第2話 長局の同居人

 江戸城大奥はとてつもなく広い場所でした。もちろん頭では知識としてわかっていましたが、まさに聞くのと見るのでは大違いでこうして自分の足で歩いてみると、まるで長い廊下が延々とどこまでも続いているかのような錯覚に襲われます。

 ニの間から長局ながつぼねまでそれほど遠いわけでもないのですが少し迷ったのもあって、結局自分の部屋にたどり着くまでには四半刻しはんとき(※約三十分※)ほどもかかったのでした。

「えっと、長局、かわかわ……あ、ここですわね!」

 大奥には長局と呼ばれる奥女中の住む長屋が全部で五棟あります。一棟のことを『いちかわ』と呼び、私の住む『かわ』は五棟目の長局のことです。

 長局の中はさらに障子とふすまによって十五部屋に仕切られていました。部屋の入り口にはそれぞれ名前を記した紙が貼られています。五の側の中ほどを過ぎたころ、私は自分の名前の貼られた部屋を見つけました。


   『神無かんなつみの部屋』


 どうやら私の同居人は神無かんなさんというらしいです。どんな人だかわかりませんが、武家の女中は気が荒いと聞きます。せめて少しでもやさしい人だといいのですが。

 期待半分、不安半分といった気持ちで、こわごわと入り口の襖を開けました。

「失礼いたします……」

 意外なことに、中には誰もいません。

 長局の一部屋は間口三間まぐちさんけん、奥行きが七間ななけんありますが、そのまま使うには広すぎるので、大きく二部屋に分けられています。手前が六畳ほどの広さで、主に書斎や他の女中の応接に使われる半共用の場所です。奥が八畳ほどの広さでこちらが非番中のんびり過ごしたり食事をしたりする、いわば個人のための場所です。さらには奥にはもう一部屋と、梯子を上がって同じ大きさの二階もある造りになっているので、二人で使う相部屋と言ってもかなりの広さがあるのでした。

 同部屋相手の神無さんが、手前の部屋にいないということは、奥の間か二階にいるということでしょう。そう考えながら廊下から手前の部屋へと入ったとき、襖を隔てた奥のほうで人の気配がしました。

 やはり奥の間にいたようです。もう夕刻ですから、考えて見ればあたりまえのことでした。私は安心して部屋の中を進み、地白じしろに銀もあざやかな、花唐草はなからくさ模様の描かれた美しい襖を開きました。



「オボロロロロロロロロロロロロロロ」


「キャーーーーーーーーーーーー!!!!」



 うずくまるように体を丸めた女性が、かかえた黒塗りのたらいの中へおもいきり吐いていました。私はその光景を目にするが早いか、悲鳴をあげて逃げ出します。

 しかし六畳の部屋をまっすぐ突っ切り廊下まで出たところで、はっと立ち止まりました。もしかしたらいまの人は、何かの急な病にかかったのかもしれません。相部屋の人をいきなり見捨てて逃げ出すなんて、いくら驚いたとはいえしていいことではありません。

 他人のもどす姿を見たのはこれが初めてですが、意を決して私は再び奥の部屋へと戻りました。

 女性は同じ姿勢のまま、盥たらいの中へ胃の内容物を戻していました。その表情はとても苦しげで、こういうときどうしたらいいかわかりませんが、とりあえずその背中をさすってあげました。

