第2話 日出ずる国の夜明けの頃


明治39年。

きわどい綱渡りのような日露戦争をなんとか裁定勝ちに持ち込んだものの、実質は戦勝処理ではなく停戦合意に近いポーツマス条約によって、賠償金も取れなかった日本は、従来の外貨融資に加え戦時国債と軍人恩給の支払いだけが多大に残るような厳しい状況だった。

当然、支払のため明治政府は国民に重税をかけた。

そんな時代でありながら、明治という時代は、ひどく陽気に見える。

誰もが、末は博士か大臣か、といった楽観主義の中で生まれ、育っている。

一つには、江戸期から続いた身分制度が終わり、誰もが「国民」という名前の身分に統一されたことにもよるだろう。

また、金銭を忌避した徳川幕府に代わり、銭を中心に据えた新政府が誕生したことで、それまで陰に陽に抑圧されていた貨幣経済が花開いたことも大きかったかも知れない。

それまでネガティブだった「金持ち」は、明治になると、目指すべき対象になった。


よく、アメリカンドリーム、などという言葉が一時期持て囃されたが、明治においては、ほぼこの時代の人たちは、そんな雰囲気を共有していたのではないか。




その明治の東京から西に向かう汽車がある。甲武鉄道という。


甲武鉄道は民間鉄道だが、軍事戦略的な側面が大きい。

東海道線は海沿いを走り、当時としては満足のいく輸送力と輸送速度を誇っていたが、仮に外国との戦争とでもなれば、真っ先に艦砲射撃の餌食となり、即座に物流が滞ることになるだろう。

つまり、甲斐から信濃を経て美濃、尾張へ接続するこの内陸鉄道は、明治政府にとっては大きなバックアッププランである。

実際、このすぐ数年も後には、明治政府はこの鉄道を国営化させる。

以降、甲武鉄道は中央本線と名前を変え、都心の重要な路線のひとつとなっていく。


7月15日。

この甲武鉄道に、1人の男が乗っている。

丸いメガネが印象的な男だ。

名を、小平浪平おだいらなみへい、という。

東京帝国大学で電気工学を学び、現在は、日本最高峰の電気企業、東京電燈に勤務している。

東京電燈。現在の東京電力である。


その小平に予期せぬ声がかかった。

「よお、小平君」

「……これは驚いた。随分ご無沙汰をしていたが……」

まさかこんなところで出会うとは、という言葉を飲み込んで、小平は、数年ぶりに出くわした帝大の同門、渋沢元治に、

「渋沢君、予定はあるだろうが、ちょっとこれから僕につきあってくれないか?」

と、自身も荷物を抱えて身支度を始めた。断られるとはこれっぽっちも思っていない小平の姿に苦笑しつつ、渋沢もやむなく身支度をする。

猿橋で下車する際、有無を言わさず連れ出したことにはにかみながら、小平は、

「実は、君に折り入って話したいことがあるんだ。猿橋で一緒に泊まってくれないか」

と改めて持ちかけた。

すでに釣られて下車していた渋沢は、笑顔で

「わかった」

とだけ答えた。


山深い甲斐郡内だが、名勝に旅館がある。有名旅館だ。

猿橋大黒屋という。

2人はここに宿を取った。




大黒屋に入ったときは豪雨だった。この地方は山地特有の雨の降り方をする。

ひとたび強くなると、現在でも鉄道や高速道路は止まる。

この日もそんな雨だったらしい。

小平と渋沢は、そんな雨の中、大黒屋の一室で膳に酒を並べて語り合った。


「妻が、お百度参りに行ったらしい」

「ほう、お前の健康でも祈ったのか?」

「ちがう。僕が、あまりにころころと仕事を変えるもので、我が亭主の仕事運を念じて参ったようだ」

「はっは、そんなに君は仕事を変わったのか?」


笑う渋沢は逓信省の電気技官。

大政商渋沢栄一の甥っ子としては幾分毛色の違う分野に身を投じたものだ。

対する小平は、藤田組に入社。

小坂鉱山で電気技師として務めた後、広島水力電気、東京電燈と渡り歩いている。

現在はこの猿橋の近く、大月の駒橋水力発電所の発電プラント工事に携わっている。


「む……だが、さすがに勤め先として東京電燈より上はまずあるまい。君の双六もあがりといったところだな」

渋沢は、この時代電気工学を取った人間であれば誰もが憧れる企業に席を勝ち取った旧友にそういった。

「それがだ」

小平の表情は浮かない。

「なんだ? 奥方のおみくじの目でも悪かったか?」

「神籤は大吉だった。仕事運は上々だ。ちがう。藤田組の頃世話になった久原さんから誘われている」


はて、久原。

渋沢は宮仕えで近頃めっきり昏くなった財界人脈の記憶をたぐった。


久原房之介。

藤田組の縁者で、眼前の小平の小坂鉱山での上司だった男である。

長州閥の井上馨あたりが横やりを入れて随分と伝三郎の藤田本家と揉めたらしい。

評判は、悪い。

「久原さんが赤沢鉱山を買った。僕に電気のこと全て、任せたいと言っている。小坂での手腕を大きく買ってくれているんだ」

「やめておけ」

言い終わった小平の呼吸の間を縫って、渋沢は断言した。

「そ……」

言いつのろうとする小平を右の手の平で封じて、渋沢は続ける。

「君は今何をしてる? 帝大を出た電気技師全てが憧れる発電所を作っている。それも東京電燈でだ。建造の主任技師としてだ。正直宮仕えした僕でも心惹かれるものがある。ひるがえってだ」

