9「Diminutive deprivation」

 少年は、眠たかった。

 あまりの眠気にコンタクトを入れることすら億劫だったため、彼は今朝から何もつけていなかった。昨日と違う目の色だと不思議に思われると伏目がちにしていた。幸い彼はまだ背が低く、突然の死亡事故におどおどしている子供を完璧に演じきっていたため、誰にも気取られることはなかった。

 恐らく、あの倉木と猫と今運転をしている男を除いて。

 林道を車が下っていく。銀のメタリックに彩られた日本車は振動も上手く吸収して非常に乗り心地が良い。質実剛健を好む持ち主の性格がよく現れている。

「災難だな」

「ええ」

 運転手は後ろに座って外を眺めていた少年に声を掛けた。少年は彼を見ることなく生返事をした。

 崖付近で起こった事故は、ハンドルミスによる可能性が高いと言われた。彼が考えたシナリオは、中学生に伝えるには刺激が強すぎると思ったのだろう。『運の悪いこと』にガソリンに引火してしまい、発見されるのが遅かったため、燃えるものは大方燃えてしまい内部の状況を把握するのはほぼ絶望だ、との警察のコメントが北条家に残っていた全員に通告された。

 唯一の目撃者である、現場に茫然自失と立ち尽くしていた中学生の少女の証言を警察は信用するつもりなのだろう。幼いと思われている彼女が虚偽の報告をするという可能性は警察が否定しているようだ。たまたま付近を通りがかった車が煙に気がついて警察に通報し、少女は病院で手当てを受けている。軽い切り傷と火傷で入院の必要はない、とのことだ。父親が死んだことによる多少のショックが見られるが、調査には『協力的』だという。

 誰しもが、事故だという結論を導き出そうとしていた。

 何より主を失ったことに対して変死などと公表したくない北条グループ全体の意思が働いたおかげだ。彼らにとって重要なのはどうやって死んだかではなく、これからどうするか、誰がこの巨大な利権を手中に収めるか、だろう。

 それは彼にとってもありがたい話である。詳しい調査もそこそこに引き上げられるはずだ。一応は午前中一杯客人は拘束されたが特に突っ込んだ事情聴取もされることなく、武人に到っては中学生ということでほとんど何も聞かれなかった。

「あの男は、相当金の工面に忙しくしていたようだったからな。危ないことに手を出しているという噂も聞いていた」

 警察から聞いた少女の証言を、藤元は再確認していた。

 どうやら周知の事実であったらしい。

「金に汚い人間は、大体綺麗な死に方はしないもんだ」

 少女に父親が行っていた行為については、藤元は何も言わなかった。全く知らないのかもしれないし、知っていて言わないのかもしれない。もし知っていても、彼に聞かせるべき話ではないからか、もしくは話しても意味がないと思っているのか、どちらかは彼にはわからない。

 罰すべき人間は一体誰だったのだろう。

 多分、生きているだけで人間は罪なのだ。

 自分はその中でも上位に属しているというだけの話だろう。

 彼はいつもと同じくぼんやりと思考をしていた。

「そうですか」

 あくまで無関心に、武人は言った。

 実際どうでも良かった。

 久しぶりの『作業』はさほど面白くなかったなと思っていたくらいだ。

 実力が拮抗していれば尚更良い。

 リスクを背負わない行為などつまらないだけだ。

「そんな建前は置いておいて、だ」

 曲がりくねった道にスピードを落として、藤元はサイドミラーを調節した。ミラーの反射で少年の瞳に光が集まる。彼は少し目をすぼめた。

「お前、またやらかしたのか」

 藤元は、声を低くして言った。

 この男は彼の正体を知っていて、それでも彼の面倒を見ている。何代も前から藤元は賀茂の人間の世話をしていて、その延長なのだと彼は少年に説明していた。どんな因果があるのか彼には興味がないのでそれ以上は聞かなかった。