「だ、大丈夫ですか? どこか気分が悪いのですか?」

「うええええ、………あれ? アンタだれだい? うっぷ、うええええ」

「気分が悪いならしゃべらないでください。わたくしは和宮様について京都から来た、摘と言います。今日から相部屋になる者です」

「ああ、アンタが話しに聞いていた……ちょっとまって、もう少し吐いたら楽になるからサ。うえええ」

 どうやら意識はしっかりとして、吐き気も治まってきているようです。ひと安心した私は、女性に問いかけました。

「どうしてこんなにもどされているのです? なにかのご病気ですの?」

 女性は顔を上げると、恥ずかしそうに笑って言います。

「いやあ……、ただの悪酔いさね。ちょっとさっきの宴会で飲み過ぎちまったい」


 私は、思わず女性の頭を強くはたいてしまいました。


「心配して損しましたわ!」

「あいたっ!」






 その後神無さんはもどすだけもどすと楽になったのか、吐き気の治まる頃にはすっかり落ち着いてけろっとした顔をしていました。

 元気になると神無さんは実にてきぱきと動く人で、もどした物を部屋の外の用所ようしょ(※トイレ※)に捨て、奥の台所で口をすすぎ(長局はどの部屋も北側の奥に台所と水瓶が用意されています)、ついでに顔を洗い、二階で着物を着かえて、下に降りてくる頃には、先ほどとは別人のようにさっぱりした身なりに変わっていました。私はそれをほとんど手伝いもせずただ見ているばかりでしたが、それというのも彼女の仕草が実に機敏で、不器用な私などが手伝おうとするとかえって邪魔になるように思ったからです。

 神無さんは私より頭一つ分くらい背が高く、ほっそりと大人びた顔つきをしていました。年のころは十七、八でしょうか。髪をばっさりと短く切りおとしていて、化粧もうすく、顔だけならまるで町人の男の子のようです。水浅黄みずあさぎさらしを着けて博多帯はかたおびを固めに締めています。他の大奥女中と同じく、神無さんも実に美しい整った顔立ちで、先ほどのようなことがなければ、初対面は誰でも彼女に好意を持つのではないかと思われました。神無さんにはどことなく男女を問わず人を引きつけるような魅力があって、あるいははいっそ男装をしてかつらをかぶったら、立派に歌舞伎役者として通用しそうです。

 黙っていればこんなに美しいのに……と私はうれしいような残念なような気持ちで神無さんを見ていましたが、彼女は私の気持ちなどどこ吹く風、目の前にどかりと音を立てて座り込むとあぐらになって、私の中でわずかに芽生えた好意を根っこから丁寧につみとってくれました。

「いやー、はっはっはっはっは! わるかったねい、会ってそうそうとんでもない姿見せちまった」

 初めからうすうす感じてはいましたが、どうやらこの方かなりがさつな性格のようです。

「まったくですわ。おおよそ考えうる限り最悪の初対面でしたわ!」

「はっはっはっは、おこるなって言っても無理な話だが、まあそう邪険にしないでくんな。それに考えようによっちゃあ、あたいっていう人間を説明がする手間が省けたってもんだ。まあ見ての通りの性質たちだから、これからひとつよろしく頼むよ」

「よくそう自分に都合よく物事をとらえられますわね……私早くも頭が痛くなってきましたわ」

「そいつあてえへんだ。なんか飲むかい? あいにく生薬きぐすり葛根湯かっこんとうしかないけどねい、百薬ひゃくやくちょうならいくらでもあるよ」

「結構ですわ。……って、そのお酒今どこから出したんですの!?」

「細かいことは気にしねえ気にしねえ」

 どこから取り出した徳利にさっそく口を付けようとしたので、あわててその手からひったくります。

「ああ! あたいのー」

「おだまりなさい! あなたどうしてさっきまで苦しんでいたのかもう忘れたんですの! これは没収です!」

「ちぇー、これからそいつで仲を深めようと思ったのに」

「お酒のせいで仲が崩れかかったのによくそんなこといえますわね! ああもう、ますます頭痛がひどくなりますわ」

 口をとがらして文句を言う神無さんに、私は頭を抱えました。大奥の女中がこんな人ばかりでないことを必死に祈ります。

 神無さんはなおも物欲しげに私の手の中の徳利を見つめていましたが、すぐにからっと快活に笑いました。

「ま、いいや、たしかに今日はもう止よしといた方がさね。あたいもちょっと飲み過ぎてたし……、おっとそうだ、あたいの紹介がまだだった。同室の神無かんなだ、これからよろしく」