くい、と渋沢は猪口を口に当て酒を呷る。渋沢の血筋のせいか、その運びに品がある。

「赤沢鉱山というのは知らないが、あの鉱山再生屋の久原氏が買うのだから、見込みはあるんだろう。だが、それだけのことじゃないか」

「それだけ? とは」

「君は電気技師だ。電気企業で働くのがもっとも道理じゃないかね?」

うん。とひとつ小平はうなずいた。

そして、小平は、生涯を貫いた彼の主題テーマを語ったのである。

「僕はね渋沢君。この手で、純国産の機械を作りたいんだ」


この時代、機械と言えば100%外国製だった。

それを組み立てるのも、動かす指導をするのもお雇い外国人だった。

小平波平の言い出した「純国産の機械を作りたい」というのは、渋沢元治にはあるいは、今で例えるなら、自動車メーカーの無い国の自動車整備工がカーレースを観戦して感激し、

「俺もレーシングカーを作る」

と言い出したのに近い感慨を与えたかも知れない。


「……君の言いたいことは分かる、渋沢君。でも、日本は果たして、外国に全てを頼らねばならないほどの程度の国なんだろうか?」

む、と渋沢は言葉を飲んだ。

「機械は全部外国から出来合を買う。言われた通りただ組み立て、動かし、壊れたと言ってはただ部品を交換する。これでは我が国に工業は根付かない。僕はね渋沢君」

小平は、右手に持った猪口を口にするのも忘れ熱弁を続け、ついにその猪口を膳に置いてしまった。

「日本に工業を作りたいんだ」

それは、小平が学生の頃からずっと暖めてきた鬱懐だった。

日本人にだって、出来るはずだという想い。

だが、誰1人、やろうとしない。

ならば、自分が嚆矢こうしとなって、まずは発電所やモーターを作りたい。

それをしようと思ったとき、東京電燈では、まず無理だった。


「しかし、東京電燈の社運をかけた発電所。その主任技師様の地位を捨てるのか」

「僕が抜けても代わりはいるさ。だから、そんな場所では、だめなんだ」


これはどうやらたちが悪い。

渋沢は苦笑せざるを得ない。

(俺と話すことで、自分の考えをどんどん固めやがる)

世の中にはこういう人物が居る。

対話を深めることで相手の意見を貪欲に取り込むタイプと違い、この手合いは、たとえ論破されても自説を曲げない。

(まあ、迷いがふっきれたのだったら、良いさ)

渋沢は再びくい、と猪口を呷り、小平の語る理想の純国産工業への夢につきあうのだった。

いつの間にかあれほど激しかった雨音も止んでいた。2人ともそれに気づかず、熱弁を繰り返していたのだった。




さすがに、

「はい、辞めます」

などという無責任なことはせず、小平浪平はその後一年ほど駒橋発電所の工事を監督し、転職した。

赤沢鉱山。

久原房之介が買い取ってからの名を、日立鉱山という。




久原房之介はある種の感覚を持った人物だった。

人間社会がどのように動き、どこを押せば全体が上手く流れるかを掴む感性と、それを惜しみなく指示して走り回る行動力、そしてそれらを支える生命力バイタリティを併せ持っていた。

