エピローグ

薫り姫と鉄の城

「こんなはずじゃ無かったんだけどなあ……」

 ガリガリガリガリ、引っ切り無しにペンが紙を削る音が執務室中を埋め尽くす。

「ったくノイローゼになっちまうよ――、あ、これ持ってってくれます?」

 ペンのインクが切れたタイミングでシエルは大きく伸びをして、その時目についた歩き回る一人の職員を呼びとめた。何とか処理しきった大量の書類が部屋から運び出されていき、数秒後にその倍の量の書類が机の上に運び込まれる。

「おい!俺は今からこの空いたスペースでコーヒーを飲もうとしてたんだよ!」

「そんなに飲みたいなら喫茶室に行ってください!」

 キレたシエルに周りの職員が逆ギレを返す。「ブラックはコーヒーだけで十分だ!」とシエルはしめたとばかりに部屋を飛び出す。そんなことをしても自分の首を後から締めることにしかならないのだが、少し先の未来すら憂うことを良しとしないのがシエルの心情だ。鼻歌まじりに喫茶室でコーヒーを淹れていると「私にもひとつ貰えるか」と肩を叩かれた。

「いいっすよー戦場仕込みの時短淹れなんで、泥水みたいなもんですが」

 並々と注いだコーヒーを両手に振り返ると、其処には菫がかった青髪の男の端正な顔があった。思わずシエルは噴出する。

「――失敬な。不敬罪に処すぞ」

「いや、ここはコーヒーをブチ撒けなかった部下を褒めるところですよ、王」

 道理で喫茶室に人がいないはずだ。シエルはテーブルにカップを置いてこの城の主――マディスが席に着くのを直立して待つ。優雅な仕草で腰掛けてコーヒーを一口啜ったマディスは「成程、この不味さなら気付けにも使える」と感心したように呟いた。

「激務っすからね、それくらいのパンチがないと」

 シエルは涼しい顔で立ったままコーヒーを一口含む。大きな窓からは解体途中の風祭の塔が良く見える。どうやらマディスはここから進捗を確認していたらしい。

「どうだ、事務方は慣れたか?」

「まあ、元々隠密とか索敵とか、地味系の仕事が多かったんで。脳筋の奴等よりも向いてるみたいです」

「お前は鼻が利く。此処で仕事をしていれば嫌でも重用されるようになるさ」

 私についたのが何よりの証拠だ、そう言ってマディスは笑った。シエルは笑いもしない。

「単純に知り過ぎて外に出せなくなったって言ってもらって大丈夫ですよ」

 しばらく無言でコーヒーを啜る音だけがその場に響く。やがてカップを置いて、マディスが着なれない王宮での装いに疲れた顔を乗せたシエルを見上げる。

「――最近城下で流行りのお伽噺を知っているか?」

「ええ、薫り姫と鉄の城ですよね」

「やはりお前の知見は得難いな。城の者で知っているものなどいなかった」

「没落貴族ですから」

 シエルは自慢する風でもなくそう言って、片眉を上げた。

「……やっぱり、気付かれましたか……あの話」

「知り過ぎているお前にもわかったみたいだな」

 二人は視線を交わして同時に笑う。乾ききった、だが妙な連帯感を伴う笑顔。

「追手でも、出しますか?」

「いいや、自ら爆弾をつついてどうする」

「おっしゃる通りで」

 シエルは半分ほどの高さまで崩された風祭の塔を見上げる。襟元に留められた勲章が日の光を受けて鈍く光った。それは崩れた塔の瓦礫の中から見つかったもので、派手な色の絹や金箔は取り払われ、今は地金だけが残っている。シエルがたっての願いで譲り受けたものだ。勲章といっしょに古ぼけた屋敷とその屋敷の使用人であった年老いた女中も。

「よかったなあ、お互い望むものが手に入って」

 シエルはそう小さく呟いて、二人で勝ち取った勲章を撫でた。




 不思議な不思議なお伽噺。

 世にも美しく香しい匂いを纏う姫君と、たった一日で現れ消える鉄の城のお話だ。

 小さな小さな幻の国。

 誰もが出会えるわけではない。運が良ければ現れるのか、想いが強ければ現れるのか、心がきれいだったら現れるのか。それもわからない。

 何もない場所に、一夜にして小さな鉄の城が現れる。

そこには薫り姫と、姫を守る一人の騎士が住んでいる。

 もし君の前にその城が現れたなら、そして逢いたい、でももう逢えない人がいるなら。

 その黒鉄くろがねの城に近づき祈るといい。

 そうすれば、きっと薫り姫はその想いを叶えてくれるだろう。

 逢いたいと願う彼の人が、祈る君の手を取って笑いかけてくれるだろう。

 夜が明けるまで、彼の人と語り合うことができるだろう。

 たった一晩の逢瀬を叶える奇跡の姫君と、その姫が住む鉄の城。

 世界で一番小さな、幻の国のお話だ。

 不思議な不思議な、お伽噺だ。



                               おわり

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腐り姫と鉄の城 遠森 倖 @tomori_kou

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