 そういって神無さんがあぐらをかいたままぺこりと頭を下げたので、私もあわてて畳に手をつきます

「あ、こちらこそあらためまして、今日から同室となりました花園はなぞの つみですわ。よろしくお願いいたします」

「つみちゃんか、かわいい名前だねい。おっと、同室なんだし下の名前で呼ばしてもらうよ。あたいのことも神無でいいからさ」

「はあ……」

 顔を上げてしばらく神無さんを見つめていると、彼女はきょとんと見つめ返してきました。

「どうしたい、あたいの顔になんかついているかえ」

「いえ、そうではなく……あなたの名字は教えていただけませんの?」

 私が尋ねると、急に神無さんは笑い出しました

「みょうじぃ? あははははっ! そんなもんねえよ。強いてあげれば実家の『紀州屋きしゅうや』が名字になんのかな」

「ええっ! あなた、ちょ、町人ですの!?」

 もう心臓が口からとび出るほど驚きました。この驚きにくらべれば初対面で吐かれたことなど物の数にも入りません。もしいま座っていなかったら、ふらついて倒れ込んでしまったことでしょう。

「な、なんていうことですの。私生まれてはじめて町人と口をきいてしまいましたわ……」

「そんなに驚くことかねえ? 大奥にゃあ町家まちや出身がたくさんいるぜ」

「たくさん! いまたくさんとおっしゃいました!?」

「つみちゃん表情がころころ変わっておもしれえなぁ、あたい気にいったよ」

「どういうことですの!? どういうことですの!?」

 私はほとんどパニックになりかけていました。

 だって御所では限られた貴族しか殿中でんちゅうに上がることは許されませんし、みかど女御にょうごに会えるのはさらに一握りです。なのに江戸城では町人が普通に大奥にいるとはいったいどういうことでしょう。

 混乱する私をよそに、神無さんはからからと笑っています。

「あっはっは、混乱してるねい、まあ確かに京都のお公家さんにはちっと説明が必要かな。

 もちろんあたいたちだってそのまま大奥に奉公できるわけじゃないさ、一応身分の高い武士の娘以外あがっちゃいけねえことになってるからね。でもそこにはちっとばかしからくりがあってよ。大店おおだなの娘なら賄賂まいないしだいで武家の養子になって、大奥に上がらしてもらえるんだな。あたいもここに来る前は一度、どこぞの武士の養女になったよ。もう名前も忘れちまったけどねい」

「どうしてそんなことしますの!? 江戸は武士の町でしょう、いくら何でも武家の若い女性がいないなんてこと無いなずですわ!」

「そこはほら、武士は喰わねど高楊枝ってやつよ。今時のお武家さんはみぃんな貧乏だからねい。大店の商家から金を積まれたら喜んで身元保証人になってくれるのサ。あたいら町人の娘としても一度大奥勤めをしたら恋文や縁談が降るようにやってくるからね。お互い得するイイ関係なわけさねい」

 神無さんの説明をきいて、私はあきれ果てました

「な、なんて野蛮な……。身分がお金しだいでどうにでもなるだなんて! これだから関東には来たくなかったのですわ!」

「まあまあ、そんなに目くじら立てなくたっていいじゃない。おかげでほら、あたいらみたいに妙な縁で生まれる出会いもあるんだからさ。考えてもみなよ。あたいは江戸の町屋の娘、つみちゃんは京都のお公家さん、普通だったら一生涯いっしょうがいあえっこない組み合わせだよ。あたいはこういう出会い好きだけどなあ」

「じょーだんじゃないですわ! だからあんな初対面になったんじゃないですの! 明日すぐにでも能登様に部屋替えを要求しますわ!」

 私が力強く決意すると、神無さんが半ばあきれた調子で言います。

「そいつあ無理ってもんだねい。ただでさえ手狭だった大奥が急に新しく千人近い女中を抱え込むことになったんだ。部屋の空きなんざねえよ。観念するこった」

「や、やかましいですわ! だいたいあなたの言葉遣いなんとかなりませんの? 出会ったときから思っていましたが、ひどく聞き苦しいですわよ!」

 もうほとんど言いがかりに近い文句でしたが、言わずにはいられませんでした。そんな私のいら立ちをぶつけても、神無さんは飄々として受け流します。

「家が材木問屋だったもんでね、出入りの職人が荒っぽいもんだから自然と言葉がうつっちまった。それにあたいは武家言葉ってやつが嫌いでね、御前ごぜんに召し出されたときはともかく、同輩といっしょのときくらいたいらにやらせてもらいたいのサ。すまねえが勘弁してくんな」