大卒のエンジニアと鉱場たたき上げの熟練工の反りが悪いとき、どこをどう突けば彼らが一丸となって猛進するのか、そうした事を知り抜いていた。


久原房之介は、どっかと社長室にふんぞり返っているタイプの人間ではなかったので、部下たちはこき使われてさぞ大変だっただろう。

この頃はまだ労働基準法などもなかったので、社員たちは毎日、長時間へとへとになるまで働き、泥のように寝た。

そうした職場に放り込まれた小平浪平も、当然恐ろしい量の仕事を任されることになった。




明治41年。


久原鉱業所工作課長。

これが久原鉱業で小平の与えられた肩書きだった。

久原の感性は鉱山への大量の電力投入を求めた。

小平は三つの河川に計7基もの水力発電所を建造してそれに応じた。


石岡の水力発電所新築を筆頭に、自溶炉、電気精製炉、鉱山プラントなどの「電気」と名が付く設備は全て面倒を見させられた。

鉱山の機器は、素性の耐久性が高くても、酷使され周辺環境も劣悪な場合が多く、結果として壊れやすい。


小平はかねてからの約束通り、機械修理のための部門を久原に作らせた。

40坪ほどの小さな「作業小屋」と呼ばれる日立発祥の掘っ立て小屋は現存し、日立工場の敷地内に保存されている。

その小屋を建てたはいいが、小平自身は尻の温まる暇などなく、当然、作ったばかりの作業小屋には何日も顔を出さなかった。

与えられた職工は5人。

この人数で、鉱山の過酷な環境で壊れる工作機器を修理していった。


ところで、小平にとっては理想的な状況が生まれつつあった。

故障した機器を直す、ということは、その機器を分解し、修復し、再度組み上げることである。

この課程で、技術者たちは着々と力を付けはじめている。


小平は久原鉱業所に入社した見習い工35人を選び、徒弟養成所と呼ばれる専修学校を開設して人材育成に入った。

「技術は親方の背中から盗め」

などとやっていた気風の残る時代である。恐ろしい卓見といえる。

小平は、「企業は人なり」を創業当時から一貫して貫いた経営者だった。

明治のこの時代には、希有な存在といえる。


第二次大戦後の一時期こそ姿を消したものの、現在もこの徒弟養成所は日立工業専修学校として日立という企業を人材面で支えている。




明治43年。


高尾直三郎という男は、小平と同じ帝大電気工学科出身で、日立鉱山や発電所のために飛び回っている小平の代わりに、製作所の面倒を見ている右腕的存在だった。

高尾と小平は、日立製作所の初作品である5馬力モーターに取り組むことになる。


「モートルを試作したい?」

「ええ。まずはなんでも作ってみませんと」

高尾が言い出したので、小平はもちろん許可をした。

モートルはモーターのことだ。


モーターは全ての電気の基本である。

ある意味、発電機ですら一種のモーターといえる。


磁力線を誘導することで電力は誕生した。その電力を、再び磁石を使って回転エネルギーに戻すのがモーターだ。

用途はそれこそ幅広い。

鉱山においては、荷物を地下から巻き上げて運んだり、他の工作機械の原動力となったり。鉱脈探査のドリルも、回転力が必要な機器の一つだった。


余談だが企業の遺伝子にモーターがある日立は、その後年、家電などに乗り出すにおいても、モーターを重視した。

扇風機、洗濯機、冷蔵庫、エアコン。

日立の得意とした白物は、いずれもモーターが自慢であった。


鉱山内の電灯という用途と並んで鉱山にとって重要な電気製品、それがモーターだ。

高尾は早速設計図面を引き、出入りの業者たちにモーターのケースや部品を発注した。


モーター部品の基本は、コアと呼ばれる鉄心と、それに巻き付けられた銅線によるコイルである。

コイルに電気が走ることによって生まれる電磁力を、コアの周囲に貼り付けられた磁石と反発させることによって回転エネルギーに生まれ変わらせる。

高尾は、自分自身でこのコイル巻きを行った。

何もかもが足りない製作所だった。

事務も経理もお茶くみも全て自分たちでやった。

作業小屋には、窓ガラスさえ入っていなかった。本当の掘っ立て小屋だった。

そんな環境の中で、高尾は3台の5馬力モーターを試作した。

結果、すべての試作品は完動を果たし、能力が久原に認められて、日立鉱山に納入された。

日立製作所の初めての商品となった。


小平たちは早速、日立鉱山において5馬力モーターを普及させていったが、5馬力ではトルクが足りない場面が多々あることに気づかされた。


「高尾君、早速だが、次は200馬力くらいのモートルも作ってくれないか?」

小平は5馬力モーターの製造と並行させ、よりハイパワーなモーターの開発を高尾に依頼した。


5馬力モーターはその後、幾度か仕様が変更されたが、少なくとも200台以上は作られたようだった。

高尾自身が試作した一号機は小平記念館に保存されている。

また、日立製作所内に保存された創業小屋や日立のモーター部門の心臓部といえる習志野事業所、それに日立市の郷土博物館などにも、5馬力モーターは残っている。

いずれも、何十年の役目を終えた退役品でありながら現在もきちんと稼働する動態保存だという。


相変わらず、ことあるごとに小平浪平は久原房之助に日立製作所を電気工業品の製作会社としてのビジョンを熱っぽく語り続けているが、久原は彼らの熱意と能力は認めているものの、投資については全く関心を示さなかった。

久原は、機械の修理やメンテナンスまでは前向きだったが、小平の目指す純国産工業というビジョンには明らかに否定的だった。

「買えば済むもんは、買え」

二言目には久原は小平に言った。

口には出さないが、久原は小平が、彼自身全く未知の「工業生産」を開始することを、

「全くの無駄」

と捉えていた節がある。

せっかく将棋の名人が、あえてわざわざ一から囲碁の修行をはじめるようなものだ、と言うような感覚で見ていたのかも知れない。

小平も粘り強く説得を続けたが久原も容易に折れなかった。


だが、久原は、かねてからの小平の要求についに重い腰を上げることになった。

小平が望む機械製作工場の建造に、9万円の予算を付けたのである。

小平は、この資本金で日立村の芝内に、およそ4000坪の工場を建設することが出来た。

旧地名で言う所の「茨城県多賀郡日立村大字宮田字芝内」、現在は日立市となっている。

余談を挟むと、日立製作所にあやかって日立市と名付けたように巷間広く流布しているが、誤っている。事実は、日立製作所こそ、日立村にあやかって名付けられているのである。


