水面に浮かぶ

黒松きりん

水面に浮かぶ

 一匹の若い山羊がバーに入ってきたとき、カウンターの中でマスターはしゃがんでいた。正確に言えば、腰をかがめて床にブラシをかけていた。熱心にこすっているために、つい前のめりになっていた。

 不意に鳴ったドアベルの音で顔を上げたマスターは、若い山羊がカウンターの席に腰掛けようとしているのを見て、一言放った。


「悪いけど、もう閉店なんだ。3時過ぎたら普通の客は来ないんでね。それともお客さん、幽霊か何かなのかい?」


ぼうっとしている若い山羊は、マスターの言葉を受け止めていない。


「お水でもいいので、一杯いただけませんか」


「だから、もう今日は店をやっていないんだよ。帰ってくれないか」


「帰れないんです」


「帰りたくない、の間違いだろ」


ふんっと鼻を鳴らして、マスターは容赦なく続けた。


「どんな事情か知らないけど、お嬢ちゃんみたいな人がほっつき歩いていていい時間じゃないんだよ。見たところ昼間の仕事をちゃんと勤めてるような身なりじゃないか。おじさんはもう歳だから、今更お嬢ちゃんみたいな可愛い子を捕まえてどうこうしようという気もないけど、そこに居座られちゃ店が締められないんだよ。帰ってくれ」


返事が出来ずに若い山羊はうつむいている。そのうちに、ぽたぽたとカウンターに雫が落ちた。すん、すん、と鼻をすする音が鳴り、だんだんと呼吸がしゃくれあがり、ついには「帰りたくないんです!」という叫び声とともに若い山羊がわぁっと泣き出してしまった。

 ため息をついて、マスターが言う。


「きついこと言って悪かったよ。そうだよな、女には優しくしなくちゃな」


手に持っていたブラシを壁に立てかけると、棚からグラスを出して氷を入れ水を注ぎ、号泣する若い山羊の前に置いた。


「お嬢ちゃん、それを飲んで、俺が店を締めるのを待ってな。もう終電はとっくに出ちまっているから、近場のハンバーガー屋に連れて行ってやるよ。あそこなら女一人でも、店員から見える位置に座っていれば大丈夫だから。携帯の電池はまだ持ちそうか?」


今や泣き止みつつある若い山羊はわずかに首を振った。


「じゃあ充電器も貸してやるよ。それでなんとかなるだろ」


ありがとうございます、と蚊の鳴くような声で若い山羊が応じた。若い山羊はそのままグラスに口をつけ、ごく、ごくと二口水を飲んだ。


「すみません。お言葉に甘えさせていただきます」


「おう。しょうがないよな。堅気の人でもそうやってヤケになりたくなることもあるもんだ。お嬢ちゃんだけじゃないよ。この店にはそういう人がいっぱい来る。お嬢ちゃんもまた来ればいいさ。ただし、開店時間内に、な」


はい、そうします、と苦笑する若い山羊の顔は入ってきた時よりも精気が戻っている。せっかく拭き終わったカウンターに、若い山羊が胃の中のものを吐き出すことはなさそうだった。マスターは再びブラシを手にとって床をこすり始めた。


 開店中に貯まった煙草の煙が、一番強い威力で回している換気扇の中にあれよあれよと吸い込まれ、店内の空気を浄化していく。カウンター8席、テーブル16席の小さな店の中は、照明が落とされ、様子が今ひとつはっきりと分からない。ただ、マスターの向こうに見える酒やグラスが入った棚はきれいに整頓されていて、この空間が丁寧に作り上げられてきたことを誇っているかのようだった。



唐突に話し始めたのは若い山羊の方だった。


「家に帰ったら、彼氏が他の女と寝ていたんです」


「ああ、そりゃあ災難だったねぇ」


マスターにとっては聞き慣れた話題だが、若い山羊にとっては一大事だったらしい。声に怒気を含ませながら、グラスをにらみつけるようして若い山羊は話を続けた。


「今日は職場の忘年会だったんです。明日は土曜だし、きっと遅くなるから先に寝てていいよって言ってから出勤しました。彼はバンドマンで、明日は久しぶりのワンマンライブなんです。いつもなら飲み会があるときは起きて待っててくれて、ときどきは駅まで迎えに来てくれたりもするんです。でも、明日は準備があって大変だろうから、あえて先に寝てていいって伝えたんです」