「そんな、ただでさえ関東は鬼の住むところときいてますのに、よりにもよって同室が町人、それもこんな野蛮な男言葉の方と暮らさねばならないなんて……」

「おいおい顔色が悪いぜ、まあ酒でも飲んで……って酒はダメなんだっけか。なら菓子でも食って落ち着きなって。ここにちょうど船橋屋のいいのがあるから……」

 神無さんが何か言っていますが、聞こえません。私にはもはや何が何だかわからなくなっていました。

「和宮さまーーーっ! わたくしいますぐ京都に帰りたいですわーーーっ!」

「おいおいちっと声がでけえよ、お火の番に聞こえたらしかられちまう」

 神無さんはいまさらあわてていました。いい気味です。かまわず私は叫び続けました。

「和宮さまーーーーっ! うわーーーんっ!」

「ああもう……しょうがねえ、そらっ」

「かずのみやさ――むぐっ!」

 大きく開けていた私の口の中へ、何かが差し込まれました。見れば神無さんが何か手に持って、私の口に詰め込もうとしています。なにがなんだかわかりませんでしたが、しだいに呼吸ができなくなって苦しいので、私も思わずそれをかじって食べてしまいました。

 噛んでみれば口に詰め込まれたそれは存外にやわらかく、甘い味もしてどうやら食べ物のようでした。とはいえ、いくら私の口をふさぐためにしても食べ物を詰め込むとはずいぶん乱暴なやり方です。一言文句を言うために口の中の物をよく噛んで飲み込もうとすると――、

「な、なんですのこれ! とっっっってもおいしいですわ!」

 それは今まで食べたこともないようなおいしいお菓子でした。こういう味を表現するのは苦手ですが、一口かじると歯切れが良くふんわりといい香りがして、餡子の味も甘すぎず砂糖のやさしい甘みが引き出されています。といって口に中にしつこく残るような後味はなくて、あと千個食べても飽きないんじゃないかと思うくらい、おいしいお菓子でした。

 私が未知のお菓子に感動していると、なぜか神無さんがしたり顔でうなずいています。

「そうだろう、そうだろう。なにしろ実成院じつじょういん様へ献上された、船橋屋の練ようかんだからなあ。本当ならあたい達のところまで下がらないんだけど、ま、これが御膳検分役の役得さね」

「これが、ようかん……生まれてはじめて食べましたわ、おいしいですわ~~~!! もっともっと食べたいですわ!」

 先ほどまでの大騒ぎも忘れて、羊羹の味に酔いしれます。神無さんがあきれ顔で言いました。

「おいおい、こっちはうれしいがちっとおおげさだねい。公家のお嬢様ならこんな菓子あきるほど食べているだろうに」

「冗談じゃないのですわ。こんなお菓子を買えるお金があったら苦労はないのですわ」

「はっはっは、そいつあおもしろい冗談だ」

 本気で笑っているらしい神無さんを見て、今度はこちらがあきれる番でした。

 私はため息をついて説明します。

「どうやらなにも知らないんですわね。江戸の将軍家にまつりごとが移ってからと言うもの、公家の生活はそりゃあみじめなものなんですわよ。あなたはご存じないでしょうけど、みかどの食膳でさえ涙がでるほど貧しいのですわ。御所ごしょの食事で豪華なのは食器だけですわ。食事ははっきり言って京の市民より質素なんですわよ」