 手を顎に当てて少年は外を見ている。無個性な木がとめどなく流れていた。彼はあの木々が互いに光を得るために牽制しあい、適切な距離を保っているのを知っている。長い年月を掛けて、そうして森は一つの意思を持ち続けていくのだ。

 人間も同じだろうか。

 お互いに適切な距離を保って、笑顔で妥協点を見つけ出そうとする。

「僕がやったっていう証拠はない。誰も不幸になっていない。追求されるべきは、真実ではない」

 上の空で彼は答えた。

 あの少女、名前はなんていったのだろうか。人の名前を覚えるのが極端に苦手な彼は、とりとめもなくそのことを考えていた。唯一のリスクだった彼女は、案の定彼については何も言わなかったようだ。彼は、自分の名前を彼女に言っていなかったことを思い出した。人と出会ったらまず自分の名前を名乗りなさい、という祖母の言いつけを守らなかったことを彼は後悔していた。

「シャツの血は拭いておくんだな」

「あれは自分の血です」

 やる気のない声を出して、彼は欠伸をした。

「警察が調べればすぐにわかる」

「突き出しますか、僕を?」

「馬鹿な」

「どうしてです?」

 吐き捨てた藤元に、彼は少し意地悪な笑みで聞いた。

「証拠がない。お前はあの晩、『外に出ていない』のだからな」

「その通りです。僕は何もしていない」

 外出するのを見られたのは猫威という得体の知れない猫だけだ。それ以外に彼は誰にも見られていない。気配を殺すのは彼にとって造作もない、二本足でバランスを取って歩くことくらい、出かけに何も考えず鍵をかけることくらい、物心ついたときから可能なことなのだ。足跡もつけず、監視カメラでさえ易々と掻い潜る。それは彼の特質であり最大のアドバンテージだった。

 ハンドルを切って車は左へ大きくカーブする。

 遠心力がかかり彼の体はそれにのってドアに押し当てられる。

「ふん、獣を飼うのは大変だ」

 直線の道路が見えてから藤元は胸ポケットから赤い箱の煙草を取り出した。少年は吸わないので銘柄を知らない。

「さしずめ藤元さんは猛獣使いですね」

 声にならない笑いを込めて彼は楽しげに返した。

「その冗談の言い方は、お前の爺さんと同じだ」

 煙草をくわえながらウィンドウをスイッチで軽く開ける。新鮮な空気が車の中に満ちる。車のスピードに乗って寒いくらいの風だったが、少年にとってはこれくらいが丁度良かった。

「僕は会ったことがありません」

 彼の祖母と同様に、賀茂家の人間だったらしく、義理の兄妹だったのだという。それがどうして一緒になったのか、彼には当然興味がないし、どうでも良いことだった。

 藤元は溜息をつきながらサイドミラー越しに彼を見た。

「呑気なジジイだったさ。お前みたいにな」

「きっと、猫みたいに気紛れで、日向ぼっこが好きだったんでしょう」

「ああ、だろうな。だが強かった。相手の動きが事前に見えるんだそうだ、一度も勝てなかったよ。何せ触れないんだからな」

 煙草を指に挟み大きく息を吐く。煙が風に吹かれて色を薄めた。

「ともかく」

「ともかく?」

「帰ったら、娘の相手をしてくれ」

 さも当然自明のことであるかのように、男は彼に言った。

「さてさて」

「年寄り臭いぞ」

「飼い犬は飼い主に似るものです」

「眠いな」

 男は彼の遠まわしの嫌味を思い切り無視した。

「今は寝ないでください」


 少女は起きていた。

 いや、眠れなかったというのが正解だろう。

 病院の個室のベッドに一人でいた。窓からは青々とした緑の木々が見えていた。

 個室だとしても、人一人が生活するのですら広すぎる空間だった。テレビに冷蔵庫といった一通りの電化製品から、トイレまで完備されている。明らかにもう一つベッドが置けるスペースには、誰も座らないソファーが備え付けられている。病室にしては相当豪華な作りではあったが、彼女はそれが日常なのでおかしいとも思わない。

