大嫌いな夏をC4爆弾で歓迎した話

銀文鳥

室長と助手

夏が嫌いだった。ほんとうはその暑さだけが。

いままでろくな目にあっていない。だからこれからも一生嫌うだろう。

去年は3回、冷房をつけるのを忘れて研究室で夢中になり、ぶっ倒れた。

ぼくらの世界は全てシェルターで遮られているからマシだが、近頃の外気温は軽く50度を超えるらしい。行ったことはない。

陽光を肉眼で見たこともない。ぼくらは一生セラミックやエポキシ樹脂の墓の中だ。

「私がいない間に倒れるのもいい加減にしてくださいよね、室長。怒りますよ」

骨董品を通り越してもはや文化財になりかけているべっこうの眼鏡をくい、と掛け直して彼女は言った。生き物の甲羅や皮を使った道具を作ることは、とうの昔に禁じられている。と言うか、有用な動物も無用な動物もほぼ絶滅してしまった。

ぼくのお気に入りの強化繊維金属のテーブルの上には、たった今彼女が入れてきてくれた(ボタンを押しただけだが)お茶が置かれている。

少し寂しいことだが、物理媒体に頼る時代は終わってしまっていたので、机上に紙の書類などは一切無い。

「もう怒ってるじゃあないか」

そう言いながらぼくは、マグカップを手に取り冷たい茶を飲み干す。

蒸留水と遺伝子組み換え茶葉で作ったそれは、無機質な喉越しだ。

塩化ナトリウムが入っているのは優しさか嫌がらせか。

「研究の方は順調なんですか。それ次第では休暇どころかお給料も危ういですよ」

「わかってる。まあそう急かしなさんな。急いては事を仕損ずるというじゃないか」

「室長、まだお若いのに随分と古い言葉をご存知ですね」

「言っても50歳だよ。君なんて70なのにピチピチじゃないか」

「ま、ご挨拶ですわね。女性の70なんてまだまだこれからですよ、青い坊や」

ちなみに今の発言はセクハラではない。ましてや皮肉でもない。

ぼくらは雇用の関係を結ぶ時に、どの発言からがセクハラやモラハラに該当するか、

徹底的に取り決めされているからだ。

これが、現代における精神衛生を保ち不要なトラブルを防ぐ最善策となってから、企業をはじめ多くの組織で浸透している。夫婦でこの協議をしている人々も少なくない。

ちなみに、20年はそこまで大した年の差ではない。

永久アンチエイジングを体に施すことが一般化した世界では、人々はその精神の成熟まで遅滞させてしまった。

10、20代はアイデンティティの確立や勉学と格闘し、

30、40代はだいたい「働きたくない」とのたまいながらダラダラ過ごし、

50から80代は喜んで仕事に恋愛に励み、

90以降から人生の勝ち組と負け組が大きく分かれて行く。負け組は死んでいくだけだ。

今の平均寿命は女性140歳、男性136歳だ。

超少子化社会では、誰もが子供に憧れ、いつまでも若々しくあろうとした。

歴史と人類の作った知能によって成熟しきった社会システムによりかかかることで、未熟な責任感のまま生きられる世界。

「ところで室長、なんで空調を自動化なさらないんですか」

任せた方がずっと快適で経済的なのに、とぼくの研究の助手である彼女は言う。

「思考を停止させたくないから」

夏の馬鹿野郎にも、冬の大嘘つきにもぼくは負けたくない。

最善手が自明であってもだ。

「なるほど。自己責任ってやつですね、前時代的」

そう言いながら、彼女はくつくつと笑う。

肌理の細かい頬の上に、えくぼは綺麗に浮かぶが、その肌にはシミもシワも一切見えない。

「君は怖くないのか」

「何がです」

「歳をとってもシワができないことが。脳が長期間劣化しないことが。テロメアを無限にリセットできるテクノロジーが」

「何故です……若ければ美しく強かに生きられる。迷惑をかけない。生きていれば、快楽も目標も山ほどある。生産的でしょう」

ときどき耐えきれなくて安楽死サービスを利用する人もいますけどね、と助手は付け足す。

「ぼくは20代からずっと、人類のさらなる不死化を研究してきた。今だってそう、生殖機能の延長を目的に研究開発している」

あまりに未熟になってしまった人類は、20代から50代前半のうちに番うことが難しくなっていた。主に女性の生殖機能のさらなる延長が、現代における急務とされていた。

すでに、20代の女性に手を出すことは基本的に法律で禁じられている。身体だけ育っても精神はまだまだだからだ。これがもとで何件も事件が起きたり訴訟が起きたが、どうせ今では物好きか正義感に溢れる人間以外、子を持とうともしない。自分を維持するお金も高額なため、経済的な余裕もない。見た目はほとんどの人間が20代後半から大して変わらな