工場の完成は明治43年11月。


「日本で使う機械は、日本製でありたい」

小平浪平の志した理想の第一歩が、やっと動き出したのである。




明治45年。

それはこの日立製作所にとって、まさに生まれた赤ん坊が「物心つく」ような時期になった。


社員は小平浪平ひとり、職工5人でスタートした掘っ立て小屋から、大字宮田字芝内に製作所を構えて、社員は33人、職工は360人を数えるまでに拡大している。


この年、小平はこの製作所を久原鉱山の工作課の一部門から、正式に「日立製作所」として独立した組織とする事にした。

資本関係から取締役社長は久原房之助が就いたが、製作所主事として、実質のトップは、小平浪平が就任した。

小平たちにとっては勇躍独立の気概であっただろうが、世間的に見ると、社内ベンチャーのようなものだっただろう。


小平はこの「独立」にあたり、設計部を馬場粂夫ばばくめお、工場長に高尾直三郎に任せた。




この年、仙台高等工業から倉田主税くらたちからが入社してきた。

旧制仙台高工は倉田の卒業と同時に東北帝国大学になった。名門といえる。

当然彼らにもまた、

「東京帝大、何するものぞ」

という気概がある。

ところが、倉田は「月給25円、社員」という約束で入社したはずだったのに、仕事はプレス工の主任。

遅れてやってきた辞令には「月給35円、雇員」と記されていた。パートである。

倉田は怒った。


小平の代わりに製作所の面倒を見る高尾直三郎の所に飛んでいき

「この辞令は受け取れない」

と憤然と叩き付けたのである。

ところが高尾も大したもので、「まあまあまあまあ、とりあえず受け取っておきなさいよ」

とそのまま倉田の懐に辞令を押し戻してしまった。

憤懣やるかたない倉田たち高工組をさらに激怒させる事件がその夏に起こった。


7月。


東京帝大電気科卒の新卒が5人、新たに入社してきた。

問題はその待遇である。

「月給70円、社員」

倉田の同期も、ぽつぽつと退社していくものが現れた。

倉田自身も、次なんかあったら辞めよう、次の会社を探すのが億劫だ、程度の理由で残留したに過ぎなかった。


小平にしたら、帝大卒の有望な若手を青田買いするための決断だったのだろうが、高専卒の社員の士気は最低だった。




この頃、日立製作所はモーターと合わせ変圧器を製造しはじめている。

この年入社した若手たちによって、交流電流計や電圧計といった商品もやがて商品群に加わるが、いずれにしてもまだこの時期は、久原鉱業の事業のための製品提供と、既存機器の修理やメンテが主な業務だっただろう。


くだんの200馬力モーターも、275馬力のブロワモーターなどを作り上げ、また、鉱山の動力のための交流発電機を、久原鉱業の求めで開発、納入している。


この頃。

日立製品にはトラブルが多発した。


久原鉱業の鉱山部門のトップである竹内維彦などは日立製作所に怒鳴り込み、人目を憚らず小平をなじった。

小平と竹内は小坂鉱山以来の関係だから、そのつきあいは長い。


竹内という人物は、自溶炉技術を見込まれて、小平同様に久原が直々にヘッドハントした人材である。

小平とのつきあいもまた、彼らが出会った小坂鉱山にさかのぼる。

小坂鉱山が廃鉱の危機から一躍再生を果たした要因の1人が、彼の能力だった。

自溶炉で全鉱山からの鉱石を一元で粗銅にし、電気精錬によって純銅とすることで、久原は大きく利益性を高めた。


小平はその、旧知である竹内の批判にじっと耐え、竹内が去ったあと、周囲の者達に

「もっと良いものを作ろう」

と語りかけた。

故障の責任を誰かに問うたりはせず、ただ励まし続けたのである。

「次は文句を言わせない良いものを作ればいいじゃないか」

と、小平はしょげる部下たちを励まし続けたのである。




この頃から、日立製作所は久原鉱業だけでなく、外部の発注を受けるようになっている。

当然トラブルは外部でも発生した。そのたびに、トップである小平自身が客先まで出向き、一軒一軒に詫びて歩いた。


本人たちは、良いものを作っている自負がある。

ただ外国から買ってきて組み立てるのではない。

自分たちで研究し、図面を引き、試作する。

それを検証し、改善して完成させている。


不思議なことだが、後に成功を収める人物や組織というものには、必ず創生期にこうした苦難の時期が訪れるものである。

相次いだ製品故障の次は、不況だった。




この年7月30日、明治天皇崩御。


大正に改元されるのと前後し、大不況がはじまった。

不況の原因は日露戦争後の国家的な資金難や政治不信など様々な要因があったが、銀行への取り付け騒ぎや、後には米騒動にまで発展するような脆弱で無策な国家運営が指摘されている。