 警察の人間には曖昧な証言をしておいた。二人が言い争ってハンドルを回し損ねた。自分はただそれに居合わせただけ。幸いなことに、彼らは自分の証言をほぼ全面的に信用するつもりらしい。事故のショックで記憶が多少混乱している振りもした。何を言ったかそれは全て覚えている。覚えるだけならいくらでもできる。

 自分がその車の中にいたことについては多少の疑問を抱いていたようだが、家に居る人間も軽々しく内容を言うことはないはずだ。相手の地位を落とすのならともかく、死んでしまった人間に対して事実を口に出して得をする者はいないし、事実を知る人間は数人しかいない。どこまで警察がたどり着けるかはわからない。もちろん全てを解き明かしてしまう可能性もある。

 しかし、どこかしら彼女は安心をしていた。

 警察の能力を過小評価しているわけではなく、そんなことくらいでは、意味もないということを感じて安心をしていた。

 それに自分はともかく彼が捕まるようなことはないだろう。

 警察は一言も彼については言っていなかった。それだけが少しの不安材料だったが、彼はそんな心配とは無関係に当たり前に成し遂げていたわけだ。

 警察が出て行ったあと、彼女は一人で外を眺めていた。

 考えているのは、あの不安定な少年のこと。

 きっと、彼はここにはやってこないだろう。

 お見舞い、だなんてそんなことをしそうには見えない。

 少年は今ごろどこにいるのだろうか。

 もう一度会えるのだろうか。

 私は会いたい、のだろうか。

 疑問符が頭を埋め尽くしそれで頭が一杯になる。

 こんな経験は初めてだった。

 自分で疑問を作ってそれに対する答えを用意しなければいけないのがこれほどまでに複雑で難解な作業だと、彼女は生まれて初めて気が付いたのだ。

 気付かせたのは、あのぼんやりとした殺人鬼である彼だ。

 何が正しくて、何が間違っているのか。

 彼のした行為も、自分が望んだだろう結果も、良くないことだということは理解しているつもりだ。

 それでも彼女は助けられた。

 それだけは事実である。真実はどうであれ。

 突然現れた人物に、まるごと全てを壊された。

 昔の自分がいつか微かに望んだかもしれない結果を導き出して。

 おまけに事後処理もせず壊された方はほったらかしである。

 人災という名の、天災。

 そうでなければ、彼は共犯者。

 世界で一番、飛び切り優しい、だからこそ手加減のない犯罪者。

 私を助けてくれた初めての人。

 彼が自分のネジを回してくれたのだ。

 これでは彼は王子様ではないか。

 殺人鬼の王子様。

 だとすると自分はお姫様だろうか。

 お姫様は王子様の手を取って退屈な世界から抜け出す。

 それが物語のお決まりのエピソード。

 廻り続けるレールを飛び出して、今までの生活にサヨナラをする。

 そんなおかしな空想を彼女は一人でしていた。

 世界は変わらないし、生活も変わらない。

 変わらないことづくしの世界で、確かに、僅かに、自分だけが変わり始めている。

 そして、彼女は、初めて自分から笑った。

 誰にも聞こえないように、枕を押し当てて、一人で笑っていた。

 涙が出るほど、このまま壊れてしまうのではないかというほどに笑っていた。楽しいから笑うのではなく、笑うことが楽しいのだということを、彼女は初めて知った。

 世界で一番綺麗な声で、世界で一番愉快な声で、世界で一番狂った声で、彼女は一人で笑い続けていた。


 二人が再会したのは、一年後、高校の入学式の翌日であった。

 入学式当日は、彼は高校を諸事情で欠席していた。

 彼は知らない。

 彼女が彼のことを調べ、他のお嬢様学校があるのにも関わらず、わざわざ無理を通してまで北海道に単独で引っ越し彼と同じ高校を選んだということを。

 そんなことは、この世界の中では瑣末なことなのだ。

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