「へえ、天下のみかどサンがねぇ……」

 神無さんはゆるやかに相槌をうちます。

「ええ、でも古くからのしきたりで、予算はなくても献立はきちんと豪華な物を作らないと行けませんの、いったいどうしていると思います?」

「どうしてるんだい?」

「御所に出入りしている御用達ごようたし商人から生ゴミ同然の野菜くずや残飯をただでゆずってもらって、調理だけそれらしくしてお膳に盛りつけているんです。もちろん食べたらお腹を壊しますから、間違えて箸をつけないように上には紙を貼って本当の料理と区別しているんですの」

「ぎええっ!」

 私の話を聞いた神無さんは目をむいて驚きました。

「マジか!」

「マジもマジ、大マジですわ。徳川幕府になってから二百五十年間京の朝廷は、上から下までず~~~~っとそんな生活が続いているんですのよ」

 話していたらだんだんくやしくなってきて、思わずキーーッと着物のすそを噛みます。

 公家の苦労も知らず徳川家とくせんけばかりいい思いをして、ずるいですわ!

「はーーっ、貴族のお嬢様って言ってもいろんな苦労があるもんだね、いや恐れ入った。あたいは別になんかしたわけじゃないんだけど、江戸者えどもん代表として謝るよ。すまねえな」

 そういって神無さんがぺこりと頭を下げます。こういうとき自分が悪くなくても謝ってしまう神無さんの素直さは、元が町人だからでしょうか。

 私はあわてて言いました。

「いえ、こちらこそ先ほどは取り乱してすみませんでした。神無さんは悪くないんですから、頭を上げてください」

「そうかい? まあつみちゃんが許してくれるならいいんだ。仲直りのしるしだ。ようかんもっと食うかい?」

「いただきますわ!」

 自分でもはしたないとは思いましたが、おいしいものは仕方ありません。ありがたくいただくことにします。

 今度は神無さんも私の口にようかんを突っ込むようなことはなく、一切れずつ切ってお皿に乗せて渡してくれました。さらに彼女は長火鉢に載っていた鉄瓶からお湯を注いで、お茶も入れてくれます。

 最初の対面からずいぶんかかりましたが、ようやく私と神無さんの間にゆるやかな空気が流れました。大ざっぱでがさつだけどいい人、というのが今の神無さんへの評価です。

 ようかんをつつきながら、私は神無さんに尋ねました。

「そういえば先ほどちらりといってましたけど……、神無さんも御膳検分役なのですか?」

「ああ、あたいは実成院じつじょういん様付きのお毒味役だよ。大奥に来たのは去年のことサ」

実成院じつじょういん様ってどういう方なんですの?」

将軍家茂いえもち様の実の母君だよ。和宮様が輿入こしいれしたら、お義母かあさんになるんじゃないかい?」

「なんですって!? つまり和宮様のしゅうとめですわね! 和宮様がいじめられたら大変ですわ! お守りしないと!」

 私がそう高い声で言うと、神無さんはなぜだか笑いました。

「あははは、大丈夫大丈夫、実成院じつじょういん様はそういう人じゃないさ。大奥の権力争いよりお酒のほうが好きって人でね、新しく来た嫁をいびるなんて真似、あの人はしないよ」

「お酒が好きなんですの?」

「ああ、実成院様のウワバミっぷりはすごくてねえ。なにを隠そうあたいが毒見役に選ばれたのもそのせいなんだ。何しろ実成院様に出されるお銚子は全部一度は毒味をしないといけないだろう。実成院様の酒量についていくためには、あたいみたいな酒豪じゃないつとまらないって、直々にあの人から指名されたんだ」

 えへーん、と神無さんは胸を張っていますがあんまりいばれることじゃないと思います。

 といいますか、

「酒豪自慢をする割に、さっき潰れていましたわよね?」

「ああ、今日はしょうがねえんだ。なにしろ和宮様が大奥に着いた祝いの宴があったもんだから朝から夜まで飲みっぱなしでサ。実成院様が先につぶれてくれたから、どうにかあたいも抜け出せたってもんでね」