創業直後に、こうして不況を迎えたことで、ただでさえ少なかった受注は底を突いた。

さらに、納品した機器のトラブルは続き、小平は常に、デスクの上に「進退伺」と書かれた辞表を置いて飛び回っていたという。


辛抱続きの大正。

だが、大正3年に第一次世界大戦が勃発した。

世界各国からの輸入は滞り、ついには、すでに契約されていた機器さえ、輸出入が途絶える事態に至っていた。

そうした状況の中、日立製作所では、交流電流計、電圧計などを製作し、販路を広げている。




「利根発電所が、困っているらしい」

営業が聞きつけてきたこの水力発電所のトラブルは、日立製作所にビッグチャンスをもたらした。

「つまり、発電水車はネジ一本に至るまで、ドイツのフォイトに発注していた、ということかね?」

小平は報告を読むと腕を組んだ。

「ええ。それが、この大戦のせいで完全に行き詰まりました」

部下からの報告を聞いて状況を調べ上げた大谷敏一が資料を示す。

発電機自体はアメリカのGEに発注し、これはすでに現地に納品されている。

だが、肝心の水車は、すでにドイツを出ているはずなのに、この戦争のごたごたの中で、なんと輸送中に行方不明となったというのである。


示された指の先を見て、馬場粂夫が唸った。

「うーん、一万馬力、かあ」

正直、馬場にとっては、想像すら出来ない規模の発電機である。

言うまでもなくここに顔を揃える一同は、発電所の設備全てについての予備知識もあるし、小平をはじめとして、実際に発電所を建造してきた実績を持つものもいる。

だが問題は、日立製作所が、自社で全てを設計し、製造し、納入する。その全てにおいて一切の経験も、知識も、技術もないことだった。

馬場の表情は硬い。

もし誰かが一言でも「馬場、出来るか?」と聞いたら、馬場は「無理だ」と言っただろう。

それは、周囲に敏感に伝染している。

高尾直三郎は、すでに他人事のような顔で報告書を眺めている。

秋田政一や森島貞一と言った帝大卒の若手たちも、どこか絵空事のような内容に、思考が追いついていなかった。

「やってできない事は無いでしょう?」

大谷は妙に自信満面で力こぶを作った。

秋田政一はこのとき

(なんか出来る気がするし是非やりたいなあ)

と考えたという。

その秋田の視線が小平に向かったとき、その場の全員もまた、自然と小平に視線を集中させたのである。


「狙おうじゃないか」

その空気を一瞬で緊張させたのが、小平の一言だった。

「俺たちが常々いっている、まさにそのことじゃないか。日本人の手で日本人の機械を作る。これはその最高の機会じゃないか」

小平は続ける。

「どんなことにだって最初はある。やる前にくじける必要はないさ」


――自ら調べ、自ら造り、自ら試す。


日立製作所操業時からの理念である「開拓者精神」を象徴する言葉である。

通常、この規模のプラントを製造しようと思えば、まずは海外に技術者を派遣して数年にわたって技術習得に専念させ、ライセンスを外国企業から買い取って製造するものである。

