祝福の風の匂いは甘く 11
ただそれだけのこと、フォルトはそれ以上言葉を続けない。彼が最初にぎこちなく空気を操っていたのは、決して力の使い方がわからなかったわけではない。
空気は、フォルトには軽すぎた。
鉄を操るようにすると無駄に力を放出して、空振りばかりしまっていた。それに気づいてわざと王の攻撃を相殺するように調整しながら力をぶつけ、鉄と空気の操作のギャップを埋めていたのだ。慣れてくれば、四十ガロンの鉄の質量と同じ質量の空気がフォルトの知覚の中で操作可能となっていた。
そしてそれは、王の操れる空気の絶対量よりも、多い。
十ガロンでは王に太刀打ちできなかっただろう。家族から継承した三十ガロンの砂鉄。あの悲劇があったから、今フォルトはたった一戦の内に、既に風を操る能力で王に肉薄していた。
上空で風が轟々と渦を巻き、今にも襲い掛からんばかりに唸り声を上げている。
王は上空の風の渦をどうにかすることを諦め、フォルト本人に攻撃を仕掛けてくる。フォルトの身体にいくつもの裂傷が走るが、四肢や首を落とすまでには至らない。それ以前に今のフォルトの顔には、首を落とされてもこの攻撃を止めるつもりはないという決意に満ちた表情が浮かんでいる。
王との一騎打ちという極限の状態の中でフォルトは風を練り上げることを覚え、強大な空気での一撃を与えるべくここまで耐えた。
すべては、主を守るため。
そして、主に仇なすものを滅するために。
「よくもアビス様の魂を愚弄してくれたな!戦いを望まぬ姫の向こうに世界の覇権を幻視する愚かな王よ。神の鉄槌、受けるがいい――――!!」
フォルトの凄烈な声と共に、鉄と同じ重さを持った空気が王へと打ちかかった。繭が大きく揺れて振り回される中で、アビスはそれでも目を閉じることなく、フォルトの姿を目に焼き付けるように見つめ続けていた。万華鏡の瞳から涙が一筋零れる。彼女が初めて流した涙は、瞳と同じ宝石のようなきらめきを伴って頬を伝った。
「ぐっ――ぐぉぉぉぉぉぉぉ――――!!」
叫びを上げながら王が風の盾で風の鉄槌を受ける。だが、絶対的に密度の違う風同士の衝突、すぐに結果は見えた。
ぴしり、と王の足元から不吉な音があがる。その音が引き金となり、蜘蛛の巣状に石の床に罅が入ると、王の周囲の床が一斉に崩れ落ちた。
「きさまぁぁぁぁl――――!!」
床を貫けても風の鉄槌の威力は衰えない。どごっ、どごっという音を立てて階下に王の絶叫が木霊していく。やがて一階に辿り着いたのか、穿たれた穴から吹き上がる風切り音が止まった。
ふらふらと王が墜ちた空洞の端まで歩き、フォルトが震える唇で呟いた。
「勝った……私が、守った……!!」
何も守れなかった自分が、初めて大切なものを守り抜いた。
「やった――――!!」
そのときのフォルトの喜びようは、その守護の対象であったアビスからしても驚くべきものだった。歓声を上げ、両腕を振り上げ、はしゃぎすぎて笑いながら血を吐く。普段は良く言えば穏やか、悪く言えば諦めきった顔ばかりしているだけに、今の明るい表情に周りがついていけないのだ。
「おっ、おい。わかったからそろそろ下してほしいの」
振り返ると繭に絡まって上手く動けないアビスの姿があった。フォルトは風の刃で繭を構成する綱を切っていく。すでに虚空による“誤認”が薄れてきているのか、刃の切れ味もかなり落ちてきている。
繭がほぼ解体し終わり、フォルトは腕を差し出してアビスを繭の中から抱き上げた。アビスが抵抗しないので、フォルトはその柔らかな体を抱えたまま、この数日間考えていたことを告げる。
「ねえ、アビス様の力が、愛される所に行きませんか?」