「……実成院様がかなりお酒好きだというのはよくわかりましたわ。」

 まったく、江戸の大奥とはこんな人ばかりなのでしょうか。いけない、また頭が痛くなってきました。

 それにしても、神無さんはずいぶん実成院様のことを信頼しているようです。

「さきほど実成院様は和宮様をいじめたりしないと力強く言い切っていましたが……ずいぶん信頼しているんですのね」

「そりゃそうさ、あの人はあたいを救ってくれた人だからね。ほら、あたいはこんな性格に言葉遣いだろ? 大奥に来た頃はそりゃあもう浮いちまって。実成院様があたいを見つけてくれてから、何かとかばってくれたおかげで今はこうして自由に生活出来てるのサ。あたいの何より大切な恩人だよ。ま、あの人はあたいのこと単なる飲み友達としか思ってないだろうけどねい」

「……ふーーん、そうですの」

 なぜでしょう、神無さんの話を聞いていたら、くやしくてくやしくてたまりません。

 私にだって和宮様という一生お仕えしたい相手がいますが、和宮様と私には、神無さんと実成院様のような特別な絆を示すエピソードはありません。和宮様と直接お話したことさえ、子供の頃に御所で遊んだ記憶があるだけで最近はほとんど口を利いたこともないのです。

 江戸の大奥ならば、私も和宮様付きの御小姓おこしょうになれたわけですからお話をする機会もあるでしょうけど、しかしどんなに和宮様と仲良くなれても、神無さんと実成院様のような関係にはなれる気がしません。いや、なるも気もないのですが……。

 でもすごく、うらやましいです。

 和宮様のことは心の底から尊敬して大切に思っている私ですけど、お側に近づけるだけで恐れ多く、それ以上の関係など望んだこともない私ですけど、それでも、神無さんの話を聞いたら、『ああ、私も和宮様と何の気兼ねなくお話してみたい……』などと不埒な妄想を考えてしまうのでした。

「……うらやましいですわ」

 気づけば声に出ていました。声に出してしまうとなおさらその気持ちが強くなって、むーっ、と頬をふくらませます。

「うらやましいですわー、ずるいですわー」

「へっへっへ、うらやましいだろう。実成院様は本当にやさしくて気さくで、おまけにすごい美人なんだ。あれこそまさに大奥一、いや、日本一の美しさだねい」

「あら、それなら和宮様こそ世界一、いえ、地球一の美しさですわ! あの美しさに並ぶ方などこの天下を見渡しても存在しませんわ」

「いやいや実成院様のほうが……」

「いえいえ和宮様のほうが……」


 しばらく二人で意見を戦わした後、どちらともなく見つめ交わしました。

 黙りこんだ私たちの間に、火花が散ります。


「……ああん?」

「なんですの?」


 神無さんの眉が凶悪にはね上がります。しかしこればっかりは私も譲るわけにはまいりません。

「よーし、そんなに言うならどっちが仕える主人のいいところをたくさん言えるか勝負しようじゃねえか!」

「望むところですわ!」

「一つ目! 着物センスがいい! 特に帯の選び方が絶妙!」

「一つ目! 和歌を作るのがお上手ですわ! 帝も御製ぎょせいを褒めるほどですわ!」

「二つ目! 調度品の選び方が……」

「二つ目! お付きの女官への気配りが……」

  ・

  ・

  ・

  ・

  ・

  ・







 やがて、夜中もとっくに過ぎてしらじらと朝日が昇る時刻になった頃。

 私たちの戦いは、まだ決着がついてないのでした。

 お互いぐったりと机に寄り掛かったまま、勝負を続けます。


「せ、1187個目……ハコセコ(※財布※)が天鵞絨びろうどに牡丹の縫い取りがしてある素敵なものを使っている……」

「……それ、たしか674個目と被ってますわ……」

「げ、マジか……あたいの負けかあ……」

「……もう、勝ち負けとかどうでもいいですわ……眠いですわ…………」


 そこまで言って、私と神無さんは同時に意識を手放しました。

 


 こうして、私は大奥に来た初日から散々な目にあったのでした。



                            (つづく)

                                      

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