だが、日立は、まず文献を調べ、自分たちで試作して、ものにしてきた。

その結果、先人たちが出くわした技術的な問題や壁に一つ一つ彼らもぶつかってきた。

楽な道ではないし、もしかしたら賢い道でもないかも知れない。

だが、そうでなければ拓けない道もある。


人、物、金。

全てに潤沢とはいえないこの日立製作所という、野望だけがやたら大きな会社にとって、理想に燃える彼ら技術者たちの「想い」こそが財産だったからである。




利根発電は、国内企業へ発電水車についてオファーを持ちかけていたが、どこからも色よい返答はなかった。

そこに、日立製作所という聞いたこともない企業から売り込みが来た。

当然、どんな会社か調べて見た。

変電器の爆発事故、コイルの焼き付け。不具合の話題がたくさん出てくる。

代表者は小平浪平。東京電燈の駒橋や久原鉱業の石岡をはじめとした多くの発電所を作り上げたエンジニアだった。

小平のことは、東京電燈で駒橋を作ったことも含め、利根の技師長の岡本はよく知っていたし、何より小平自身と面識があった。

誰が見ても無謀に思えるこの無名企業の売り込みを聞くに至った背景には、水力発電のエキスパートである小平が率いる会社だと言う点は当然にあっただろう。


発電所建設における基本的な能力はあると見ていいだろうが、問題は、本当に水車を作れるのか? という一点に尽きる。

企業としての背景は問題ないものの、やはりネックになるのは、製造経験もなく、設計図すら持っていないことだ。


「無謀だ」

利根発電は周辺業界や知識人たちに、日立製作所への発注について聞いて回った。

皆、笑い飛ばした。

当然だろう。聞いたこともない会社。創業間もない。

だが、利根発電側も困り果てている。

一つには、資金的な事情もある。

利根発電自体、公募した株式は満株にならず、経営陣が約束手形を切って設立された。

また、工事が見積もりを大きく越え、自己資金ではどうにもならず、銀行から借り入れをしてやりくりもしている。

発電所のコンクリート部分だけ出来て、心臓部である水車を悠長に待っているわけにはいかない。

ましてや、発注先は戦争当事者であるドイツの企業。

ただの納期の遅れではない。

戦争が終わらなければヨーロッパからドイツの貨物が日本に来ることなどあり得ず、その戦争は、いつ終わると見積もれるものではなかった。


「一基だけやらせてみたらどうだろう?」


利根発電は、日立製作所の熱烈なラブコールにほだされた。


利根発電も、すでにこの発電所からの送電契約が為されている事情があり、切羽詰まった状況だったと言って良い。

繰り返すが、業界関係者は誰しも、利根発電も日立製作所も無謀だと噂した。




日立にとっては未体験であるだけでなく、工場設備も、必要な機材が足りない。

ノウハウだけでなく、現実に作るだけの環境すらないのである。

その上。

「納期は5ヶ月」

じつに厳しい条件が利根側から示された。

利根にとっても、上手く行かねば会社の瀬戸際だ。


日立は受けた。


すぐさま設計に秋田政一と福元稔を充て、特に大型で作業の手間取りそうな外殻部分、ケーシングから図面を引き、全ての図面が出そろうのを待たず、五月雨式に次々と製造をはじめたのである。

道具もそろわぬ中、どうやって作ったのかを、日立工場75年史では、次のように表現している。


――足りないものは全員の協力によってこれを補い、未熟さはあくなき創意と工夫によってこれを助け、一品一品に心魂を傾け――


結局の所、熱意ある集団のエネルギーで力尽くで作った、ということだろう。




大正4年7月。

利根発電の現地で完成した水力発電所について、逓信省から検査官がやってきた。

能率試験のためである。

それまで聞いたこともない日立製作所という企業が、国内で自社が一から作ったと聞いた検査官の試験は、必要以上に厳重だった。

だが、結果は驚くべき物だった。

保証能率82%。検査結果は、84%の能率を叩きだした。

その結果を、当時の業界誌「工業」の記事は、興奮を隠さずに伝えた。


「能率においても調整率においても、はたまた、調圧率においても従来発表せられた外国最優良の水車と比較していささかの遜色もみない。これ日立製作所の名誉たるのみでなくまた実にわが機械製作界の一大慶事として誇るべき事績なのである。製作当事者の欣喜いかばかりぞや」


利根発電もこの結果を大いに喜び、残る二台の水車も、日立製作所に発注した。


ある人物や集団が世に出るときの逸話にはこうした感慨を抱くものがある。

信長の桶狭間や、秀吉の墨俣一夜城など。

どこかしらに、計算を越えた無茶と、携わる者達の死にものぐるいの努力が働いている。

それが、大いなる成功の福音をもたらす。

日立製作所もまた、このとき世の表舞台に立った。




大正5年秋。


倉田主税は小平のオフィスに呼び出された。

倉田は常々、小平に対して

「銅線を自社生産して下さい」

と具申していた。

同様の要求は多方面から出ていたらしい。

当時、日立製作所では銅線を古河電工に発注していたが、大戦の好景気の中、納品はたびたび遅れ、そのせいで日立の生産もまた遅れた。


「そもそも、日立鉱山は銅山だ。自溶炉から電気精錬まで社内で行っているのに、なぜその加工品である電線をわざわざ買い付けるんだ?」

という声は、久原鉱業からも挙がっていた。


倉田の前に座った小平は言った。

「お前がかねがね言っていた電線製造に日立製作所が取り組むことになった」

倉田は、ああ、俺の話を聞いて下さった、とぱっと顔をほころばせたが、次の言葉で蒼白になった。

「だから、君がやってください」


「……なぜ俺に?」

倉田の問いに、小平は即答した。

「君なら出来る、そう思ったからです」


倉田主税は、このときまで、いつ辞めてやってもいいや、という心根で毎日を過ごしていた。

以前にも触れたが、賃金と待遇に圧倒的な差を帝大組に付けられ、しかも、工場内ではどちらかというと縁の下の存在である型抜きの主任にさせられて、ふて腐れながらの日々であった。