若い山羊の説明は、状況に対して混乱しているはずにもかかわらず、そこそこ分かりやすい順番で語られていく。


「そしたら一次会で、今年入った新人が課長にキレちゃって、二次会をやれるような雰囲気じゃなくなっちゃったんです。わたしの部署は女性が少なくて、じゃあ代わりにお茶でもって流れにはならなかったから、そのまま帰りました。そして家に着いたら、居たんです。あの女」


マスターが、おや、という顔をした。


「もしかして、友だちに寝取られたの?」


「友だちなんかじゃありません!!」


若い山羊が持っていたグラスをカウンターに叩きつけるように置いた。ゴツッとしたにぶい音がなる。わずかに水がこぼれた。その様子を見て、若い山羊が我に返る。消え入りそうな声で「すみません」と謝った。マスターは返事をしなかったものの、サッと布巾を出してカウンターを拭き、若い山羊の手からそっとグラスを取り上げた。しかし、先ほどと同じように氷を入れて水を継ぎ足し、コースターに載せて差し出した。


「ここ、俺の城だから。大事にしてくれ。グラスはコースターの上に置くもんだ」


はい、すみませんでした、ますます小さくなる若い山羊の頭上で、マスターが話の先を促した。それで、どういう人がいたの?


「彼のバンドのメンバーで、ベースをやってる子なんです。わたし、彼のバンドの飲み会に誘われて何回か参加したことがあったので、話したこともあります。美人といえば美人な子なんです。細身で、身長も高くて、染めてない髪をポニーテールにしてて、ライブで動くと本当に馬の尻尾みたいにバサバサ揺れるんです。でもその動きも合わせてリズムを取ってるみたいで、なんというか、全体的にバンドマンとして完成度が高い子なんです。だからこそ油断してたっていうか、あからさまにだらしない子だったらもっと警戒してました。いま考えるとそれがいけなかったんですよね」


若い山羊が、今度はゆっくりと水を飲み、静かにコースターにグラスを置いた。カラン、と氷がグラスの中で崩れる音がした。それがきっかけだったかのように、再び若い山羊がスンスンと鼻を鳴らして目を赤くする。しかし今度は、持っていたバックからタオルハンカチを取り出して、目の下を押さえた。はぁ、と一息つき、顔をあげてマスターを見た。


「すみません、こんなつまらない話をしてしまって」


「いいんだよ。まぁ、そういうことって世の中にいっぱいあるからさ。気になるとしたら、こんなに堅気なお嬢ちゃんが、なんでメンバーに手を付けるようなバンドマンと付き合ってたのかっていうことぐらいだ」


「わたし、学生の頃に彼のバンドでボーカルをしていたんです。何かのタイミングで、たまたまボーカルの人が風邪をひいたときに、もうお遊びになっちゃったから、下手でいいから歌ってよって言われて、そのまま1年くらいやりました。そのうち就職活動を始めたら、バンドは解散しちゃいました。でも彼はずっと続けていきたいからって、だから色々助けてたのに、こんな」


「あー、すまんすまん。そっか。なるほどな。じゃあ、お嬢ちゃんも何か歌えるんだ」


「はい、もう全然トレーニングしてないので、あの頃みたいな声は出ませんが」


「ここまで愚痴に付き合ったんだ。お礼に一曲聞かしてくれねぇかな」


マスターの言葉に息を呑んだ若い山羊は、無言でじっとグラスを見つめていたが、やがて、いいですよ、こんなことでお礼になるのならと、席から降りて立った。そして灰色の形の良いジャケットを脱ぎ、丁寧に畳んでカウンターに置いた。続いて、中に着ていた水色のブラウスのボタンを2つばかり開けた。そして、5センチほどのヒールが付いた黒のパンプスを踏みしめるように立ってスッと姿勢を伸ばし、いきます、と告げた。