人の重みだった。恐ろしい腐り姫は、ふわりと霞のように軽いのでも、呪いを溜め込んだかのような重みもない、一人の女の子のしっかりとした重さをもっていた。
「貴女の力は、戦うためのものじゃない。貴女の魂は、死人の代替品となるためにあるものじゃない――」
そこでフォルトは数秒間呼吸すら忘れたかのように黙っていた。逡巡して何度も瞬きをし、それからそっと、まるで世界を止める秘密の言葉を教えるように薄く唇を開く。
「――君の存在は、滅びた故郷を守り続けるためにあるんじゃない」
アビスの瞳がまん丸に大きくなり、光彩が薄く薄く、硝子を張ったかのように透明になる。
少女の心を刺し貫く感触は、人の身体を刺し貫く感触と大差なかった。
「いや、違うかも」
自分の心が、ずくずくと痛い。針千本が心臓の内側から飛び出しそうなくらい。そうか、人の身体ばかり傷付けて強くなった気になって、人の心に触れることなんてフォルトはひとつもしてこなかった。
こんなに人と誠実に話すのは怖くて痛くて辛くて――幸せで嬉しい事なのか。相手の感情に触れて、必死で語りかけて、わかり合いたいから言いたくない事も言わなければいけない。敬語なんて使っている場合じゃない。フォルトの拙い言葉は今、綺麗なオブラートで包めるほどの余裕を持たない。
「ねえ、じゃあ……僕は?僕は何なの?」
死者を操ることにしか価値を見出されていなかった少女が問う。人形のように無表情だったが、今にも爆発しそうな感情が皮膚一枚の下で沸騰しているのが伝わってくる。
驚いた事に集落が滅んでいる事をアビスは問いただしてこなかった。知っていたのか、知らなかったのか、気付かない振りをしていたのか。その表情からは推し量れない。
「昔読んだ本に書いてあった風習で、ある国では死者が還ってくる時期を設けているなんてのがあったんだ。鎮魂じゃなくて、鎮まった魂が遊びにくるのを歓迎するためにですよ!それを祭りで祝うなんてのも!祖先が訪ねてくるから、もてなそうって考え方だそうで――――ねえ、アビスはどう思いますか?素敵な事だとは思えませんか?だって――君の力も同じなんだから」
「え?」
「力を制御とか、死体を操るだとか、そんな禍々しいものじゃないんだ君の力の本質は。まるで息をするように周囲の死者に仮初の姿を与えて、生者は一時の逢瀬を心から喜ぶ」
思い出す。最後に抱き締めてくれた感触を胸に生きる未亡人の暖かな涙を。
悲劇を嘆く事なく、穏やかな会話ができた、あの湿原での家族との時間を。
集落での、アビスを迎える死者達の温かい微笑を、喜びを。
フォルトの胸の上で縮こまって行き場を無くしたアビスの指先に触れ、呆然とするその瞳をしっかりと見据えて告げる。
「奇跡を起こす。貴女のそれは、ただそれだけの力なんです」
フォルトの言葉と共に、アビスの瞳にゆっくりと生気が戻る。頬に紅が差し、冷たく冷えた指先に熱が集まってくる。
「僕の力は、呪われた力じゃないの――?」
ああ、目の前の少女に自分の言葉が伝わっている。それがどれだけ嬉しいか。フォルトの心が芯から震えた。
「そうですアビス様、ここは貴女の世界で国なんだ。貴女が行く場所はすべて貴女の愛すべき国となり、世界になる。私はその君の国の住人として、貴女の世界を守りたい」
愛したいとまで言えたらどれだけよかったか――だけどまだ。
こんなに傷付いている女の子の弱みに付け込むような事、今言っていいはずない。フォルトはぐっと言葉を飲み込んで彼女の額にキスをした。
祝福あれ、この誰より大きな世界を外包する腐り姫を。
「さあ、行こう。貴女はもう自由だ」
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