彼をここに押しとどめていたのは、目の前にいるこの小平浪平という人物に対する憧憬や、辞めたあとの就職活動が億劫という消極的な理由のみだった。

その尊敬する人物に「やれ」といわれて、倉田は震い上がった。

昔話に出てくる英雄豪傑のような気分で、

「ではやってみます」

と笑顔で答えたつもりだった。だが、思い返すと、

「俺の声は震えていたかも知れない」

それほど、興奮と不安と責務の重さを倉田は直感していたのだった。


当時の日立は700人規模。

未だ大企業とまでは至らない状況だ。

そこに、本業と変わらない規模の新プロジェクトである。

社運がかかっている、といっていい。

その責任者を、年若い倉田が一任された。

小平という人は、ひとたび任せると、とことん相手を信じ、任せっきりにする所がある。

それは、任された側にとっては何より誇りであり、意気に感じるものである。


小平が「やれ」といったからには、電線製造機械を買い付けてただ工場を建てればいいわけではない。と倉田はまず考えた。

日立で全て造り、日立で工場を建てる、ということだ。

それが創業以来の日立イズムだと言って良い。


倉田は、電線製造について自分の足を使って徹底的に調べた。

昨日まで「つまらんことがあったらいつでも辞めてやる」と思っていた男が、これこそ男子一生の仕事である、と意気込んだ。


工場に必要になる機械なども丹念に見積もり、全て書類にした。

だが、小平が示した予算はわずか35万円だった。

倉田は見積書を片手に小平のオフィスに押しかけ

「もっと出してもらわないと出来ません」

と訴えた。

だが、小平は頑として納得しなかった。

「じゃあ、機材もウチの工場で作れ。今暇だから」

要するに、原材料だけ買い付けて、銅線を製造するプラントごと自社で作れ、というのである。


それであったとしても35万円は厳しかった。

倉田は奔走して資材も可能な限り安く揃えた。

また、圧倒的に足りない知識は、大学の教授を訪ねて教えを請うたり、技術的に関連のある企業の担当者にレクチャーを受けたりした。


そして、翌年の夏頃には、なんとか自社生産した工場機械を試運転させた。


試運転の際、ふらっと小平が倉田の背中から見守っていることがあった。

不思議なことに、なぜか故障やトラブルは、それまでうまくいっていてもそういうときにこそ起こる。

上手くやり遂げて小平さんを喜ばせたい、という倉田の思いは、常に裏切られる。


だが、小平は、苦情もアドバイスも何一つ言わなかった。

「苦労するね、しっかり頑張って」

ただそう言って励まして去って行くのである。

そうした信頼を感じるたびに、倉田の心は震える。

必ず、やり遂げる。

そう一念して、再び試験を繰り返すのである。


当時、日立が銅線を購入していた古河電工のみならず、住友電工や他の全ての会社では、銅線製造でもっとも重要なローラーなどの機材は100%外国製だった。

自社で作ろうなどと考えた企業は、日立以外他になかっただろう。

自社でどうしても作れない精度の一部の機材はやむなく購入したものの、倉田は可能な限り自社で内製した。

そのため、どうしても経験が必要な部分のノウハウが足りず、テストは延々と失敗を繰り返した。

最初のテストからわずかひとつき足らずの大正6年8月10日。

死にものぐるいで取り組んだ倉田の熱意に答えるように、荒引銅線の製造に成功。

翌9月には、平角銅線の製造にも成功した。

小平は、

「倉田君、ご苦労だったね」

と労った。倉田は、感無量で返す言葉の声が出せなかった。




明治44年に開業したときは売上高48万、純利益1万8千円だった日立製作所は、大正7年には前期で売上高300万円、純利益50万円を上げるに至った。

この年、日立製作所は、同様に久原鉱業傘下だった佃島製作所を合併する。

電気機器の日立に対し、佃島は鉱山機械や重機、それに日本初のクレーン製造工場を持つ工場だった。

この佃島の合併によって、日立は電気機械製造において、飛躍的に内製率を高めることに成功したのである。


また、好調な業績を背景に、従来から要望が多かった営業部門と共に、経営・管理部門などを含めた本社機能を東京に移転させた。

創業わずか8年。もはや誰の目にも日立製作所は飛ぶ鳥を落とす勢いに見えた。




大正8年11月14日。

未明に日立工場、出火。

消火活動の甲斐もなく、日立工場は全焼してしまう。

小平が東京本社から慌てて駆けつけたときには、すでに焼け落ちた工場の前で、呆然と立ち尽くしている社員たちが、所在なさげに迎えるだけだった。


小平自身も、膝から崩れ落ちそうな無力感に襲われた。

だが、その小平を不安そうに見つめている社員たちの顔を見ると、小平の心は激しく沸き立ったのである。


――どうも思わぬ大火で私もほとんど途方に暮れた。

どうしようか、こうしようか、いっそのこと製作事業を止めようかとまで思わぬでもなかったが、考えて見ると私はこの製作事業の前途に相当の自信を持っている。

ことに皆さんの一片ならぬ努力によってこれまでになったのであるから、これくらいの事でつまずいてはならぬ。

こんな事で落胆してはならぬと思い、色々考慮の結果、とにかく至急復興して営業を継続する事にした。




蕩々と語る小平の表情は、悲痛でも苦痛でもなく、穏やかなものだった。

今日まで積み重ねてきた全てを失った男の顔を、従業員たちは瞬きもせず見守っている。




――この製作所はこれまで、あまりに順調な発展を続け過ぎたので、私達に多少心に緩みが出かけた時であるから、この出火はまさに天が私達にお灸をすえたのではないかと思われる。

