもできる。
人間ができるのは、相手の感情を『推測』するということだ。
だから、きっと成長しているのは彼女ではなく彼女の感情を読み取っている彼なのだろう。
「それにどんな意味があるのか、どんな価値があるのか、残念だけど知らない。誰も、きっと知らない」
彼は強く彼女の手を握った。
拍動が重なって次第に一つになる。
熱は手の平の隙間を暖めて、汗が滲んだ。
二人の汗が混じり、玉となって滴る。
それはどんな行為よりも、淫らな行為かもしれない。
「若菜と一緒にいたい。時間? 距離? 違う、心? 冗談が過ぎる。だけど、他に変わりようもない。若菜がいるから、安定を保てる」
「保ちたいのか」
「わからない」
彼は彼女の質問に率直に答えた。
少なくとも誰も彼の真実など必要とはしていないのを知っている。
誰にも必要とされないのが彼そのものなのだ。
「最近、タケヒトでいることが多いな」
「人間っていうのは、慣れるものだからね。コーティングされていくうちに、剥がすのが面倒に思えてくるんだ」
それは、彼自身も思っていたことだった。
彼の言う言葉は、裏を返せば本物でいることよりも偽者でいた方が楽だということだ。楽だから偽者が形成されたという状況もある。昔は何かあるたびに感情をコントロールできなくなっていたが今は違う。苦痛なことも、外側が受け止められるようになった。それが成長だというのならそうかもしれない。嫌なことを笑顔で耐え切るのが大人の印というのなら、もう一息なのだろう。だが、そう考えていくと本物の彼なんてどこにもいないことになるのだ。
「そうか」
「そうさ」
自分は、一体誰なのだろう。
表面を作り上げることで、存在が曖昧になっていく。
これでは、彼女と真逆ではないだろうか。
段々と人間に近づいていく彼女。
段々と人形に近づいていく自分。
二人は、きっと、足してようやく一人の人間になれる。
いずれ、彼女が一人きりの人間になるまで。
いつか、彼が一体のみの人形になるまで。
冗談のような思考に彼は心の中で笑う。
「何故、あの時私を助けた」
「それも、わからない」
どうして、あの時彼は彼女をわざわざ助けたのだろうか。
正直に言えば、単に『後々利用できる』と打算したことも事実であるし、『弱いのはつまらなそうだ』と彼女を吟味したのも事実である。
本当にそうだろうか。最近の彼は溶け切れない心の糖衣の中で、疑問を曖昧なままにしておく、ということを覚えた。決断をしなかったのは、生まれて初めてだった。
彼は、指を絡ませたまま、彼女に覆い被さった。右手を彼女の左手に、足を広げて膝をつき、彼女を見下ろす。彼らに質量を加えていた白い毛布が、動きに逆らってずれた。組み敷かれたような体勢に彼女の焦げ茶色の瞳が彼の青白色の瞳を捉える。
何かを言いたそうに、これも彼の主観だが、彼女は黙っていた。
「時々、我慢できなくて、若菜を殺したくなる」
悪戯な笑みで彼は言った。
「構わない」
「そう言うと思った」
彼が体を下ろし彼女の耳元に口を寄せる。
「だから、もしそうなったら、僕を殺してくれ」
半拍の猶予を置いて、彼女は暖かい息を彼の耳に当てる。
「断る」
「ん、それは意外」
彼女の言葉に、顔を上げた彼は、口元を奇妙に曲げて返した。
「何故だ」
「了承するかと思って」
彼の問いかけに、彼女は戸惑ったように、当然彼の想像でしかないが、普段よりノイズの混じった声で、
「私も、タケトが好きだ」
と言った。
予想していなかったというか、そんなことを彼女が言うとは微塵も想像していなかった彼は、熱湯を注ぎこまれたみたいに体が熱くなるのを感じた。
「それは、照れる」
彼は苦笑いをして彼女を見つめた。彼女は何事もなかったかのように、両の目で彼を見ている。
「今のは、誰の言葉だ」
「さあね」
彼は風のように囁き、彼女の隠れている耳たぶを優しく噛んだ。体を沈み込ませ、彼女に体重をかける。
無邪気に、ごく普通の恋人が、当たり前に戯れるように、体を重ねる。
「誰だって、構わないさ」
不確定な夢は、不確定のまま、二人の接点を維持しながら、今はもう記憶の破片並みの意味しか持たないのだろう。
それでも、彼と彼女は、見えない鎖に繋がれた共犯者なのだ。
―This Can't Be Love
欠陥だらけの多面体と永久なる人形姫 吉野茉莉 @stalemate
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