 マスターが無言で頷いた。

 大きく息を吸い込んで若い山羊が歌ったのは、20年前に流行った、ある女性歌手のデビュー曲だった。自分だけをただ見つめていて欲しい、今すぐにキスして欲しいという内容の歌詞が、若い山羊によって歌われていく。タバコの影響ではなく、おそらく元々からのハスキーボイスが店の中に広がった。若い山羊は虚空を見つめて、ときおり手を伸ばしたり、首を振ったりして、目の前に大勢の客がいるように振る舞った。必死な様子と、歌詞の内容が今の若い山羊に似つかわしくなく、むしろ精一杯な表現が悲壮感を漂わせ、悲鳴をあげているようだった。

 Aメロ、Bメロ、サビときて、二番に入る前にマスターが「もういいよ」と言った。その言葉でピタッと歌を止めた若い山羊は、すみません、お耳汚しでと頭を下げた。


「ちゃんとお礼をもらったよ。ありがとう。それで、年寄りの戯れ言として一言聞いてくれるかい?」


もちろん、と若い山羊がジャケットを着直しながら応える。


「お嬢ちゃんさ、バンドやめてよかったな。向いてないよ」


ピクッと肩を震わせて、しかしすぐに脱力した若い山羊は、寂しそうに「そうですよね」とこぼした。


「自分でも下手だなって思ってます」


「あぁ、違う。お歌が下手だって言ってんじゃない。それは、俺には分かんないよ。うん、まぁ、確かに、たまに店で歌ってくれるプロの子たちとは違うよ。でも、たとえば、一緒にカラオケに行くのを楽しみにできるような、それくらいには下手じゃないと思う。俺が向いてないって言うのは、上手か下手かの話じゃないよ。お嬢ちゃん、とっても良い子なんだよ。まじめで、気遣いのできる、良い子なんだよ。今だってさ、最近の曲を歌おうと思えばいくらでも出来ただろ? それを俺みたいなおじさんに聴かせるからって、わざわざ手持ちの曲の中から古いやつを選んで歌ってくれたんだろ? そういうのってなかなかできないぜ。それに、お嬢ちゃんの話し方はしっかりしてるし、冬場の午前3時に路上で座り込むことを良しとしないで俺の店に入るくらいは分別があるよ。なぁ、お嬢ちゃん、芸事は狂気だ。暗い海の底みたいなところを、自分が考えた理想に向かって潜っていくみたいなもんだ。だから、分別があると進めなくなっちゃうんだよ。ある程度のところで止まっちまうんだ。これ以上進むことに意味が無いとか言ってな」


マスターは綿がたっぷりはいったダウンコートを羽織り、ポケットを探ってチャリチャリと音を出した。


「ただ、そういう分別があること、真面目だっていうことは、俺は素晴らしいことだと思う。そういう人たちが居てくれないと世の中回らないし、そういう人たちの地味な毎日が、俺の店を潤わせてくれる。だから俺は、真面目な人たちをみると愛おしい気持ちになる。それぞれの深さまで潜って、でも決して狂わない無難さが、輝いて見えるんだ」


カウンターを出たマスターは、じっと話に耳を傾けている若い山羊の横を通り過ぎ、店のドアに手をかけた。


「さぁ、お嬢ちゃん、もう行こう。これまで少し潜りすぎただけだ。一度水面まで顔を出して息継ぎすれば、また潜れるようになる。今度はお嬢ちゃんにあった深さで留まることができるはずだ。とりあえず、帰ったらそのロクでもない男の荷物を全部ダンボールに入れて玄関先に出しちまえよ。そいつ、どうせ家賃も払ってねぇんだろ」


ニヤッと笑うマスターに、泣きそうな顔で「ええ、払ってもらっていません」と答えた若い山羊は、コートとマフラーをきちんと身につけ、ドアに向けて歩き出した。コツコツとヒールが床に当たる音が、ドアの前で一旦止まった。


「わたしが、ドアを開けてもかまいませんか。自分で浮かんでみせますから」


開けられたドアから、師走の冷たい空気がザァっと入ってくるのにもためらうことなく、黒いパンプスが敷居を跨いだ。

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