少々ひど過ぎたが、戒めのお灸であるから、ここで私たちは大いに発奮せねぱならわない。

我々はこの火事によって焼け太り、さらに一躍大きくならねばならぬ。

この意味において私達は悲観は禁物である。


どうぞ皆様も緊褌一番きんこんいちばん、特に奮闘をお願いする。

ついては復興を急ぐと共に第一番に契約中の製品を早く作って、お客へ迷惑をかけぬ事。

その間当分の内、作業の上に事務をとる上に色々の不便かあることと思うが忍んでもらいたい。


人間の強さとは、得てしてこういう時に現れるのかも知れない。

全てのものが途方に暮れ、明日どころか今日さえ分からなくなって立ちすくむ中、リーダーが放ったこの言葉が、わずか一年足らずでこの未曾有の危機から日立製作所を立ち直らせる原動力になった。


日立にとって不幸中の幸いだったのは、工場が全焼したにもかかわらず、工作機器の類いにダメージが割合少なく、わずかな修復で復旧が出来たことだろう。

社員たちは急いでバラックを建造して工作機器を運び込んで修理をして、急いで事業を再開することにした。


また、前年に第一次世界大戦が終結し、経済状況が世界的に激変した。

日本政府はその変化に対応出来なかった。

戦時中の欧米という輸出国の産業が滞ったことを背景にした日本国内の設備投資は、終戦直後から過剰投資となり、倒産する企業が後を絶たなかった。

加えて、金本位制下の時代、戦時中の金輸出禁止政策を日本政府は、読み違えと野党・対立勢力などとの摩擦によって読み間違え、結果として日本円の大きな信用失墜を招いた。

その上、世界的な金融恐慌が歴史上類を見ない規模で席巻した。

もちろん、経済的な基礎体力に乏しい日本などは、この波をもろにかぶった。


そうした背景から、これも日立にとっては不幸中の幸いだが、火災によって遅延した納品について、キャンセルが相次いだのである。




日立工場全焼という状況にもかかわらず、日立製作所は、翌大正9年、久原鉱業から正式に独立し、株式会社に改組することになった。

もっとも大きな理由は、親会社で会った久原鉱業とその傘下企業全域にわたる経営危機である。

久原傘下でわずかに好調だった日立製作所を独立させることで、総帥・久原房之介は、久原鉱業が銀行との取引が停止した後の資金調達を意図したのである。


大正8年の火災から真の意味で生産力が回復したのは、翌年4月頃だったらしい。

日立製作所がこれほどの逆境にありながらそれでも順調に売り上げを上げていけた大きな要因は、水力発電において、すでに国内のリーディングカンパニーになっていた強みがあったのだろう。

戦後の経済状況の中、石炭価格が高騰を続け、火力発電業界が大きなダメージを受けた。

当然、日本においては潤沢な水資源に目が向いた。

火力発電を水力発電が上回る状況の中、日立には堅調な発注があったのである。

また、動力の電気化も同様に推進され、結果として国内全域で、送電網の拡充が急がれた。

業態が、時代とマッチしたのである。




日立はこの後、発電プラント、変圧器、モーターと言った創業来の事業に加え、電気鉄道、化学プラント建設など様々な分野に多角化していく。

工場が都心から遠い茨城県にあった事で日立は関東大震災から辛くも逃れた。

震災からの復興のため、日立の受注は大幅に伸びた。

当時の日本を代表する企業群が、製造部門に大きなダメージを被ったためである。

小平が工場火災の折に言った「天の戒め」の時は終わり、大きく開花する時期にさしかかったのかも知れない。


その後、大正は終わり昭和が訪れる。

世界恐慌、親会社であった久原鉱業の破綻などに見舞われながらも、日立製作所はこのあと、その規模を急速に拡大していく。

黎明期から成長期を経て、安定した時代を迎えるのである。

実際は、このあと第二次世界大戦があり、日立もまた戦時統制に組み込まれ、結果として米軍の大空襲を受けるなど、幾多の困難が行く先には待ち構えているが、本稿が意図した「夜明け前の暗闇を、手探りで必死に生きる」男たちの姿については、すでに稿が尽きている。


小平浪平やその周囲の人物たちは、傑出した努力家ではあったが、必ずしもトーマス・エジソンあたりのような伝説性を纏った男たちではない。

その意味でも、これからの時代を創る世代にとっては、何らかの余韻を感じて頂ければ、本稿の冥利に尽きる。

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日出ずる国の夜明けの頃~日立製作所を創った男たち 式村比呂 @shikimura

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