いから、性を楽しみたいなら、60から70代同士くらいが気楽でいい。

みんな自分の老後が心配だからだ。90あたりでそれは顕著になる。

ぼくは脳から直接筆記する脳波キーボードで物理エンジンを動かして遊びながら、さらに続けた。

「人類は今一度、老いを、自然を礼讃しなきゃいけないと思う」

「そんな馬鹿な」

助手は板状の端末を長い指で撫でながら鼻で笑う。それさえも様になる。

彼女も助手といえど「助手として必要な知識と資格を持っており、必要とあらば責任が取れる」から居るだけで、実質の業務はほとんど演算機任せだ。彼女の仕事は承認と開始の合図であるリターンキー--今やそれも物理ボタンでは無くなってしまった--を押すことだけ。そして押した責任を取ることだけだ。

彼女は花のように笑ってそこにいればいい。ぼくらの雇い主である所長の機嫌をとって相手をして、プレゼントのべっこうの眼鏡を喜んでかけていればいい。

「ぼくらはラットだ。老いも神も尊厳も忘れて、ただ生きているラットだ」

「随分と古い思想を持ち出しますね。とうの昔に終わった論説です」

「驕りだよ。むしろ自然界で悠然と命を全うするラットやハリネズミの方がよほど高尚だ」

「ラットは実験動物としてしか存在せず、ハリネズミは絶滅しましたけどね」

助手はやれやれと溜息をつく。そして続ける。

「あなたは『自然に還れ』と言うのですか……それとも停滞したインストルメンタリズムには飽いたと」

「ぼくは哲学をしにここにいるんじゃない。人間が生物としてまっとうに繁殖するためにここにいる」

「なるほど。それはどうやって行うんです」

助手は半ばイライラして答えた。

途端に彼女の手首の電子バングルから音声が流れる。

「脳波測定によりストレッサーを検出しました。これよりリラックスするためのホルモンを分泌します。処置は30秒後に完了します。まずはゆっくりと深呼吸することをお勧めします」

「不要なストレスは脳細胞を殺すからやめなきゃと思っているのに」

「悪かったよ」

その肌と同じでシワの無さそうな脳が少し減っても困らないんじゃないか、というのは止して、ぼくは物理エンジンで演算を続ける。もうすぐ終わりそうだ。


ぼくは実は、ここ数ヶ月全く仕事をしていない。

ぼくの研究はスタンドアローンのスパコンのみで行われているから、外部に職務怠慢を知られることはない。政府お墨付きの特権があるから、結果さえ出していればいいのだ。

監視役である助手も、今までの研究成果を踏まえた展望を適当に話していればごまかせた。

端から彼女はぼくの仕事ぶりに興味などない。所長に睨まれなければいいのだ。

加齢速度と環境因子の話。

変温動物は気温を下げることで成長が遅くなる。つまり寿命が延びる。人間への応用と効果の研究。

老化物質であるAGEを効率よく減らす薬。増やしにくい遺伝子操作。食事。運動。癌の治療。臓器のスペア。眼球のスペア。ナノテクノロジーによる肌環境の改善。ランゲルハンス島をはじめとする糖代謝器官の制御について。iPS細胞によるテロメアの初期化。行動の習慣化と定着の研究。

