後編

 カレーのにおいがしていた。

 腐る寸前すんぜんのカレーの臭いだった。

 それともあれは遺体の臭いか。暑い日だった。

 部屋にはカレー鍋の中身がぶちまけられていた。死んだ娘が吐いたものも。血の混じった吐瀉物としゃぶつだ。

 娘は全身を強く殴られ死亡していた。致命傷となったのは頭部への打撲だぼくだというが、全身がれ、内臓は破裂はれつしていた。

 ひどい有様ありさまだった。

 吐瀉物としゃぶつを調べるまでもなく、娘は空腹だった。カレーを作ったものの、食べてはいない。食卓に用意されていたらしき、割れた皿が二枚。近隣の百円ショップで購入された新品だった。娘が皿を買ったのを百円ショップの店員が憶えていた。

 暴行もされていない。その必要がなかったからだろう。

 娘の部屋にあるシングルベッドには二人分の体毛に体液。すぐその場のゴミ箱には使用済みの避妊具ひにんぐ

 娘を殺した男は、その娘の恋人だったのだ。

 そういうのを恋人というのならだが。

 アルバイト先のコンビニで知り合った男だっただろう。シフトによっては同時に勤務することもあったようだ。娘は田舎から出てきた大学生。男は地元の人間だが、大学にはほとんど行っておらず、バイト先のコンビニに通う回数のほうが、はるかに多い。しかし二人は同じ大学の同回生どうかいせいだった。

 それがきっかけで親しくなったのか。それについては調べは簡単につくだろうが、わかったところで結果に大した違いはない。

 娘は知り合ってまだ日の浅かったはずの男を自分の下宿に泊めてやり、その夜のうちに殺された。

 娘の下宿に現れた時、男はすでに殺人者だった。

 母親を殺して逃走していた。

 母ひとり子ひとりの、つつましい家庭だった。

 その家の台所にも、カレー鍋いっぱいのカレーが煮えたぎっていた。

 男は金属バットで母親を殴り殺し、それから風呂を使って着替えさえしている。殺害後、しばらくは自宅にいたということになる。

 それだけではなく、男は母親の遺体の転がる台所のすみで、昼食にカレーライスを食べていた。食べ終わったカレー皿が、流し台にそのまま放置されており、皿やスプーンからは男の指紋しもんが出た。

 その足で男は娘の下宿へと向かい、彼女と性交渉を持った。

 娘が買い物に出かけ、帰る姿を下の階の女が見たというのは、その後のことである。

 娘は男に夕食を食わせるため、食材を買いに出かけたのだった。

 ひとりぶんの食器しかない、質素な下宿だった。

 娘は男のために食器も用意したが、それが使われることはなかった。

 カレーの臭いがしたのだという。

 男は娘が夕食を用意する間、娘の下宿の寝床で眠り込んでいた。目をますと、カレーの臭いがしたのだそうだ。

 晩飯ばんめしがカレーライスだった。

 娘はあまり料理が得意なほうではなかったらしい。大学に通うため田舎の実家から街へ出てきて、初めて自炊じすいをした。いちばん自信をもって作れる料理が、カレーだったのだろうか。

 娘は買い物に出かける時にカレーの臭いがしたから、食べたくなって作ったのと、話したという。下の階の女が煮ていたカレーのせいだろう。

 階下かいかの女は出勤前にカレーを温め直していた。

 それが娘の運のきだった。

 カレーの臭い。

 殺人の動機もそれだった。

 男は確かにすでに正常とは言えなかったのかもしれない。晩飯ばんめしがカレーだったからという理由で、恋人を殺す男はいまい。

 たして彼らは恋人どうしだったのか。

 なぜ男は娘のところへ逃げたのか。

 なぜ女手ひとつで育ててくれた母親をなぐり殺したのか。

 その動機どうきもカレーライスだった。

 男の母親は、男がまだ小学生のころに離婚して以来、女手ひとつで苦労して息子を育てはしたが、料理は好まなかった。身持みもちが悪かった。母親が連れ込んだ男は時折ときおり、息子をなぐったが、それに見て見ぬふりをした。

 しかし結局、母親の男は誰も居着いつかなかった。母親はそれなりに懸命けんめいに働きつづけ、気分に余裕のある日には一週間分のカレーを煮込んだ。その余裕がない日には、コンビニでレトルトのカレーを買った。

 おふくろの味といえばカレーライスだった。カレーライス。カレーライス。カレーライス。

 カレーの臭いをぐと、反吐へどが出ると男は話していた。

 男はアルバイトをして自分で学費をめ、将来、教師になるため、苦労して大学へと進学したが、その日は突然来た。

 暑い日だった。

 母親はカレーをかき混ぜながら、背を向けたまま話したという。

 しょうちゃん、悪いんだけど、借金返すのにアンタのお金を使ったの。ごめんね、と。

 男はそこからしばらくの記憶がないと供述きょうじゅつしている。次に我に返ったのは、自宅の台所で母親が作っていたカレーを食べていた時だったと。

 母親が死んでいるのを見て、恐ろしくなって女のところへ逃げた。

 そして、そこでもカレーの臭いがして、気づくと娘が死んでいたというのだ。

 なんということだと、その供述きょうじゅつを聞きながら、島田しまだは思った。確かに人が人を殺そうという時、正気ではないだろう。正気ではないから人を殺すのだ。

 しかし弁護士は涼しい顔をして、犯人はその時、心神耗弱しんしんもうじゃくの状態にあり、正常な判断能力が欠如けつじょ、法的な責任能力がなかったと言った。

 それゆえ彼を罪には問わない。

 仕事であれば何でもするのだろう人は。弁護士は弁護するのが仕事だ。正気でなければ何をしてもいいのかという疑問符ぎもんふだけが残る。

 だがその問いに答えを出すのは刑事の仕事ではない。誰が罪人ざいにんか。それを決めるのは、島田しまだ職分しょくぶんではないからだ。

「カレー食いにいくか、小林。おごってやるぞ」

 親子ほど年下の相棒あいぼうさそうと、小林はにがい顔だった。

「よくこんな時にカレーなんか食う気になりますね、シマさん」

 非難がましく言われ、島田は笑った。義憤ぎふん苛立いらだっている若いのが、可笑おかしいのだった。

 自分も昔はそうだっただろう。犯人に、世間せけんに、腹が立った。実に様々さまざまなものに腹を立てていた。

「カレー食ったら人殺しするか、お前もためしてみろや」

 冗談じょうだんのつもりだったが、小林には受けなかった。

 ふられて帰ると、妻がカレーを煮て待っていた。

 あなたお疲れ様、と言って、妻は、ラッキョウの漬け物や、福神漬ふくじんづけをえたカレーライスを食卓に出してきた。

 いつも何気なく食べる妻のカレーが、今回ばかりはしみじみと、仕事疲れの胃にしみた。それはいかにも家庭の味で、腹を空かして帰宅する家族を待つ、一膳いちぜんの料理だった。

「これ美味うまいな」

 差し向かいの席につき、テレビで録画のドラマをじっと見ている妻に、島田は呼びかけた。

「お仕事、大変みたいね」

 ウーロン茶を飲みながら、妻はいつも通り、きわめてそっけなく言った。

「無理しないでね」

 うなずく代わりに、島田は黙々もくもくとカレーライスをたいらげた。

 事件は翌朝の新聞にった。

 カレーのことは、書いていなかった。


<完>

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カレーライス 椎堂かおる @zero

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