唸るほど積もってきた不老不死への羨望。渇望。


とっくのとうにわかっているそれの、しかし革新的な利用方法について、助手は興味ありげに頷くのだった。

意味がわからないほど愚かではないはずだが、しかし確実にあの上の空の表情は聞いていない。

科学はもはや魔法になって久しい。理解さえ不要な世界なのだ。

思想も何もかも、相対化する主体があるから存在する。完全に淘汰されてしまえば、存在などないようなものだ。透明人間がぼくらの想像の中でしか生きられないように。

人間が生き方を考えるための哲学は、とっくに機械の仕事になってしまい、その思考の先端は地平の彼方へ飛び去った。

今では機械のうつ病が社会問題になっているほどだ。答えがないもので悩むから、ぼくらも、周辺の機器さえも、その思いを汲んでやれてもわかることはできない。


もはや腫瘍としてしか存在できない世界。歯止めがきかず、ゆっくり増えながら死なない腫瘍。

いずれ切り取られるなら、それがぼくだって別に構わないだろう。


ぼくは物理エンジンの演算を見届けて満足した。

親指を画面に押し付けて静脈を認証し、液晶の上のリターンキーを押す。


地響き。大きな獣が唸るような音。世界が揺らぐ音。

「室長、この音は一体」

「さあ。地震じゃないのかい」

「何の速報もないってことはありえません」

不安定になってきた足場をうろたえながら助手は歩く。物理エンジンで見た生まれたての子鹿より、数世紀前の自立歩行型ロボットより覚束ない足取り。

「これでも舐めて落ち着きなよ」

ぼくが差し出した柔らかいキャラメル大のそれを、疑うことなく助手は口に入れた。

やれやれ、この世界にはもはや悪意なんて概念さえ絶滅しつつあるのか……

「歯ごたえはにちゃにちゃして悪いですが舐めると甘いですね。アセスルファムカリウムか、l-フェニルアラニン化合物ですか……違うの。まさか砂糖由来……」

「考えが甘いよ。トリメチレントリニトロアミン。RDX。C4爆弾でお馴染みさ」

助手はすぐに吐き出す。激しく動揺する。手首のバングルのアラームは鳴らない。

「まさか、まさかあなたは」

「自由意思に従ったまでだ」

そう言って、ぼくは繊維強化金属で出来た机に潜り込む。

助手も慌てて飛び込んできた。


周到に用意した前時代の遺物。

コンポジションA。コンポジションB。コンポジションC。その他各種火薬。導線。

量に限りがあったから、上手い配置に苦労した。

物理エンジンのスペックや運搬ロボットのハッキングが周到でなければおそらく、あと2年はかかる仕事だ。半年で終わったのはぼくとしては幸いだ。

だがしかしぼくは天才ではない。インプットと、動かすタイミングと、動かし方が上手かっただけだ。演算は機械の力だから。


来るべき時が早かっただけというわけだ。


こうして、世界中の天井が、天蓋が、割れた。

人々にとっては空が割れるに等しい。それ程異常な災禍だった。

ぼくには、あちこちで--この空間に通じた何処かで--天井の強化繊維が引き裂かれる音が、誰かの悲鳴に聞こえた。誰かの歓喜にも聞こえた。

瓦礫が落ち、もうもうと煙が上がる。ぼくはガスマスク越しに世界を見る。光が、熱気が差し込み、ぼくらを灼きつける。

所詮「夏」を文献でしか知りえなかった、気温でしか感じ得なかったぼくの想像力を嘲笑うように、外気は熱く、乾燥して、ひりつく。

喉が焼けそうだ。全身の毛穴から汗を吹き出し、詰まった埃を洗い流しては、また吸着させる。

助手は机の下から出てこない。死んでしまったのかな、と思う。

手首の電子バングルも黙り込んでいる。ネットワークの心臓部をやられたのだから当然だけれど、いざという時助けられないのはなんとも皮肉だとぼんやり思った。

虫の鳴き声が聞こえてくる。なんてことだ、外の世界でセミはまだ生きていたのか。

さっきから衝撃波や爆音や粉塵で酷い頭痛を増すようなやかましさ。

外を見やると、地表の遠くには、巣穴から慌てて飛び出したハリネズミが見えた。

砂埃のはるか向こうだから本当はよくわからないけれど、あれはきっとそうだ。

なんだ。恐れることなんて何も無いじゃないか。

空からは相変わらず信じられない熱量の光線が降り注ぐ。


最悪だ。暑いし、熱いし、紫外線に灼かれてひりひり痛い。最低だ。

夏のことを本当の意味で嫌いになれて、ぼくは本当に満足した。


そうしてぼくは、ぶっ倒れた。

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